するりと襖の開いた音に気付き、既に眠りの淵に立っていた老人はゆっくりと目蓋を開く。闇の中にうっすらと浮かぶ赤みがかった髪に、曲者かと小さく呟いて枕元の刀に手を伸ばした。
 衰えているとはいえど確かな敵意を見せる姿に、影は恭しく頭を下げる。
「お待ちください、お命を頂戴しようなどと不遜な思いはございません。昨日お加減を診させて頂きました按摩……それに扮しましたる素破者にございます。御身に危害をつもりは一切ございません。ただご家中に煙る災禍の種をお伝えしたく、こうして御前に推参致しました。出来ますれば僅かな時間、この素破者の言葉にお耳を傾けて頂けませんでしょうか」
 詰まることなく語られた口上に、老人の細い目がぱちぱちと瞬く。
「按摩……。あぁ、確かに赤髪じゃったな。そんな何日も前から準備するなんぞ回りくどいことをせんでも、もうすぐ死ぬわい。それまで大人しく待てんのか」
「いや、だからお命を頂きに来たんじゃないんですって。せっかく頑張って口上したんですから聞いてくださいよ」
 按摩という部分以外を綺麗さっぱり聞き逃したらしい城主の言葉に、思わず先程の口調も忘れて普段通りに突っ込みを入れる。しかしそれに気分を害した様子もなく首を傾いだ姿に言葉を飾ることを諦めたのか、乱太郎はいつものように表情を和らげてもう一度頭を下げた。
「故あって畿内より参りました、猪名寺乱太郎と申します。ご子息……いいえ、本当はお孫さんですよね。若様の将来に大きく係わることなんです。ちょっとだけ話を聞いてくれませんか?」
「あの子になにかあるのか」
 若様という単語を口に出すと途端に起き上がって身を乗り出した老人に、乱太郎の目が嬉しそうに細まる。かつては戦好きで蛮勇を奮っていたという城主もやはり身内、特に孫に対してはここまで優しくなれるのだと満足げに一度目を伏せた。
「ご心配を現実のものにしないためにも、ご城主様には気力を取り戻して頂かないといけません。話を聞きながらで結構です。私の動きに危険を感じたら家臣の方を呼んで頂いて構いませんので、腰と足を少しマッサージさせてください」
 にこやかな進言に、城主はまたしても不思議そうに首を傾いだ。


  ■  □  ■


 宵闇の中、若君の寝室は散々な有様を晒していた。
 兵太夫が懐から取り出したからくりは素早い動きで足元を這い回り、カエンタケ城家臣を困惑させると、すぐさま三治郎の手に回収されていた。
 軽い混乱を引き起こしただけのからくりに、虚仮脅しかと嘲笑じみて吼えた男も今や疲れ果てた顔でぐったりと床に伏せている。むしろ床に伏せているのはこの一人のみで、よく床に倒れることが出来たものだと称賛の拍手を送る三つの影を除き、全ての人間が様々な格好と場所で力尽きていた。
 縄で雁字搦めにされ、天井から吊り下げられている者。壁から突き出た巨大な手によって握り締められている者。突如部屋に開いた落とし穴に落ち、中に設置されていた幽霊人形に気を失った者。上から落とされた大布を被り、四方を縫い止められて三人に乗られている者。  それ以外にもありとあらゆるものが床や壁、果ては天井に突き刺さり突き出て、それぞれに忍装束の男達が餌食となっている。
 その全ての罠を避け切り、力尽きて倒れている男。
「しっかし甘いなぁおじさん達も。こんな少人数で乗り込んでるんだから、何の下準備もしてないはずないでしょー。あのちっさいからくりはこの部屋に仕掛けた罠を起こすための最後の鍵だっただけで、あれでどうこうしようとは思ってなかったのに勝手に油断してくれちゃってさぁ」
「ここ、兵ちゃん考案の起動式からくり部屋の最新型だもんねー。ここにいるのが天才からくり技師って知らなかったのが運のツキってことじゃない?」
「在学中の一年の時に土井先生の家を改造した時も思ったけどさ……お前らホント躊躇なく人の家とか部屋に手を入れるから怖いよ……」
 きゃらきゃらと笑い飛ばす兵太夫と三治郎に額を抑え、伊助は深く溜息を吐く。火消し番の女中を眠らせて潜入して八日目。たったそれだけの間、しかも若君を寝かしつけてからの僅かな時間を使ってこれだけの大規模な仕掛けを作ってしまった忍術学園きってのからくり技師に、惨状を見渡して一人愚痴を零す以外どうすることも出来なかった。
「すいませんね。どこか怪我してたらあとでうちのお人好しが診てくれると思いますから、もうしばらくはそのままで我慢してください」
 下敷きにしている忍者を、それでも退くことなく上からポンポンと叩く。いいように扱われていることが悔しいのか、それとも単純に三人分の体重が辛いのか。どちらにしろくぐもった呻き声を漏らす男に、伊助はほんの少しだけ同情の表情を見せた。
 その耳に、ばたばたと大きな足音が聞こえる。
 天井から降りてきたこの男達と違い忍び足のなんたるかも心得ていなさそうなその音に、恐らくは城勤めの武士達だろうと見当をつける。そしてその読みはやはり外れることはなく、きり丸から伝え聞いていた黒麻の人相そのままの人物を筆頭に、鬼気迫る形相で十数人が部屋へ押し入った。
「ひっ捕らえろ! 若様を攫った曲者じゃ、腕や足の一本や二本は折っても構わん!」
 声の調子から鑑みるに、恐らくは真っ赤に紅潮しているのだろう黒麻の怒声をきっかけに男達が素早く兵太夫達を取り囲む。既に抜刀された刀を構えじりじりと間合いを詰めてくる侍達の気迫に少々危険なものを感じたのか、これまで余裕を見せていた三人が剣呑な表情で僅かに顎を引いた。
「……ねぇ三治郎。喜三太奪還の合図、鳴った?」
「伊助作の、音がデッカイ焙烙火矢の予定だったよね。……残念ながら僕は聞いてないなぁ。兵ちゃんは?」
「同じく。あれ、これもしかしてヤバい? やっぱ僕がトチッて早くバレたの、庄左ヱ門の計算外だった?」
 下敷きにしている男を踏んだまま、背中合わせに引き下がる。足元からは潰れたヒキガエルのような声が響いたが、今はそれを気遣う余裕などあるわけもない。なにより耐えるように体に力を込めているのが感じられている間は心配など無用だろうと都合よく解釈し、三人は唇を引き結んだまま短刀を構えた。
「久し振りに真面目な大ピンチ、かな」
 誰かが自嘲と共に呟いた瞬間、その鼻孔に火縄の臭いがよぎる。この狭く暗い室内でそんな物騒なものまで持ち出さなくてもと怪訝に身を寄せるも、いち早く周囲の気配に気付いた三治郎が僅かに蒼褪めた。
 自分達の他の室内の誰もが、予想外に漂う火縄の香りにきょろきょろと動揺を見せている。
 軽く舌打ち、素早く人差し指を舐めて風向きを探る。指に降れる冷たさが外周廊下側から来ていることを確認すると、風を読むに長けた山伏はこっそりと二人に耳打った。
「ちょっとずつ、部屋の奥に移動して。大丈夫。みんな臭いに気を取られてるから、僕達が少し動いたくらいじゃ気付かれないよ」
 密やかにそう告げ、揃ってゆっくりと後ずさる。やがて部屋の最奥と言える場所に差し掛かった頃、三人の移動など気にも留めていないらしい男達の向こうから、ぱちりと何かが爆ぜる音が聞こえた。
 途端、耳をつんざくほどの爆音が響き渡る。最初の小さな炸裂音の時点で慌てて耳を塞いだ三人以外はまともに爆音を聞いてしまったのか、耐え難い鼓膜の痛みを逃せずその場に膝をついていた。
 もはや自分達を取り囲む刃は床へと下げられ、このまま走り去れば追手もすぐには掛からない。しかしそれを理解した上で敢えて、三人はその場で溜め息交じりに廊下側の障子戸へと向き直っていた。
 闇の中、障子紙に人型がより濃く浮かび上がる。その影が四つ居並んでいることと、真正面に立つ影の長い髪がふわりと揺らめいたことを見止め、兵太夫は肩を竦め、三治郎は楽観的なまでに明るく表情を崩し、伊助は疲れ果てた様子で頭を掻いた。
「遅いわりにド派手な登場」
 呆れた声色は兵太夫から発され、それでもどこか楽しげに弾む。時を置かずするりと開かれた障子戸の向こうに見えた今回の騒ぎの発端に、三人はそれぞれに懐かしさと罵倒を含んだ表情を見せた。
 それを一切気付かぬ振りで、緊張感のない緩みきった声音が室内に入り込む。
「すいませーん、ようやく外に出られた嬉しさではしゃぎ過ぎちゃった。さっきの焙烙火矢、思ったより音が大きいんでビックリしたよ。皆さん、鼓膜大丈夫でしたぁ?」
 ヘラヘラとした緊迫感のない笑顔を浮かべて入室を果たした喜三太に、正体を知らぬ侍達は呆気に取られながらも動揺した表情を見せ、反し、黒麻はぎくりと肩を強張らせてわなわなと拳を震わせる。風魔の頭領さえ隠し通せればどうにでも立て直しようはあるとでも考えていたのか、あからさまに挙動不審に陥った家老の姿は、何も知らされていない侍達から見ても充分に怪しむべき行動のようだった。
 首を縮め、唇を噛み、目を泳がせ始めた黒麻を余所に、一人の侍が意を決した様子で一寸ほど身を乗り出した。
「……何者だ。ご家老となにか関係があるのか」
「っ、馬鹿者が! 曲者になにを……!」
「あぁ、はーい。そうなんですよー、実は僕、風魔の現頭領をやらせてもらってるんですけど、もう二十日ほどもこのお城に閉じ込められててですね。ここの若様の腹違いの兄上? を殺すのに協力しろって迫られちゃってたんですよー。しかも僕を人質にして、年老いた前頭領にですよ? 酷いと思いませんー? やっと助けてもらえたからいいようなものの、あと何日かで色好い返事がなかったら命はないとか言われててー。もう、ホントに生きた心地がしなかったんですからー」
 慌てて遮ろうと狼狽した様子の黒麻の声を掻き消し、喜三太はあくまでもヘラヘラとした表情を崩さずにさらりと言ってのける。
 その発言に、侍達の血の気が引いた。
「ナギナタタケ城の若君を、暗殺……!?」
 ざわついた雰囲気を見せはじめた御家人達に、黒麻の顔がじわじわと赤みを増していく。先程まで兵太夫達に縫い止められ、吊り上げられていた忍者達も分の悪さを感じ取ったのか、自力で脱出を果たしておきながらも今は襲いかかろうとはしていなかった。
「ご高齢で床に伏せられることの多いご城主に代わって自分が権力を握っちゃおうなんて、悪どいよねぇ黒幕エッヘンさん。しかも他の城と関係の薄い風魔に罪を被せて使い捨てにしようだなんて、あんまりですよねー」
 ひらひらと手を翻しながらも、薄く開いた目は喜色を称えることなく蔑みの色が強い。一族郎党を犠牲にしようとしたことに静かな怒りを溜めこんでいたのか、喜三太は唇を僅かな嘲りに歪めていた。
 そして忍者隊の沈黙と気まずげな目線の伏せ方に確信を強めているのか、次第に侍達をも疑惑と失望の目を黒麻へと向ける。
 それもまた黒麻の顔の赤みに拍車をかけ、こめかみに血管を浮き上がらせた。
「えぇい、どやつもこやつも曲者の口車に乗せられおって……! 儂がそのような謀略を働いていたなどと、なんの証拠がある!」
「だったらなんであの若様はろくな教育も受けてなかったんだ!! あの子は好奇心も旺盛で、頭もよく働く! ちゃんと勉強さえすれば立派な若君としての知識を取り入れていて然るべき歳なのに、僕が来るまで城下のことすら、両親と兄君のいる城の場所すらろくに覚えていなかった! 傀儡として育てる気だったの丸見えだろ!!」
 咆哮に似た怒声が、兵太夫の口を割って迸る。
 子供好きを自負し、幼少時の夢を叶えて忍術学園の教師として勤務している身には耐え難い現状だったのかもしれない。いっそ憎悪すら滲ませたその荒れた声音に、黒麻すら怯んで僅かに身を退けた。
「……まぁ、そーゆーこったぁな。きたねー腹積もりで若様をじぐどーにこせーよーとしてたんだろーけどもさ、せどはこれでバレちまった。どーすんべーよ? いっそオラ達みぃんなつらめーてみっか?」
 聞き取りやすい言葉ではなく、わざと相模の言葉を用いた与四郎は明らかに怒りを煽って嘲笑を見せる。怠け者に仕立て上げようとした腹積もりが発覚した以上は逃げ道もないと言い放った言葉の何割を理解したのか、黒麻はそれでも激昂に駆られた様子でわなわなと肩を震わせた。
 歳を重ねて老いさらばえた目がぎょろりと動き、風魔だけでなく、その場に同席するすべての人間に敵意を向ける。狂気じみたその目線に悪いものを感じ取ったのか、侍達が身を固くした瞬間だった。
「おのれ忍ごときが小賢しい……! ナギナタタケからの刺客仕事を働いたとして先にこのうつけの首を落とし、殿を丸め込んでしまえばよかったわ……!!」
 床板を蹴りつけ、刀に手を掛けた黒麻が喜三太の間合いへ一気に踏み込む。鯉口を切った刃がその勢いのまま首級を跳ねようとぎらつき、まさに血飛沫が上がるかと思われた。
 しかし当然、それが叶うはずもない。
 黒麻が動く気配を察していたのか、四半刹那ばかり早く喜三太の懐に入っていた金吾がその殺意を鞘で遮る。
 まさかこの距離でいなされるとは考えてもいなかったのか驚愕に見開かれた眼は、時を置かず、化け物でも目にしたかのように恐怖に引き攣った。
 その心情を知ってか知らずか、侮蔑と嫌悪の視線が黒麻を射抜く。
「それがどんなに近接であろうとも、賊が喜三太の懐に潜り込めば僕が挫く。だからこその」
「よっ、風魔の懐刀!」
「よりによってここで茶化すな!!」
 敗北を決定付けさせるための一言を囃し立てられ、金吾の首から上が羞恥に燃え上がる。しかしケラケラと笑い飛ばして憚らない同窓達は、怒鳴られてなお楽しげに肩を揺らしていた。
 どうにも締まらない展開に一瞬呆然とした黒麻だったが、はたと我に返り、同じく呆然としている家臣達の隙間を視線で辿る。額に浮いた冷や汗を拭いもせず忙しなく動き回る目は、どうにかこの場から逃走を謀っていた。
 その首筋に、音もなく鉄の冷たい感触が押し当てられる。
「逃げようってのは無理だよご家老。なんせこの部屋、四面のどの扉も果ては上下も、アンタが敵に回した奴らに囲まれてるからな」
 冗談めかした声で告げたのは、ニヤニヤと表情を崩した団蔵だった。
 その姿に学園時代、主に料理面で世話をかけてばかりだった喜三太の表情が華やぐ。
「わ、ひっさしぶり団蔵! 元気だったぁ?」
「おーう、当ったり前だろー! けどお前、そんなのん気な……」
 再会を喜ぶ声につられ、団蔵までも一瞬へらりとした表情を見せ、軽く手を振ってみせる。しかし即座に思い直して引き攣ったその背後から、にこやかではあるものの僅かな苛立ちを滲ませた声色が響いた。
「後でみんなからお小言される身のわりに、随分楽しそうでなによりだよ、喜三太」
 その声に、元級友達は誰もがひやりと背中を駆け上がる冷たい気配を感じずにはいられなかった。
 特に向けられた当人である喜三太は、一瞬で乾いてしまった喉を潤すために生唾さえ飲み下し、錆びついたカラクリのような動きで団蔵の背後に視線を送る。
「あー……庄左ヱ門。久し振りに会えてものすごーく嬉しいんだけど……、……怒ってる?」
「金吾や与四郎さん、リリーさんのそれに比べれば微々たるものだろうけどね」
 言葉に、金吾はそりゃ嘘だと引き攣った苦笑を張り付ける。隣に立つ与四郎も同じ思いなのかおかしそうに肩を震わせ、ぱちりと片目を瞑ってみせた。
 元級長の怒りを脅威と感じるのはやはり自分達だけらしいと年代の差を感じながら、しかし庄左ヱ門の足が黒麻の前へ進んだことで、改めて身を強張らせた。
「お初に御目文字仕ります、黒麻久柄兵衛様。某は此度の騒動を引き起こしましたる一味の頭にございます。少々お首回りが不快かと存じますが、僅かばかりのご辛抱を願いたく」
 柔和な表情で頭を下げておきながら、その大きな目は片時も黒麻の顔から外されない。外見からして未だ二十ばかりの青年でありながら、若武者のような威圧感すら感じさせるその視線に老いた喉が息を詰まらせた。
 それを見止めながら、庄左ヱ門は周囲をもぐるりと見回す。
「そこの粗忽者が少々派手を仕出かしましたるせいでこのような有様となりましたが、こちらは若君のご寝所と聞き及んでおります。この人数では手狭と存じますが、立ち話ではいかにも不遜。皆々様には少々腰を据え、ことの顛末をご理解いただきたく候。ほどなく我らの手の者が――」
「お連れしたよー」
 言葉が終わらぬ間に、無遠慮に木戸が開く。無論その場の全員が弾かれたようにそちらへ注目し、意図せずその的となった赤い髪は怖気づいた様子で一歩後ずさった。
「す、すみません! もしかしなくてもタイミング悪かった!?」
「いや、むしろちょうど良すぎたからこそだよ。ご苦労だったね、乱太郎」
 労いの言葉を掛け、背後の様子を窺っては微かに安堵の表情を晒す。その様子に役割を果たせた実感を得、乱太郎もまた少し肩の荷を下ろしたように眉尻を下げて恭しい態度で後ろを見返った。
 すすと脇にはけたとき、室内からはどよめきが上がった。
「と……殿……!」
 随分とのっそりとした動きではあったものの――
 乱太郎の背後から静かに室内へ足を踏み入れたのは紛れもなくこのカエンタケ城の城主その人だった。
 病床で床に臥せっているとばかり思っていた主がまさか自らの足でこの場に現れるなど家臣の誰一人思ってもいなかった様子で、そのために逆に不信感を煽られたのか、侍達は疑惑の目を首謀者であろう庄左ヱ門へと向けた。
 だがその手がじりじりと刀に伸ばされる前に、やめんかと制止の声が響く。
「この者どもに手をかければその方らの首を飛ばさにゃならんぞ。もっとも、近頃の儂の体たらくを知る者であればその反応も至極当然じゃろうがの。この赤毛の素破者、なかなかどうして、いい按摩の腕を持っておるわ」
 ひょひょと笑い、疲れた仕草で踏み荒らされていた若君の布団に腰を下ろす。まさかまた歩けるようになるとはと満足げに目を細めた老城主に、団蔵に動きを制されたままの黒麻が恐る恐ると声を掛けた。
「あの……本当に我が殿で?」
「あ? なんじゃ黒麻、もっとはっきり言わんか! なにを言っておるのか全く分からんわ!」
「本当に! 殿でござりますか!?」
 遠くなった耳を突き出して復唱を求めた姿に、即座に大きく、そして強調した言葉が返る。周囲の家臣達はと言えばそのやり取りの時点で城主と確信したのか半ば呆然とした様子でそれを眺め、いったいなにが起こったのかとこそこそと囁き合っていた。
 黒麻の言葉を理解した城主はあぁあぁと何度か頷き、そうじゃと重々しく息を吐く。
「お主が疑うのも無理はないがの、いかにも儂は老いぼれた城主よ。付き合いの長いお主に見違えられようとは思わなんだがな。床から起き上がれもせなんだ儂がここまで来れたカラクリはそこな素破者に聞くがいい。ちょいときつめの按摩をされたこと以外、儂にもなにが起こったのか分かっておらんのじゃ」
 やれやれと首を振った城主の言葉に、いえそのようなことはと慌てた弁解が黒麻の口をつく。居心地が悪そうに、または叱られる直前の子供のようにちらちらと視線を泳がせ始めた家老を見返ることなく城主は乱太郎を顎で指し示した。
 再度、場の注目は乱太郎へと移る。それを今度は照れ臭そうに受け止め、眼鏡の奥の瞳はにっこりと緩んだ。
「先日、潜入ついでにご城主に軽い按摩を施術させて頂いた時、腰と膝の骨がちょっとずれてるのが分かってね。えぇっと……あぁ、そちらの方! そこのお侍さんにお話をお聞きしたら、ちょっとハードなお仕事の翌日から数日病に伏せられて、それから起き上がれなくなったって話だったから。多分骨がずれたまま戻ってなくて、そのせいで痛くて起きられないんだと思ってさ。日数をかければ痛みなく元の場所にお戻しできたんだけど、急ぎだったからちょっとガギゴギさせていただいたんだ」
「いや、うん。あの一瞬の痛みは凄まじかったがの。まぁしかし、そのおかげでこうして歩けるようになったわけじゃ」
 痛みを思い出したのか僅かに虚ろになった目線に同情の意を示し、元級友の誰もが一度は味わった按摩の痛みを思い出す。
 体を複雑な体勢にさせ、気付けば凄まじい痛みと骨の音が響く乱太郎の急場按摩。確かに楽になって具合は急激に良くなるものの、あの痛みを味あわせておきながらよく手打ちにされなかったものだと視線を泳がせた。
「まぁ話も長くなるのかもしれんのなら、皆の者、座れ。目の前に立っておられてはこちらも鬱陶しいわい。いろいろと、真偽のほどを見定めんといかん」
 ぎらりと、老城主の目が煌めく。
 その目はかつて戦に明け暮れた血の気の多さを感じさせるのに充分で、気圧され、一人、また一人と腰を下ろした。
「団蔵。黒麻さんから棍を引いていいよ」
「へ? いいのか?」
 その中で、庄左ヱ門がこそりと耳打つ。
「うん。どうもこのご家老、殿様には忠誠を誓ってらっしゃるご様子だ。さっきのお二人のノリ、付き合いが長くて上下関係がしっかり出来上がってる……そうだな、言うなれば土井先生ときり丸のそれに似てなかった?」
「……あー。そうかも」
「そんな人の前で、これ以上悪さは出来ないよ。きっとね」
 やり取りを回想しながらの団蔵の言葉に、庄左ヱ門は気楽に肩を叩く。それを間近で目にし、金吾はこっそりと首を掻いた。



−−−続.