仮にその読みが違っていた場合取り返しもつかない事態になりかねない。だが布団に腰を下ろしたままじっとりと睨み据えている城主と、その目線の先でそわそわと膝に目を落としている姿を見れば、そう決断した気持ちも理解できた。
 はぁと溜め息を吐き、喜三太の隣に腰を下ろす。
 それによって場に居合わせた全員が高さを揃えたのを見回し、老城主はわざとらしいほどに荒い鼻息を吐いて家老へと身を乗り出した。
「で、黒麻。儂の死後を考えてナギナタタケの若君の暗殺を企てた件、事実か」
 率直過ぎるまでに率直な質問だった。
 場の誰もが息を飲む。同席の侍達にも、その一言で先程の喜三太の弁の裏が取れたようなものなのだろう。誰からも仔細を問いただす声が上がることもなく、ただ静かに事態は流れた。
 事実上の乗っ取りを企て、結果ここまでの大事になってしまった以上は正直な答えが返るとも思えない。濡れ衣にせよ本当に謀略を巡らせたにしろ、まずは家老の弁解から入るだろうと誰もが予想していた。
 しかしその思いに反し。
「仰せの通りにございます」
 家老は床に手をつき、深々と頭を下げる。その展開に驚愕で目を剥いたのは、なにも家臣達ばかりではなかった。
「……おいおい、スピード解決?」
「えらく素直だねぇ」
 ひそひそと兵太夫と三治郎が囁き合うのを、金吾はその感想も至極当然と小さく呟く。
 先ほど庄左ヱ門の直感を聞いていたからこそあぁやはりと納得できたものの、こうなるであろうことすら予見していたかのようなその洞察力に、大人になった今だからこそ敵に回したくはないなと冷や汗が出た。
 そんな様々にざわめく周囲を余所目にただ一人、なんの不思議もない様子で城主はそうかと頷いた。
 そして次の瞬間、しわがれた手は小さな枕を引っ掴み、黒麻の顔面めがけて投げつける。
「ぶふっ!」
 投げたー!、と。
 誰の声も迸らなかったのがむしろ奇跡に近い。
 それほどまでに揃いも揃って、これに関しては庄左ヱ門すら同様に衝撃を受けた表情を晒し、呆然と老いた二人を見守ることしか出来なかった。
「こンのドたわけが!」
 びりりと肌を震わせるような怒声が響く。
「徒に戦火を招くようなことを企てよった上にあの子を傀儡になんぞしてみぃ、お前の枕元になんぞ立ってもやらんからな! 地獄に落ちてきたって顔も見てやらんわ! 孫の成長を楽しみにしておる爺からそれを奪うとは、まったく何様のつもりじゃ! 挙げ句に遠路はるばる畿内と相模の素破モンまで巻き込んだとは、とんだドたわけじゃわ!」
 癇癪でも起こしたかのように非常に立腹した様子を見せる城主の言葉に、黒麻はただただ申し訳ございませぬと繰り返すばかりで、頭を上げようともしない。それを見てようやくその関係性を理解してきたのか、元は組の面々は誰もが、あぁこの光景は見たことがあると苦笑で目を泳がせる。恐らくここにきり丸が同席していれば、居た堪れなさに家老の擁護に乗り出していたかもしれないとまで思えた。
 そしてその姿を見るに、今回の騒動の根底にあった部分がちらりと見えた気すらした。
「……喜三太、このご家老……」
「うん。……きっと、ご城主が死んじゃうかもしれないって、寂しかっただけなのかもしれないね」
 ぽそりと耳打ち、再度二人を見遣る。伏せた腕の隙間から覗き見える黒麻の顔は泣き出しそうにも見え、そして城主はそれすら見透かしているようにも見えた。
「……ねぇ、もういいよね?」
 喜三太が小さく呟き、ちらりと金吾、庄左ヱ門を見る。
 その視線の意味をはっきりと察し、それぞれに頷きを返す。それを見るや否や、柔らかな猫毛がゆるりと前へ膝を進めた。
「あの、お殿様!」
 未だ続く怒声を遮った声に、老いたといえど鋭さを失っていない眼光が喜三太を射抜く。一瞬それに怯むも、口籠ることなく忍び里の若き統率者はずいとさらに前へ身を乗り出した。
「お怒りは分かります! というか、僕もさっきまでものすごく怒ってました! でもその、お殿様が怒ってくれたんで、もうスッキリしましたし! 結局殺されることも、うちの里全体が巻き込まれることもなかったわけですし! 若様だって、若様の兄君だって無事でしたから! 結局なにも悪いことは起こってないんです!」
 子どものような言い草が未だ治っていないのが多少気恥ずかしそうではあったものの、この拙い言葉でもいくらか伝わればいいとばかりに捲し立てる。その唐突な切り出しに驚きを隠せないのか、垂れた目蓋をめいっぱいに開いて瞬く城主に、金吾が続いて進み出た。
「当方はこうして頭領も身を解かれ、事なきを得るに至りましてございます。調査の折に発覚いたしましたる若君の件につきましてもこうして白日の下に晒され、また、ご城主様は我らが朋友の手により気力を取り戻されたご様子。様々な暗躍、謀略はございましたが、結局は机上の空論となり果てました。察しますところ、黒麻殿は殿の体調を慮るばかりにこのような策略を巡らされたご様子。こうして足腰にお力が漲っておられる内は、二度とこのようなことはなさらぬかと考えます。ですからどうか」
「ふん、嵌められた者が嵌めた者を庇うか。しかしな若造よ、この大たわけがうちの後継者を阿呆に仕立て上げようとしたのは事実。であれば、ほぅそうであるかと見逃すわけにはいくまい」
「それに関しては、僭越ながら!!」
 慌てた声を上げ、それまで沈黙を貫いていた兵太夫が転がるように前へ出る。突然の反応に城主や喜三太、金吾だけでなく、隣にいた三治郎と伊助までが驚愕を見せたが、それに構わず現職の忍術学園教師は死でも覚悟したかのような表情で城主を見据えた。
「殿様、お願いします! 若様を僕にください!!」
「ほっ!?」
「はぁあ!?」
「ちょっと兵太夫なんてった今!?」
 最初に声を上げたのは城主。そして次いで金吾が素っ頓狂な声を上げ、最後に怒りに任せた怒声が三治郎から放たれた。
 無論、周囲も突然の出来事に目を白黒とさせている。庄左ヱ門すら事態の把握に表情をなくして固まっているのを見止め、あぁ言い間違えたと即座の訂正が入った。
「あ、えぇと、今の無しです。間違えました。つまり僕が言いたかったのは、その」
 一度言い切ったものの、やり直しはまた違う勇気を要するらしく兵太夫はもじもじと所在無く指を動かす。しかし誰一人その真意を汲めていないがために助けの手は入ることなく、再度その勇気が蓄えられるまで少しばかりの時間を要した。
 やがて、長い溜息の末に兵太夫が恐る恐る口を開く。
「……若様を、畿内にある忍術学園でお預かりできないでしょうか」
 ようやく言葉にされた申し出に、今度は元は組の面々と与四郎からもひっくり返った声が飛び出す。それに敢えて無視を決め込んだのか、兵太夫は堰を切ったように前へと身を乗り出した。
「忍術学園の内にいればよほどのことがない限り若君は安全です! しかも世の情勢にも詳しくなりますし、ご自分で身も守れるようになります! 人を見る目もつき、嘘を見抜く力もつきますし、なによりたくさんの仲間や先輩と交流を深めることも出来ます! そうなればもし仮にこのご家老がもう一度血迷われても、それを律することが出来るだけの器をお持ちになれるはずです! ですからどうか!」
「お……おう……?」
 唐突な展開に未だついていけていない様子の城主は、ただ気圧されるばかりで内容を把握しているとも思えない。それを理解し、興奮しきっている兵太夫の肩を乱太郎が叩いた。
「あのね兵太夫、一気に喋ってもお殿様には伝わってないから。情熱や考えは私達にはよーっく伝わったから、ちょっと落ち着こう?」
 どうどうと、まるで馬を鎮めるときの仕草に似せて冷静さを促す姿に、じわじわと呼吸を落ち着けるに至った兵太夫が静かに肩を下げる。未だ視線が定まらない老城主にやってしまっただろうかと顔色を青褪めさせていくも、その耳にコホンとわざとらしい咳払いが聞こえた。
「そういう説得なら、あとは僕が請け負おうか?」
「庄左ヱ門ー」
 勢い任せに話しすぎたことを反省してか、兵太夫の目にじわりと涙が浮かぶ。ごめんお願いと縋ってくる旧友に、分かったよと軽い口調で了解が返った。
「さて、興奮甚だしい当人の希望を受けましたので、もう少々噛み砕いた――入学勧誘をさせて頂きます」
 はっきりと勧誘を謳った庄左ヱ門に、そういう話であると頭を切り替えたらしい城主がふむと頷いた。
「教師を雇うのであればまだしも、せっかく娘から貰い受けた跡継ぎを勉強のために遠くに行かせると? 馬鹿な。儂もいつくたばるか分からぬのに、そんなことをしてなんになる」
「いいえ、カエンタケ城にも利益はございます」
 すぅと息を吸い、呼吸が整えられる。
「一に、忍術学園と申すはその名の通り忍者のための学校でございます。そのため外敵からの攻撃にはことのほか強く、侵入者は地獄の底まで追っていく強固な警備がついております。数年前まではそれも多少の綻びがございましたが、今やかのタソガレドキ忍軍の者すら侵入を戸惑い、終いには大人しく正面門から入ってくるほどとなっております」
「ほう。手練れ揃いと名高いタソガレドキの忍者隊が」
 タソガレドキの名に、城主は瞬時に興味を惹かれた様子だった。
 しかし庄左ヱ門の自信たっぷりな語り口に、実情を知る面々は多少の後ろめたさを感じてひそひそと囁き合った。
「確かに嘘は言ってないけど……」
「強固な警備って言っても小松田さんだしなぁ」
「雑渡さん達は面倒を嫌って入門表と出門表を置いて行ってくれるだけだもんね」
「なんだかんだせっても、周りン奴らがみぃんなやさしーからなぁ、忍術学園は」
 もっとも、この時勢を考えれば他の場所より数段安全であることは間違いない。それを理解しながらも言わずにはいられないツッコミを繰り返す声に無視を決め込み、庄左ヱ門は再度口を開く。
「二に」
 沈黙を強いるような強い口調に、囁き合いの声がぴたりと止まる。
「忍者になる勉強を積まれるということはつまり常人が暮らすには不要な知識……つまり各城や地域の状況、戦の動向、さらには市井の噂話をお耳に入れる術を学ばれるということ。これは若君がご領地をお守りになる際にも、また、他城との戦になった折にも非常にお役に立ちましょう。若君がこういった知識に詳しければ当然忍の扱いにも長け、すなわちお抱え召されている忍者隊との信頼もより厚くなります」
「ふむ……忍者の知識のぅ……」
 説明を吟味し、静かに思い悩む。その脇で黒麻はちらちらと城主の姿を盗み見、体に障りがないかを気にしているようだった。
 しかし城主は今回の件で立腹しているのか、その視線に反応を返さない。本来であれば重臣と相談して然るべき案件のはずだが、その気配は微塵も感じさせなかった。
 自身の巻いた種だけにまさに自業自得とは思うものの、献身的なその眼差しを見ると少しばかり同情心が沸き起こる。
「……ホントあの人、お殿様が好きなんだねぇ」
 ぽつりと落ちた声は喜三太からだったが、その音は金吾の耳にしか入っていないようだ。どことなく羨望すら感じられたその声色に横顔を流し見ると、やはり羨ましげな憂いが僅かに目尻を垂れさせていた。
 心臓を掴まれたような錯覚を感じるも、今は私情で話を乱すべきではないと口を噤む。けれど覗き見たその顔から視線を逸らすことは出来ず、金吾は耳だけで話の動向を見守ることに決めた。
 しばらく考え込んだのち、城主は顔を上げる。
「しかし忍者といえば人を謀ったりもするじゃろう。あの子は人の良い子でな、そういう事には向かん。言ってしまえば白い紙よ。もしそういう悪い友人が出来て、その方向に染まったらいかにする」
「うちの学園には知識的なアホの子はいても、ズルい悪い卑怯者の三種類の人間はいません、しません、出しません! ねぇ、錫高野先生!!」
「へ!? お、おぉ、そうですね笹山先生」
 学園生徒の人格を疑う発言に憤慨したのか、それまで大人しく沈黙を守っていた兵太夫が声を荒げる。
 その際、同じ学園勤務の教師として同意を求められた与四郎は、突然の呼び名に思いがけず弾かれたように体を強張らせた。
 先ほどまで使用していた相模言葉も忘れての反応に、周囲はこっそりと笑いを押し殺す。
「あぁ、えぇと」
 鼻息も荒く援護射撃を望む視線と周囲から漏れ聞こえる忍び笑いに、与四郎の手が頭を掻く。
「私も彼と同じく、その忍術学園に勤務している教師です。唐突に大切な若君を手放せというような勧誘を受ければ、ご心配もごもっとも。しかし学園生徒に関しましては、かなりの少人数を教師二人で担当しています。クラス同士の些細な諍いはあっても、苛めが行われた過去や、また、忍術を悪用するような類の人間を輩出した記録はありません。周辺の城からの評判も……その。忍者としては問題かもしれませんが、――騒動は招くがよい子ばかり、という認識を得ています。ここに関しては、お疑いでしたらドクタケ、ドクササコ、タソガレドキなどの各城にお伺いいただいて構いません。忍術学園とは敵対関係にある城ばかりですので、素直な評価を聞けることと思います」
 戸惑いながらも、恐らくは学園の入学前見学を思い起こしたらしく静かに語りだす。その語り口が静かで落ち着いたものだったことが説得力を与えたのか、城主は生徒の素行については納得した様子だった。
「なるほど。ならば疑いがあれば、そのように各城へ使いを出してでも話を聞くとしよう。しかしなぜうちの子をそこまで欲しがる?」
「――それはきっと、若君が好奇心に富み、良い殿様におなりになる器であると感じたからにございましょう」
 また、庄左ヱ門が話の主導を握る。
「私どものほとんどは……ここに座す、こたびの件の中心となっておりました風魔頭領と、その忍術学園にて同じ釜の飯を食らった者どもにございます。昔話になりますが、揃って勉学は不出来で、よく先生を困らせておりました。私どもが持ち合わせておりましたのは、他の友人達にはなかった並々ならぬ好奇心。おかげで危ない目にも遭い、いろいろな城から目をつけられることもしばしばございました」
 懐かしげに目を細め、今は遠くなった日々を唄うように言葉を紡いだ。
「しかしそれでも、園の柔らかな空気は私どもをこうして一人前の忍、または、その心得を持った者として送り出してくれました。各自の持ち合わせていた個性の中から適性を見定めて、巣立ってからも人の道を外れることのないように心を尽くして育ててもらいました。その優しい風を、この者は若様にもと思っているのでございます」
 言い切ってから、だよねと兵太夫を見返る。カラクリ技師は力強い首肯を何度も繰り返し、全面同意をはっきりと表現した。
 その様子は、元服して相応に年を重ねているはずの青年の姿でありながら未だ幼さを感じさせる。無邪気ともいえるその様を興味深そうに眺め、老城主はしわがれた唇が弧を描いた。
「どうするかはしばし調査し、あれを預けるに足るかどうかを調べる必要はあるが……まぁ、確かに面白そうな学校じゃわな。わしはまだこの目にはしとらんが、もしあの子が本当に勉強を好きになっておって、その功績がお主らによるものと言うたのならば……吝かではない話じゃのう」
 満更無碍にするつもりの窺えない言葉に、思わずその場で歓声が上がる。しかし今回の首謀者たるとなった黒麻のみ渋い顔を見せ、しかしと言葉を濁した。
 それを耳が遠いとは思えぬ耳聡さで聞き咎め、城主は荒々しく唾を飛ばす。
「あ!? なんじゃ、物言いでもあるンか、ドたわけめが!」
「あぁいえ、物言いなどというつもりはございませぬが……」
 不機嫌な眼光に射抜かれ、途端に恐縮してもごもごと口籠る。それだけの不興を買うことをしでかした自覚はあるのか叱られた犬のようになってしまった家老に、気の毒そうに乱太郎が声を掛けた。
「ご城主のお体のことでしたら、きっともう心配はいりませんよ」
 その言葉に、黒麻は弾かれたように顔を上げる。
「大事ないと!? あれほどまでに寝込んでおられたのにか!」
「はい。先ほどもお話しましたが、大元の理由は腰の痛みです。あとは正直、気の病でいらっしゃったご様子ですから。奇しくも今回の件で奮起なさって、それも吹き飛んでしまわれたようです。寝たきりのような状況が長かったせいで少し足腰が弱まって疲れやすくはなっていらっしゃいますが、それもどなたかと一緒に、段々と長く歩けるように練習なされば回復なさいましょう。これは私の見立てなので信用できないと言われればそれまでですが、若君がもし畿内にお越しになっても、その間にお殿様が……なんていう心配は、自然の流れではあまり必要ないかと思いますよ」
 信じられない顔つきで声を上げた黒麻に、乱太郎は患者の保護者に説明するのと同じ語調でにこやかに話す。
「お歳がお歳ですから、一度弱った足腰を以前と同じほどに戻すのははっきり申し上げて無理でしょう。だいぶ絞らせては頂きましたが、足も随分と浮腫んでいらっしゃいます。ですが少なくとも城内を歩き回ったり、座されてご領地の政策を決めたりは問題なく出来るはずです。それにお傍付きには適任の方がいらっしゃいますでしょう?」
 そこまで話し、乱太郎は喜三太に向かってぱちりと片目を瞑る。それがなにを意味しているのか理解していなかった喜三太もしばし首を傾いで思考を巡らせたところで、思い当たった風にあぁと声を上げた。
「そう、そうですよお殿様! お殿様がまだ現役でお治めになるなら、黒麻さんにずっとお世話をしてもらえばいいんです! そうしたら黒麻さんが悪いことをしないか見ていられるし、黒麻さんだってお殿様の体調を見ていられるんだし、いいんじゃないですか!?」
 高く声をはしゃがせて、さも妙案と手を打ち叩く。しかしそれには嫌そうに、城主は唇を尖らせて家老を流し見た。
「こぉーやぁーつぅーにぃー?」
「いやいや、なにもそこまで嫌な顔をなさらなくても」
 あまりの子供じみた仕草に、思わず苦笑で間を取り持つ。言われた黒麻はやはり申し訳なさそうに肩身を狭めるばかりで、城主不在の時とは丸っきり人が変わったように見えた。
 困り果ててしまった喜三太を見兼ね、やれやれと金吾が息を落とす。
「よもや黒麻様も、ご城主に危害を加えるようなことはなさりますまい。元より此度の一件、黒麻様がご城主を思うが余りに起こしたものと感じましてございます。そうであればこそ殿には直々に監視いただき、再発のないよう努めて頂きたく考えておりますが、いかがでございましょう」
 きっと城主も理解しているだろう真相を言葉にし、防止策の有用性を突きつける。そうすることで少しの冷静さを促し、一時の感情に任せて拒否していないかを再考させた。
 やがて、城主から低く唸るような声が漏れ落ちる。
「ぅぐ……確かに儂自らが目を光らせるのであれば、こやつがおかしな気を起こしても即座に見抜けるというものか……。まぁ、それはあれじゃな、うん。どちらにせよ、あの子が行くと言うかどうかじゃわい。それまでそんな話はせんぞ」
 子どもが不貞腐れている時の態度で唇を尖らせた城主に、誰もが忍び笑いで目を逸らす。謀反紛いのことを起こそうとも、黒麻はやはり長年苦楽を共にしてきただけにやはり憎からぬ家臣らしい。
 そんな内心を誰もが見透かしながらも、どうやら若君をこの場に戻さねばこれ以上の進展はない物と察したのか、団蔵はそろりと縁側へと抜け出た。
 先駆け、庄左ヱ門がまた一寸ほど城主の傍へ膝を進める。
「ご城主。これを」
 差し出されたのは一本の銭緡(ぜにさし) 。
「なんじゃこりゃあ。いかに老いさらばえたと言っても、素破モンごときに施しを受けるような覚えはないぞ」
「まさか。侮辱や侮蔑のようなつもりは一切。ですがすぐさまこれが必要になりますので、どうぞ一度お納めください」
 訝しげな言葉を受け流し、半ば無理矢理に袖の下に収めさせる。些か強引なその遣り口に理解の追いつかない周囲を脇目に、庄左ヱ門は団蔵へ顔を向けた。
 そしてそれを受け、所狭しと畿内を賭ける馬借の若旦那はその声量を如何なく発揮した。
「カエンタケの若様を連れてきた者には―! 殿様が褒美を取らせてくれるんだってさー!!」
 離れた城壁すらビリビリと振るわせ、木々すら思わず身を揺らすほどの大声が響き渡る。
 その後しばらく落ちた静寂に、カエンタケ城家臣達の目線がチラチラと蠢く頃。
 ばたばたばたと随分と騒がしい音が鼓膜を揺らし、やがて城壁の瓦を蹴って長い髪が翻った。
「ごーほーうーびーっ!!」
 およそ忍者らしくもない派手な登場で、きり丸が室内に滑り込んでくる。
 磨き上げられた銭のように輝く目が忙しなく在室している全員の顔を確認すると、その風格や纏う雰囲気で城主と判断したのか、まさにその人の前に音を立てて座した。
「若様一丁、お待ちっす!!」
「コラコラきり丸、若様は出前じゃないんだから」
 きり丸の肩にはカエンタケの若君が肩車の状態で座っている。しかしそれを下ろそうとする気配も見せず両手を差し出して犬のように待機する姿に、気圧されて城主は困惑の目を泳がせた。
 乱太郎の注意すら、今のきり丸には耳に入っている様子はない。そんな状態で、老城主の戸惑いに気付くはずもなかった。
 助けを求めて彷徨う視線のその先で、庄左ヱ門はそっと袖を指し示す。
 声に出さず、あれをと呟いた。
 弾かれたように了承し、城主は慌てて袖をまさぐる。
「あ、あぁ、おお。これ、これじゃな。よく連れ帰ってくれた」
 じゃらりと音を立てて銭緡が取り出され、きり丸の手に渡される。その重みにきり丸は歓喜の声を上げ、その褒美が庄左ヱ門の仕込みとも知らず輝く笑顔で両手を掲げていた。
 感激に浸るきり丸の背をするりと降り、若君は遊び尽くした顔で顔を綻ばせる。
「少々抜け出して遊んでおりましたが、ただ今戻りましたお爺様。この人達の言っていた通り、本当にお歩きになれるようになったのですね!」
 頬が紅潮するほどに楽しさを滲ませるその顔に、城主は途端、厳めしい表情を崩して好々爺のそれへと変わる。
「おぉ、よぅ無事に戻った。お前くらいのおのこはな、多少やんちゃに遊ぶくらいがちょうどえぇわい。楽しかったのならなによりじゃ。儂もな、この者どもにちょちょいと按摩してもらって、ホレこの通り元気になったわ」
 しわがれた腕で幼い頭を撫で、体調の良さを見せつけるように両腕で力こぶを作るポーズをとってみせる。それにキャッキャとはしゃいだ声を上げ、若君は無邪気に手を叩いてみせた。
「お爺様がお元気になられたこと、なにより嬉しゅうございます! 実はお爺様。私には一つ、お願いしたきことが出来てしまったのです」
 花のように頬を綻ばせながらも、どこかもじもじと祖父の顔を窺う。もしやという期待に胸を騒がせている兵太夫とまさかと訝しむ金吾達の前で、若君はやがて微かに唇を噛み締め、勢いよく城主へ向き合った。
「お爺様。私は、そこの先生の下でもっといろんなことを学んでみたく思います!!」 
 希望に満ち満ちた表情で高らかな宣言がなされ、周囲は引き攣り、水を打ったように静まり返る。
 まさか本当に起こり得るとは思っていなかった事態と、そして話を切り出すまでもなく若君からの申し出に、誰もが我が耳を疑った。
 無論その中で一人だけ――
 兵太夫だけはこの展開を予期していたかのように雄叫びを上げ、若君を抱え上げてぐるぐると振り回して喜びを表現し続けていた。



−−−続.