金吾が畿内に足を踏み入れるのは、およそ三年ぶりのことだった。
 そのときも喜三太の伴という建前ではあったものの、教職を退くという土井を送り出すために学園へ赴いたことを思い出す。当時は学園で教師見習いをしていた兵太夫、土井が不在の間の借家を預かりつつ忍仕事をこなしていたきり丸、そして学園の穴丑として連絡を密に取っていた庄左ヱ門の三人からそれぞれに連絡を受け取り、慌てふためいて駆けつけたのだったと目を細めた。
 久し振りに顔を揃えた面々ではあったものの、退職式が始まってしまえばはしゃぐ気持ちもなくし、あられもなく声を上げて泣くことしか出来なかったと頬を掻く。
 まるで入学したての一年生のような自分達の姿に、今なお教職を続けている山田も、そしてその日送られる立場であったはずの土井までもが目尻を赤くしてグシャグシャと頭を撫でてきていた。
 見上げる懐かしい門が、その全てを先日のことのように思い返させる。
「大人になったってことかな。ここに入ったばかりのときは、三年前なんて遥か遠い昔のことだとばかり思ってたのに」
 自嘲しつつ、勝手口の前に立つ。短く息を吸い込むと僅かに呼吸を止め、意を決したように拳で三度叩いた。
 ほどなくしてかんぬきが外される音が響くと、ひょっこりと見慣れた顔が覗く。
「はーい、どちら様……って、わぁ、金吾! 久し振りだねぇ」
「お久し振りです小松田さん。お元気そうでなによりで」
「うん、まぁねぇ。ついさっき吉野先生に怒られたばっかりなんだけど元気にはしてるよ。今日はどうしたの? 山田先生にご用事? それとも笹山先生かな」
「いえ、そのどちらでも。まずは学園長にお取次ぎ頂ければ」
 手短にそう告げると、事情を察した様子でもなくへらりと入門表を差し出してくる。
 まさに先述した土井の退職式の日。前日から福富家に集まっていた級友全員と一度やってみたかったと実行した作戦が頭を過ぎる。正面から入門しておきながらもこれを振り切って学園に侵入したものの、四半刻も経たないうちに全員が捕縛されて激怒を買ったのだったのだと頬を引き攣らせた。
 入出門のチェック以外の事務仕事の腕はやはり残念で、そして忍者としての才能はやはり皆無であるものの、この一点に関しては突出した才能があるとしか言いようがない。
 三年の月日が経ち、自身もそれなりに風魔でやってきたという自負はあるものの、この事務員の能力はそれで太刀打ち出来るものではないと割り切って溜め息を吐く。入門表と共に差し出された矢立から筆を抜き取りさらさらと記入すれば、至極満足げな顔で中へどうぞと促された。
「それにしても今日は珍しいね。喜三太は一緒じゃないの?」
「あ……はい。ちょっと用事がありまして」
 隠し立てすることではないものの、さすがに門前で仔細を話すのは戸惑われる。誤魔化すように目を泳がせると、小松田は気にした風でもなく金吾に手を振った。
 ほうと息を吐き、なにごともなく辿り着いた達成感に気を緩める。
「学園長にお話して、与四郎さんを呼んで頂いて……その後、きっと旅準備があるから早々には発たないだろうし、久し振りに食堂のおばちゃんのご飯が食べられたらいいな。今日から明日にかけて、夜通し走ればその分の遅れくらいはどうにかなるだろ」
 呟き、長旅で少々疲れてしまった体をぐっと伸ばす。学園内においては周囲の気配に過敏になる必要もなく、むしろ相模とは別の郷里とでも言った風情で穏やかな雰囲気を纏わせた。
 そんな金吾の後姿を、同じく緊張感の欠片もない様子で材木を運んでいた癖毛の人影が目に留める。
 肩には束ねられた大縄を掛け、腰のあちこちに大工道具をぶら下げている。その上廃材で作ったと思しきそりの上には大量の材木と歯車が積み上げられていた。
 いかにも重そうなそれを顔を真っ赤にしながら引き摺りつつ、はてと首を傾ぐ。
「……アレ? ってもしかして……。あ、ねぇ小松田さーん!!」
 滝のように汗を流したまま、声を張り上げて事務員を呼ぶ。その声に反応し、素直にやってきた小松田が物珍しそうにその荷物を覗き込んだ。
「どうしたの兵太夫。ってそれ随分と重そうだねぇ、午後の授業で使う教材? 手伝おうか?」
「ホントですか、助かります……じゃなくて! 今の! 金吾ですか!?」
「へ? あぁ、うん。つい今しがた来てね、なんでも学園長先生にご用事らしいんだよ。喜三太は今回用事があったらしくて、一緒に来てないんだって。風魔の頭領も忙しいんだね。ヒラの事務員も大変だけど、あっちはあっちで大変なんだろうなぁー」
 暢気に目を泳がせる小松田の言葉に、視線を地面に落として考え込む。金吾だけがこちらに来て喜三太が来ないとは、いくら風魔の頭領としての仕事が忙しくとも妙な違和感のある話だった。
 喜三太が頭領に就任して七年間は一人での行動を禁じられていることは、前回集まったときに本人から直接聞いていた。しかも随行出来るのは金吾、もしくは山野のどちらかに限られ、実技と座学のどちらも教鞭を執る山野の身を考えれば、基本的に随行しているべき人間は金吾に限定されている。
 用事と言ってしまえば風魔の里内部のものである可能性も捨てきれないが、どうにも胸にざわついたものを走らせる話に、兵太夫はきらりと目の端を輝かせた。
「小松田さん、金吾は学園長の庵に?」
「うん。もしかして様子を見に行くの? 多分食堂にいたらそのうち会えると思うけどなぁ」
「残念ながらそれじゃあ意味がないんですよー。大事な話を聞ける気がするんですよね。……あ、すみません小松田さん。それちょっとここに置いといてもらえます? 壁際に寄せといて下さったら、あとでちゃんと取りに来ますから。それともう一つ! もう少ししたら、あと一人来ますから! 僕の部屋で待つように言ってくださいね!!」
 へらりと笑い、ろくに返事も聞かずに学園長の庵へと走り出す。久方振りに感じる高揚感に唇を舐め、ぱきりと指を鳴らした。
「騒動を感知する我らは組の勘、衰えてなけりゃあいいんだけどね!」
 土を蹴り、楽しげに側転してみせる。その鮮やかな身のこなしを偶然目にした玉子達から小さな歓声が上がると、兵太夫は得意げに手を振った。


  ■  □  ■


 学園長の庵では、神妙な溜め息が落ちていた。
「なるほどな。お前だけがくるとは妙とは思っておったが、まさか喜三太が捕らえられるとは……。弱点が多いとは言えど、アレを容易に捕らえるとはよほど相手は調べを重ねたのじゃろうな。もっとも一人で出歩くなと禁じられていたことをわざわざやってしまう辺りが、一番の失態であることに違いはない。ここにいた頃となにも変わってはおらんな、お主らはいくつになっても騒動から離れられぬ奴らよ。これも宿命と言うものか、どうにも落ち着きがなくていかん。巣立ってまで未だ騒ぐ若鳥か」
「……返す言葉もございません」
「当たり前じゃ。土井先生がご在籍なら、また胃を痛めてしまうところであったわ。……無論、ここにおらずとも胃を痛めることにはなりそうじゃがな」
 ふふと漏れた笑いに、意味も分からず眉間を寄せる。それを咳一つで受け流し、老翁は長い白眉の下から鋭い目を覗かせた。
「風魔の一大事とあっては、錫高野先生も黙ってはおるまい。午後の授業もまだ残ってはおるが、こういったことはなによりも優先すべきじゃ。錫高野先生と吉野先生を呼んできなさい。旅支度を整えるのも時間が掛かるからな、用具倉庫からいくつか忍具を持ち出せるようお願いしたほうがいいじゃろう。あとは食堂のおばちゃんに言って弁当を用意してもらうのが重要じゃな。一筆書いてやるからこれを持って、最後におばちゃんのところに行きなさい。弁当を作り終わるまでに相当の時間が掛かるはずじゃからな、その間体を休めておるがよい。万事準備が整う頃には恐らく、滞りなく出発できるはずじゃ」
 意味深長な様子でにんまりとした笑みを浮かべながら掛け軸を見遣った古老に一筆箋を手渡されるまま、どこか釈然としない面持ちで退室する。墨が滲んだそれを開くのもなぜか躊躇われて胡乱に眺めれば、背後から絶対に読むではないぞと忠告が飛んだ。
 こちらの思いなど見通しているとばかりのその声に引き攣ったまま、まずは職員長屋へと向かう。現在三年を担当している与四郎の部屋の木戸を叩けば、どうぞと明朗な声が返った。
 訛りのないその発音に、やはりこちらでは方言は使っていないのだと笑ってするりと戸を開ける。
「失礼します、与四郎さん」
「おー、ちっとそこで待てよー……。ん? おぉ!? なんだ、金吾じゃんかよー。いさしかぶりだなぁ! 達者にしてたか? おめーが来てってぇことは喜三太もどっかいんベーよ。学園長先生ンとこか?」
「はい、お蔭様で。 喜三太は、その、……少し事情がありまして。学園長先生がお呼びですので、それをお伝えに参りました」
 カラカラと笑う声に対して返答に窮すれば、与四郎が雰囲気を察したのか不意に目元の温度を下げる。その急激に変化した空気に思わず息を呑むと、先刻とはまた色を変えた笑みが与四郎の顔に張り付いた。
「そうか、学園長先生のところに行きゃあいいんだな。まぁなにがあったか大体の察しはついたから、そんなに緊張しなくていいぞ。夕刻にゃあ出るつもりだ。お前の準備は終わってるだろうが、ちっとばっかし待っててくれや」
 訛りのない言葉を交えて紡がれる言葉が、ことさら冷や汗を滲ませる。軽く肩を叩いて退室していった背中をゆっくりと見返り、緊張するなというほうが無理だと額を拭った。
 卓上に投げ出されたままの答案用紙を見遣り、せめて不用意に風で飛ばされたりしないようにと纏めて文鎮を乗せる。決して綺麗とは言い難いその筆跡達に、昔を重ねて苦笑を浮かべた。
 その後事務室へと赴き、吉野にも同様に呼び出しを伝える。こちらはにこやかな応答だけを返し、当たり前ではあるものの学園長に呼ばれたことになんら危機感も抱いてはいない様子だった。
 やがて、昼食時間も終わった食堂へと至る。
「おばちゃん、ランチってまだ残ってる?」
 昔と同じ口調で声を掛ければ、驚いた様子でふくよかな体が振り返る。
「あらぁ、金吾くん! 久し振りじゃないの。今日はなに、風魔のお仕事? 喜三太くんは一緒じゃないの」
「えぇ、ちょっと。あ、これ学園長からのメモです。色々あっておばちゃんにお弁当をお願いしなきゃいけないことになって……忙しいのにすみません」
 一筆箋を差し出せば、不思議そうに頬に手を宛がいつつそれを開く。しかしその文面を読むや否や表情を華やがせた母親代わりは、あらあらと嬉しそうに目を細めた。
「本当、これは大忙しだわ。材料は足りるかしらねぇ。まぁそれは午後の授業の間に買いに行けばいいから問題ないか。金吾くん、ご飯まだ食べてないんでしょう? お昼の一品物の材料が残ってるんだけど、有り合わせでもいいかしら」
「おばちゃんの料理ならなんでも!」
 問いに対してはしゃいだ声を上げれば、はいはいと笑って厨房へと向かう。かすかに聞こえ始めた包丁の音と油がはじける音を懐かしい心地で耳に入れ、金吾は腹の虫が鬱屈とした音を立てるのを右手で抑えた。
 やがて眼前に出された定食然とした膳に、勢いよく手を合わせる。
「いただきます!」
「はい、おのこしは許しまへんで」
 掻き込む姿を可笑しげに眺め、柔らかな姿がまた厨房へと戻っていく。しかし時折様子を伺うように覗いてはくすくすと楽しげに笑っている柔らかな姿をどこか照れ臭い気持ちでちらちらと確認しながら、金吾は久し振りに味わう懐かしい味に舌鼓を打った。
 小休止に味噌汁を一口飲み込み、深く息を吐く。
「あー……やっぱりおばちゃんの味噌汁は美味しいや」
「そう言ってくれると嬉しいわ。お弁当、おにぎりの具は大根の葉のお漬物と、おかかでもいいかしら」
「おばちゃんの漬物好きだから、大丈夫!」
 声に、厨房から弾かれたような笑いが返る。
「やだねぇ、そんなに褒めてくれたってなんにも出やしないわよ。それにしたって大変だねぇ、今日の晩にはもう発つんだろう? 学園長先生のメモには、これからまた相模へって書いてあったけど……。あら嫌だ、だったら重箱なんてお邪魔になっちゃうかしら。馬で行くなら気にもならないかとも思ったんだけど、そんなにたくさん馬を使うかどうか分からないものねぇ」
 手を打っての言葉に、小魚のてんぷらを口に咥えたままの金吾が体ごと首を傾ぐ。
「いや、重箱いっぱいも食べないと思うんだけど……」
「あらそう? まぁそりゃ金吾くんだけならおにぎり三つとちょっとのおかずだけでいいかもしれないけど、やっぱりねぇ……。どうしてもたくさんいるだろうから。捨ててもいいような、古いお重とかなかったかしらね。どこかにあったと思うんだけど」
 きょろきょろと厨房内を見回す姿に、果たして与四郎はそんなに大食漢なのだろうかと想像を廻らせる。確かに学生時代から風魔でも腕利きの忍としてやっていたことを考えれば無理からぬことではあるが、それでもそんなに食べるとは到底思えなかった。
 金吾が膳を綺麗に平らげる頃、やれやれと溜め息をついて与四郎が顔を見せた。
「おばちゃん、私にもお茶をもらえますか」
「あら、錫高野先生。午後の授業はいいんですか? 今日の授業が終わってからお発ちになるんだとばっかり思ってたんだけど」
 疲れた様子の、意外そうな顔をして丸い目が瞬く。その手が穏やかに湯飲みを差し出すと、与四郎は一息にその中身を飲み干した。
「っくぁー、うンめぇ! いやー、旅支度に手間が掛かるもんで実技の山田先生が授業を代わってくださったんですよ。あぁそうだ金吾、山田先生から伝言だ。ちゃんと助け出したら、おめーからも喜三太をよーっくうんならかしとけってよー。おめーが一人だってんでまぁじれってー思いもしたけどよ、まっさかリリーのばっ様があんだけせってたってーのに、一人であすびン行くたー思わンかった。そンでおらまで担ぎ出されるおーごとになってンだからよ、ちっとんべー反省してもらわにゃーなんねーべなー。あいつにゃーそーりょーだってぇ自覚がまだねーんだべ」
 金吾の向かい側にどっかりと腰を下ろし、与四郎が大きな溜め息を吐く。方言を使用していながらも先刻の殺気が滲むような雰囲気はなく、むしろ気を緩めての口調に金吾も胸を撫で下ろしたままその言葉に同意した。
「自分になにかあったとしても風魔にとってそんなに問題だと思ってないんですよね、あいつ」
「そこがえれー思いちげーだーよ」
「色々考えてはいるみたいなんですけどね。風魔の皆さんの考えと、少し食い違ってる部分はあると思います」
 困り顔でフォローを見せると、そういうところが甘いんだと苦笑を返される。言われてみれば確かにその通りなのかもしれないと、金吾は気恥ずかしげに顔を逸らした。
「あー、えっと。それでご準備は? いくばくかの着替えも必要でしょうし……」
「おーよ、それなんだがよ。学園長先生の話を聞いてっとなーんか変なんだ。馬力のある馬で行くことになるんだから、多少荷物が多くても変装道具も持って行った方がいいとかなんとか……学園にいる馬もそりゃあえー馬だとはおもーがよ、遠乗りできっほど馬力があるとも思えねーじゃん。どーもそこンとこのかんげーが読めねーンさ」
「……それ、さっきおばちゃんも言ってました。馬で行くと思ってたから、弁当は重箱で考えてるって。……与四郎さん、そんなに食べるんですか?」
「馬鹿ぬかすな、おらがそんなに食うわきゃねーべよ。でもおめーもそんなにおーまくれーには見えねーしなぁ」
 不可解な謎に、揃って同じ方向に首を傾ぐ。その様子を楽しそうに見守る厨房からの笑い声が聞こえると、やがて天井板が一つ、大きな音を立てて外された。
「その疑問には僕らがお答えしましょうかお二方!」
「って言うか思い当たらないなんて、は組失格だよ金吾ってば!!」
 ひょっこりと頭を出した懐かしい顔に、驚きも過ぎて間抜けな表情を晒す。それに反して与四郎はと言えば失敗したとばかりに額を叩いていた。
 くるりと前転する要領で降りてきた二人が、得意げに指を二本立てる。
「忘れたとは言わせない、学園勤務の笹山兵太夫でっす!」
「畿内に帰って来てたから学園に泊まる予定だった夢前三治郎でっす! 与四郎さん、金吾、お久し振りー」
 にんまりとした笑顔を見せた二人に、相模を発つ前に感じていた嫌な予感を思い起こして金吾が引き攣る。そしてそれは与四郎も同じなのか、思案するように目を泳がせていた。
「……僕、お前に会わないようにと思って動いてたんだけど……」
「あらまぁそりゃ残念。あいにく門のところでお前の後ろ姿を見つけてね、そのまま学園長の庵までついてったんだよ。掛け軸の後ろにある抜け道からずーっと話を聞いてたんだけど、気付かないとはねー。学園に戻ってきた安心感で、緊張感が抜けてたんじゃないの?」
 さらりと紡がれた真相に、そういうことかとガックリと脱力する。確かに学園長がちらりと掛け軸を見ていた気はしたが、そういった経緯だったとは思わなかったと頭を抱えた。
「仔細は聞いたからね、庄左ヱ門と虎若、団蔵、きり丸のところに鳩を飛ばしたから今日の夕方には他の三人にも事情が伝わってるはずだ。僕が学園教師になって良かったね! 穴丑にフリー忍者、それに馬借と鉄砲隊にはなにかと連絡を取らなきゃいけないこともあるからさ、鳩が仕込まれてるんだ。使い放題!」
 いい笑顔で親指を立てて見せる兵太夫に、良くないよと小さく呟く。畿内に来ることによって相模の騒動がさらに大事になる予感はしていたものの、こんな時にばかり的中しなくてもいいものをと溜め息を吐いた。



−−−続.