背負った風呂敷の僅かな重さに足を弾ませながら、喜三太は箱根の山中を足柄へと向かって歩いていた。
 日ノ本全土にその名を轟かせる湯治場とあって療養に来ている湯治客も多く、山中と言えども人通りは多い。それどころか足腰の悪い年寄り客のためにか山道には駕籠かきが多く場所を取り、道行く人間へしきりに声を掛けていた。
 足柄にはないその賑々しさに、思わず目元を綻ばせる。
 もちろん忍里の一つがこれほど賑やかだったとしたら、それは非常に問題なのかもしれない。しかし相模にある賑やかな一角と言えば箱根と金吾の実家である鎌倉程度しかなく、長らく畿内で、しかもすぐに賑わいある町に降りられる場所で過ごした喜三太にとって今の暮らしは少し寂しく感じられていた。
 忍術学園に転入する前には考えられなかった心情の変化に、贅沢な悩みだと頭を掻く。
「買出しに行く場所がもう少し近いと、相模もいい場所なんだけどねぇ。温泉は畿内のものより効く気がするし、田舎だから戦も少ない。忍がこっそり訓練するにはいい土地なんだろうとは思うけど」
 弾むように早足に歩きながら独り言を呟き続けていたためか、ふと足を止めれば周囲には既に人影はない。箱根の域を少し出てしまえばそこはやはり閑散とした山林でしかなく、カラスの鳴き声がよく響く静けさに包まれていた。
 元より湯治客が箱根を出ることなどほとんどなく、駕籠かき業者や土産物屋などもそういった人間を顧客として狙っているため足柄の方角になど出店はない。
 たった一人立ち尽くした山道。その周囲に、殺気混じりの気配が遠巻きに囲んでいるのを感じた。
「どうでもいいけど、忍者って山道を歩いてるところを狙うの好きだよねー。僕が過ごしきた場所が山の中ばかりからそれしか知らないってだけかもしれないけど、もっとバリエーションを増やせばいいのに。似たようなところでばっかり忍ぶのって面白みに欠けるよー?」
 至極つまらなさそうに呟き、懐に手を入れたところで違和感に眉間を寄せる。狙ってくるからにはなんらかの情報、それこそ風魔の頭領として後を継いだことを当然知っているはずにも拘らず、取巻く空気は今やどこか余裕さえ感じられるものになっていた。
 毒と幻術に長けた風魔。その頭領が懐に手を入れたとなれば、毒薬を用いようとしていることなど容易く予想出来るはずと、怪訝に目を細める。
 その表情を嘲笑うかのように、声が響く。
「今までの頭領だったあの婆ならまだしも、今の頭領は人を殺さぬ甘ちゃんと聞く。例え致死量には至らぬ毒を持っていようと、いつ誰が通るかも知れぬこんな場所で毒など使えるはずがあるまいよ」
「幻術にしても同じこと。惑わされぬよう気つけは済んでいる」
 低く押し殺された声音が、それでも木々の幹に反響して耳に届く。その言葉に得心したのかなるほどと溜め息を吐き、喜三太は諦めた様子で肩を竦めた。
「僕の考えはお見通しってわけかぁ。それで? 殺気はあるけど別に僕を殺っちゃおうって感じでもなさそうだし、どうしたいのかな。そっちの人数が三人くらいだったら、少しは抵抗してみたいなぁとか思ってるんだけど」
 窺い巡らせた視線の中で、人影が五つ蠢く。それを目にし、繋がった眉根を軽く寄せて両手を上げた。
「そっちの言った通り、まだ陽も高い観光地近くで毒を使うような非情さは持ち合わせてないよ。幻術対策もされてるってだけならまだしも、それだけ人数もいたんじゃ体術でも敵う気がしない。どこかに連れて行く目的かなにかでしょ? そこで美味しいご飯を出してくれるって約束してくれるなら、大人しく歩いてついて行ってあげるよ」
 にこやかにそう断言し、懐から薬袋を取り出して足元に落とす。無抵抗であることを視覚的にも強調した喜三太に、周囲の影はゆっくりと歩み寄った。
 忍装束も纏わず湯治客や駕籠かきの姿に変装した男達が、どこか安堵した様子で落とされている薬袋を確保する。
「物分りのいい頭領さんで助かった。若い内は血気に逸りやすいが、なんにせよ穏便に話を済ますのに悪いことはない。先程は口汚い言葉で煽ったりして申し訳なかった」
 中でも、一番の年長らしい中年の男が湯治客姿で目元を綻ばせる。その穏やかな言葉遣いにどこか肩透かしを食ったような形で、喜三太は首を傾いだ。
「……どちら様で、どういったお話ですかね?」
 問いに、笑んだ男の表情が不意に鋭さを滲ませる。
「我らカエンタケ忍者隊。ご存知の一件に関し、色好いお返事を頂けるよう再三の交渉に伺ったまで。無論ご所望の通り、食事は出来る限り美食をご用意させて頂こう」
 警戒心を与えない柔らかな声色で紡がれた城の名に、喜三太の表情が露骨に歪む。
「あのぉ……昨日もお断りさせて頂いたばかりだと思うんですけどぉ……。なんかもう、消費者センターに通報したい気分なんですよね、僕。そろそろ諦めてくれたっていいと思いません?」
 心底嫌気がさしている表情で正面切って愚痴れば、男も苦々しい笑みを見せる。
「申し訳ないがこっちも上司から言われた仕事なもんで。気は進まないんだけど、ここはお互いにプロの忍だ。ちょっとばかり付き合ってくださいな」
 僅かばかり砕けた口調で許しを請った男の言葉に、それもそうですよねと喜三太の口から溜め息が漏れ落ちる。城仕えの忍者には色々なしがらみもあるのだと理解しつつ、お菓子もお願いしますねと恨めしげに睨み上げた。


  ■  □  ■


 風魔の里は山村家を中心に俄かに騒がしさを増していた。
 静まり返った部屋の中、矢文として打ち込まれた一枚の手紙を中心に、リリー、山野、そして仁之進と金吾が険しい表情で向き合う。特に目や口が深い皺に埋まっているものの、リリーの顔は腹の底で煮えたぎる怒りで厳しさを増していた。
 無言の威圧感をちらりと横目に見遣り、山野が静かに唇を開く。
「見てわかっとーり、カエンタケ忍者隊からの文だ。どーしても同盟を組みてーってことでよ、喜三太に城まで同行願ったってぇ内容じゃ。怪我ぁねーってこったが、ここに文を寄越してるってこたぁ人質同然ってコスッカライ考ぇが透けて見えてらーな。アイツが同盟を承諾せんかったらどーなっても知んねーが、こっちの出方しでーでかんげーてやるってことだーよ。……やっけぇ言葉で書いちゃあいるが、脅迫と変わんねぇなぁ」
「風魔の頭領を人質に取り、か弱い婆を脅迫しようなどとは……なんと性根の腐ったおのこ共よ。こういった輩がおるからきちんと実力のつくまでは一人で行動してはならんと、あれほど言って聞かせたというのに……喜三太もほとほと呆れた跡継ぎよ。金吾、お主にももうちぃとばかり厳しく当たってもらわねばなるまいの」
 相手に対する怒りを滲ませながらも、リリーの口から可愛い夜叉子に対する呆れが漏れる。その皺の隙間からうっすらと煌いて見せた鋭い目に、金吾は射抜かれて背筋を伸ばした。
「はい。……目の前で見逃してしまったこと、責任を感じています」
「それはもう良い、済んだことよ。とにもかくにも、こうなってしまっては妾が表立って交渉に応じるしかあるまい。老いた婆と思い、侮って付け上がってくるやも知れぬがな。なに、相手の思うとおりに動くのも癪なものよ。……金太、仁之進。妾が文を書くゆえ、あちら側へ届けよ。何事もないよう時間を稼がねばならん。金吾は畿内へ赴き、与四郎を連れて参れ。大川平次渦正殿への文も持たせよう。事情を話せば足柄へ戻る許可を下さるはずじゃ。馬を伴わせようと言いたいところじゃが、風魔に馬は少ない。しかしお主の足なら、五日と掛からず着くであろう?」
 ちらりと流し見られた視線に逆らわず、頭を下げることで承諾を示す。それをリリーが再度見返る前に、金吾は物言わず部屋を出た。
 山村家内に割り当てられた自室へと入り、旅支度を始める。風呂敷を広げて携帯食を入れ、いくつかの小刀を揃えたときに深い溜め息を吐いた。
 昨夜睦み合う直前まで手入れしていた刀に指を滑らせる。
「……言わんこっちゃないってことだよな、これ」
 疲れ果てた息を吐き、頭を抱える。卒業して五年経ったものの、やはり騒動を引き寄せるは組の体質は変わっていないらしいと実感し天井を仰いだ。
「こんなことなら縄に繋いででも一人で行かせるんじゃなかったなぁ……。畿内に行くとなると、あんまりいい予感がしない」
 大事になってしまう予感に眉間を寄せつつ、まさに言っていた通り、自分だけが畿内へ向かってしまう事実に唇を笑みの形に吊り上げる。友人達に会う目的ではないと言えど、それでもなにかの切っ掛けがあれば全員が揃ってしまうかもしれないと含み笑いを漏らした。
 卓上においてある古びた忍たまの友に視線を移す。汚い字で書かれた自分の名前に苦々しく眉尻を下げ、とにかく今は警戒心の足りない風魔当主の救出に奔走するしかないと膝を打った。



−−−続.