――― 風葉舞う





 暗い室内には二つの明かりが灯っていた。
 一つは上座を照らすために元来据えられている燭代。もう一方は下座を少しでも明るくするためにと急遽持ち込まれたらしい、持ち運びを前提とした灯篭だった。
 燭台の炎は紙に覆われていないためか作り出す陰影も強く、古びた土壁の隙間から吹き込んでくる生温い風に揺らいでは屋敷の主たる男の顔を隠していた。
 僅かに高いその場所は、さながら上流の武家屋敷にある謁見用の広間を髣髴とさせる。とは言ったものの、実際拡張高く見えるのはその部分のみで、鴨居に結わえられている御簾や置かれた調度品などは随分と古臭いものを感じさせた。
 しかし室内に通された侍らしい二人の男は思わず敷居を跨ぐのを躊躇し、獰猛な獣でも見つけたかのように身を強張らせる。その目は上段に腰を下ろし、肘掛に頬杖をつく人影に吸い込まれていた。
 半ば無理矢理に押し掛けたようなものとは言っても、使者である侍が来室したと言うのに声掛けの一つもない。それどころか訪問自体が不愉快だとでも言うように頬杖をついたまま改めようともしない姿に、男達は息を呑んで顔を見合わせた。
 毒を得手とする忍の流派。その中にあって同世代の者達をたった一人で一掃し、後継者の資格に異を唱えていた人間の口を閉ざさせたという脅威の実力を持った若い後継者。まさにその人物を目の前にし、やはり噂に違わぬ横柄さだと男達は無言のまま頷き合った。
「中央へお進みください」
 先を歩き、ここへの案内を請け負っていた中年の侍女が慇懃に頭を下げて促す。その手前余り物怖じしていてはさらに侮られることになりかねないと腹に力を入れ、二人は上段を窺うようにゆっくりと中央へと足を進めた。
 その後ろから、先ほど入室を促した侍女がするりと上段へ上がる。その遠慮なさに咄嗟に制止の声を投げようとするも、次の瞬間迸った悲鳴に、男達は己が耳を疑った。
「いったぁああああい!!」
 叫んだ声は明らかにそれまで頬杖をついて腰を下ろしていた現当主からで、しかし印象からは思いつかないほどにあどけない。声音自体は大人の男らしく落ち着いてはいるものの、その叫び方や、それと同時に飛び上がって見せた仕草などはまだどこかに幼さを感じさせるものだった。
 怪訝に眉間を顰め、男達は首を伸ばすようにして上段を凝視する。
「なにすんのさおばちゃん、せっかくいい夢見てたのにっ! ……って、はにゃあ? あぁそっか、僕ここでお使者の方を待ってる間にうたた寝しちゃったんだねぇ」
 ケラケラと笑い飛ばす姿は、もはや室内に一歩踏み入れた時の重苦しい雰囲気など感じさせない。むしろあれは噂を聞いて怖気づいていた自分達の思いが投影されて、このうつけがおどろおどろしく見えただけだったのだと、侍は情けなさに溜め息を吐いた。
 ぺたりと音を立てて素足が上段から降り、ふわりとした猫毛が揺れる。
「驚かせてしまってすみません、大変失礼しました。風魔の里が頭領、山村喜三太と申します。カエンタケご城主からは月に四度もお手紙を頂戴し、せめて一度直接の交渉をとお望みだったのでおいで頂いた訳ですが……先に一つだけ申し上げますね。我ら風魔、いかに天下取りの世と言えど、領土庶民にまで乱暴をお働きになる城と組むつもりはございません。ですから協力をと仰って頂けるのは嬉しいんですけど、その一点だけはあらかじめお心に留め置いてくださいね」
 にこやかに、しかしはっきりと突き放すように口に出された言葉に男達のこめかみがひくりと引き攣る。蝋燭の炎がまたゆらりと身を捻り、その顔をより一層顕著な戸惑いの色に仕立て上げていた。
 それを先刻と変わらぬ表情で見遣り、朗らかな雰囲気さえ纏って喜三太の唇が笑みに固まる。言葉の柔らかさとは裏腹な明確な拒絶の意思を無言の内に伝える空気に、男達はやはりただのうつけではないらしいと唇を噛んだ。


  ■  □  ■


 里の外まで案内され、男達が風魔を後にしたのはおよそ四半刻後の事だった。
 廊下が軋み、フラフラとした足取りが不安定に左右へ動くのが聞き取れる。それを砥ぎ石の上に水を掛けながら耳にし、金吾はやれやれと溜め息を吐いた。
 手入れ最中の刀を一度置き、濡れた手を拭く。そしてまさに手布を置いた刹那開かれた木戸に、お疲れ様と声を掛けた。
 途端、脱力しきった体が抱きついてくる。
「あーうー、もうヤダあそこー。何度断っても手紙が来るしさー、普通そんだけ嫌がってるところに直接出向いてくる? どんな神経してんだろ。しかも最初にはっきり断ったのに、四半刻も粘ったんだよあの人達! あれもお仕事だってのは分かっちゃいるけど、やりすぎだよ。こっちのなけなしの好意を根こそぎ持って行っちゃう行為だよ、あれ。もう絶対あそことは組んだりしない。疲れた! 頭の中スッカスカ!! あとで里の入り口に塩撒いといてやるんだ!」
 腹立たしげに愚痴を漏らし続ける不機嫌な背中を宥めるように数度叩き、そうかそうかと反論もせずにただただ聞き流す。
 喜三太が風魔に戻り一応の当主として名を表に出し、金吾が風魔流忍術学園で剣術指南役を請け負うようになって、既に五年の月日が経っていた。
「結局断ったんだろ? あの城、町人からも人気ないもんな」
「受けるわけないよ、あんな協力要請! 戦の手伝いと領地の制圧協力、場合によっては領地の井戸に薬を盛って言うことを聞かせて欲しいなんて書いてあるんだよ!? ないよー、ビックリするほどないよー。山野先生もリリーばあちゃんも、こんな悪質なやり口を押し通そうとする城はすぐに潰されるに決まってるんだから、手を貸すことないってはっきり言ってたしね。僕もそう思うからお断りしたよ」
「どう言って?」
「これで我が城が天下を取れば風魔も今以上の隆盛を望めるとかなんとか言ってきたから、うちそういうの必要ないんでぇーって」
「……まんま訪問販売の断り文句だな」
「だってあっちが悪質な訪問販売の手口そっくりなんだから、仕方ないじゃないか」
 唇を突き出しての言葉に、それもそうだと同意して笑い飛ばす。その笑い声に少しは機嫌が直ったのか、喜三太は静かに金吾の肩へ額を寄せた。
「もう来ないといいなぁ」
 ぐったりと身を預けながら頬を膨らませている姿は、とてもではないが風魔忍者の長とは思えない。しかしこのゆるりとして掴みどころのなさを感じさせる仕草こそが今の風魔を象徴するものになるのだと金吾は眉尻を下げた。
 十年前、忍術学園で同室者として出会ったときから変わることのない空気に、深く息を吸い込む。
「お前はよくやってるよ。リリーさんともちゃんと話し合ってるし、山野先生からの助言もきちんと受け入れてる。与四郎さんもこっちに里帰りなさるたびに胸を撫で下ろしてらっしゃるし、もう立派な風魔の当主だな」
「やめてよ、いっつも怒られてるの見てるくせに。せめて子供には見られないようにって必死なんだからさ」
「見られたっていいだろ。学園長先生みたいなもんだよ、そのほうが子供達だって親近感が湧く。……もっともお前の場合、近付きがたいって感じはまったくしないだろうけどな」
「余計なお世話だよ」
 冗談めいて向かってくる拳を受け止め、悪いと呟いて抱き締める。初めに出会った頃に比べれば随分と筋肉質になった体が、それでも変わらない心地良さ大人しく腕の中に納まっていた。
 ふふと楽しげな笑い声が漏れ、額と額が軽い音を立ててぶつかる。
「ねぇ金吾、そろそろみんなに会いたいねぇ。ふた月前に三治郎には会えたけど、あとは佐武の大遠征でこっちに来てた虎若と伊助、それと与四郎先輩からの荷物をわざわざこっちまで持ってきてくれた団蔵、仕事の都合出来てたきり丸に去年会ったきりだ。みんなは畿内、こっちは相州。なかなか会えないのが当たり前とは分かっていても、それでもいい加減寂しくなっちゃうよねぇ。手紙のやり取りじゃあ手間が掛かるし、なにより一緒にはしゃげないじゃないか」
「そうだな、まったくだ。今度僕だけでも畿内に出てみようかな」
「ちょっとなにそれ、留守番なんてあんまりだよ」
 喉を揺らしながら冗談を繰り返し、頬や鼻先に唇を掠める。それをくすぐったげに肩を竦める姿に、喜三太の背中に回された指が微かに動いた瞬間だった。
 こほんと大きな咳払いが響き、金吾と喜三太の距離が一瞬で大きく開く。
「あー、喜三太。さっきの会談の件、一応リリーさんに事の顛末をせっとかねーと……またうんならかされっちまうよ」
 開かれたままになっている木戸に隠れているのか、遠慮げな声が叱責を示唆して戸惑った雰囲気を見せる。その聞き慣れた声が今や風魔流忍術学校で用具管理主任として一応の教職に就いている古沢仁之進のものであることを聞き取り、喜三太は慌てた様子で立ち上がった。
「わ、分かった! 今行くから! ちょっと待って!!」
 動揺で赤らんでしまった頬を誤魔化すように擦り、不服そうな目が名残惜しそうに金吾を見下ろす。それは金吾としても同じ心持ちではあったものの報告に行かせないわけにもいかず、仕方ないだろと眉尻を下げて手を振って見せた。
 その潔さが気に障ったのか、繋がったままの眉根が険しく寄せられる。
「なんだよ、平気って顔してさ」
 不貞腐れた表情に失言を察知し、しまったと視線を逸らす。しかしその口が謝罪の言葉を紡ぐ前に襟元を急激に引かれ、金吾は面食らって目を見開いた。
 眼前に迫った閉じた瞳と、柔らかなものに触れている唇。それがなにを示しているのかを咄嗟に理解し、金吾は目元を和らげた。
 苛立ち混ざりで触れてくる唇を軽く食み、触れる柔らかな髪をくしゃりと撫でる。
「行って来いよ。帰るまでに刀の手入れを終わらせておくから」
「……ん。ちゃんとあとでイチャイチャしようね」
 未だ膨れ面ではあるものの口印をつけたことで多少満足したのか、言い置いて部屋を後にする。それをどこか諦めたような表情で見送り、金吾ははたと身を硬くした。
 木戸の陰から、困り果てた様子で頭を掻く仁之進が姿を見せる。
「まったく、喜三太にも困ったもんだ。せめてあぁいうのはここを閉めてからやりゃーいいのに。ねぇ皆本先生」
「……あー……。そう、ですね……古沢先生……」
 もはや慣れてしまった風魔流忍術学園での呼び方で返答し、居た堪れず顔ごと逸らす。互いに旧知の仲、しかも金吾に至っては幼い頃から知られているだけにより一層肩身の狭い思いだった。
 気まずい空気のまま、やがて仁之進からそれじゃあと頭を下げられる。それを同じく頭を下げて見送った後、金吾は静々と木戸を閉め、そのまま声にならない叫びを上げて部屋の中を転がり回る羽目に陥った。
 翌日、剣術指南としての役割を果たしつつも仁之進と顔を合わせるのを極力避けていた金吾は校舎の裏を歩いていた。
 朝の教員会議では互いに普通に接すことは出来た。しかし喜三太のあの言葉を聞かれている以上は生々しい思いをさせていることに違いはなく、それを考えるとどうしても不意打ちで会える気分にはなれない。
 むしろ顔から火が出る勢いで恥ずかしいのは金吾のほうだった。
「どんな顔をしたらいいのか分からないもんなぁ……」
 重々しい溜め息を吐き、ガリガリと頭を掻く。木戸が開いているということを失念していた自分の愚かしさに穴にでも埋まりたい気分に陥りながら足を進め、ふと視界に入った姿に顔を上げた。
 そこには塀を乗り越え、外へ出ようとする見慣れた猫毛。
「っ、おい、喜三太!」
「はにゃあ!!」
 声を掛ければ塀から落ちそうに体が揺らぐ。慌てて受け止めようと下に走るも、どうにか体勢を立て直して瓦にしがみ付いたらしい喜三太が眉間を寄せて見下ろしていた。
「ちょっと、危ないじゃないか金吾!」
「それは僕の台詞だ! 共連れもなしにこっそり抜け出してどこに行こうっていうんだ、当主様!!」
 咎める声音と責任感を架す呼び名に、喜三太の表情がバツの悪そうなものへと変わる。それを睨み上げて仁王立つ金吾をちらりと流し見、やがて意を決したように両手を打ち合わせた。
「ごめん金吾、ちょっと箱根まで買い物に行くだけだから見逃して! 夕飯までには戻るから!!」
「はっ!? 箱根って……ちょ、おいコラ喜三太!!」
 止める間もなく長い髪は向こう側へと消える。それを追って塀に乗り上がるも、外側は険しい崖として作られていたために既にそこに喜三太の姿を見つけることは出来なかった。
 べしりと音を立てて額を叩き、あぁと疲れた息を漏らす。
「……とりあえず山野先生にはご報告しておくか。あいつホント、頭領を名乗ってから七年は一人で出歩いちゃいけないってあれほど口を酸っぱくして言われてるのに……。帰ってきてからどやされたって庇ってやらないからな」
 消えていった背中を思って肩を竦め、まずは報告かと呟いて飛び降りる。強い日差しはまだ勢いを殺さず、中天にも差し掛からない。これならば夕飯までには確実に戻るだろうと頷き、金吾は腰に挿した刀の位置を直してまた仁之進の気配を伺いながら校舎裏を足早に駆けた。



−−−続.