――― 色恋語り





 酷く熱い呼気が、静まり返った医務室の中で些か咽るような気配を伴い吐き出される。ひゅうと僅かに鳴った喉の音に、衝立を挟んだ場所で巻物を広げていた瞳が、蝋燭の明かりの傍で慌てて顔を上げた。
 そろりと衝立の上から顔を覗かせ、布団に体を横たえているはずの人影を音もなく確認する。すでに暮れた陽の光はなく、睡眠のためにと蝋の明かりもない。けれど微かに見える輪郭でその薄茶色の髪がどうやら上半身を起こしているらしいと察し、乱太郎は広げていた巻物を素早く片付け、喜三太の枕元へと膝で進んだ。
 ゆっくりと触れた背中を擦ると、体が辛いのか気弱げな目元が不安げにその視線を動かせる。
「熱、まだ少し高いね。水飲む? それともちょっと苦いものでも平気なようなら、善法寺先輩が作り置きしてくださってるセリの煎じ薬を飲んだらいいんだけど。少しは楽になるはずだよ」
「ん。薬、飲めるよ。ごめんね乱太郎……」
「気にしないでよ。私は保健委員の仕事してるだけだからねー」
 柔らかに笑い、一度喜三太の傍を離れて文卓上に置いてあった薬缶を手に取る。既に冷え切った金属の温度を確かめ音を立てて中身を湯飲みへと注ぐと、乱太郎はまた静かに傍らへと戻り、それを差し出した。
 不調のために弱々しい指先がしっかりと湯飲みを握り締めるのを見届け、ようやく支えていた手を離す。
「少しずつ、ゆっくりね。咽たりしたら余計に辛いから」
 背中を擦る手に合わせ、湯飲みを煽った喉が小さく上下する。数度繰り返されるその動作と時折聞こえる水を嚥下する音を注意深く観察し、乱太郎の眼鏡の奥の瞳が、安堵したように柔らんで小さく息を吐いた。
「……うん、喉の調子は随分良くなってきたかなぁ。善法寺先輩が言ってたみたいな、変な音とかは聞こえないし。明日一日大人しくしてたら、きっと良くなるよ」
 飲み干された湯飲みを脇へと片付け、もう一度横になるよう掌で促す。喜三太もそれに大人しく従い布団へと身を埋めると、衝立の向こう側から漏れ差し込む蝋燭の光を頼りに視線を泳がせた。月もまだ出ず、ただ暗いばかりの室内で誰かを探すようなその動きに、乱太郎ははたと気付き、困ったように表情を緩めた。
「金吾は委員会。まだ来ないところを見ると、また遠くまで行ってるのかもしれないねぇ。でも物凄く心配してたよ? もちろん私達だって。授業が終わって土井先生が教室を出た途端に倒れちゃったから、兵太夫なんていつになくオロオロしちゃってさ。私達の声を聞いて土井先生がすぐに戻ってきてくれたけど、それより先に金吾が駆け寄って支え起こしてたくらい。医務室に運ぶ道すがら、金吾に聞いたよ。金吾の剣術練習の真似っ子して、夜に忍術の練習してたんだって? 慣れないことしたから、ちょっと体がビックリしちゃったんだろうって先生が言ってた。だけど、夜に練習してたなんてえらいね」
「ううん、えらくないよ。……えらく、ないよ。えらいのは金吾だもん。剣術が大好きで、大好きなことに一生懸命で、寝る時間削って練習してる金吾がすごいんだよ。真面目だし、優しいし、ナメさん達にも嫌な顔しないでいてくれるようになったし。……ね、すごいね。僕と、全然、違う……」
「……喜三太?」
 泣き出しそうにくしゃりと歪んだ表情に、咄嗟に手を握り顔を覗き込む。どうしたのと不安げに掛けられた声に、喜三太はやはり泣きそうなまま無理に笑顔を作り、ふるふると首を振った。
「ちょっと考えちゃっただけ。なんでもないよぉ」
「本当? ケンカとか……じゃ、ない、か。体が辛いから、気が弱くなってるんだろうね。気晴らしに何人か呼んで、少し話そうか? 私、今日の夜番なんだ。騒いだり、誰か怪我してきたときに治療の邪魔にならない限りは、友達を連れてきてもいい決まりなんだ」
「いいよ、もう夜だもん。迷惑かけちゃう」
 普段の我侭さは失せ、自身を戒める言葉と共に僅かに唇を噛む姿になお心配を掻き立てられ、かといってどうすることも出来ず乱太郎の瞳が困惑に細められる。常であれば他の級友達がうまく助け舟を出してくれる場面だが、それだけに自分ではこの事態をうまく好転させることが出来ないことを感じ取り、二人の間に少しの間沈黙が落ちた。
 夜鳴き鳥の声が格子窓の向こうから微かに届き、その沈黙を重苦しいものへと変えていく。ただでさえ照明といえるものは衝立を挟んだ場所にある蝋燭数本のみの現状に、それは酷く寒々しい印象を与えた。
 その最中、ばこりと板の外れる音が響き、思わず二人の肩が大仰に震え上がる。
「はにゃっ!?」
「ひっ……っ!?」
 思わず抱き合い、音のした一点を凝視して身を竦める。そこは医務室の角、しかも衝立の向こう側ではなく二人が身を置く休養場の側で、不可抗力などなくともとてもではないが音が出るわけもない場所。息を潜め気配を消しても、それでも治まることなくむしろ激しさを増してガタガタと音を立て続けるそこに恐怖で瞳を見開いたまま、乱太郎が体調を崩している喜三太を庇うように抱き合った腕に力を込めた。
 いっそう激しく揺れた床板が、今度こそ下に落ち抜ける。
「ふー、やっと抜けたー! ごめんね、怖かった? タイミングよく出たかったんだけどさ、思ったよりこの床板、頑固者でさぁ。外すのに苦労しちゃった」
 するりと伸び出た白い手に気を失いかけるも、その後耳に届いた聞き慣れた声にはたと我に返り、二人してへたりと脱力して溶けるように布団に崩れ落ちる。抜け落ちた場所を始点に次々と外されていく床板と、出来た穴から覗かせた笑顔に乱太郎が泣き出しそうな声を上げた。
「さ、三治郎……! やめてよ、魂抜けかけたよ……!」
「だからごめんってばー。兵太夫のカラクリ部屋に迷い込んじゃってさぁ、仕方ないからまっすぐ上を目指して、カラクリや天板、床板をバラしながら上ってきたらここに出たんだよ。床下で一部始終聞いてたんだけど、なかなか乱入できなくってねー」
「……新野先生がお聞きになったら、ビックリどころの話じゃないよ……。この部屋の下、どんなことになってんのさ……」
「そこはアレで! 内緒で!! でさ、喜三太が珍しくへこんじゃってるから気になってね。愚痴? 惚気? それとも両方?」
 床下から這い出し、一度廊下へと出て埃を払って戻ってきた三治郎が、笑顔のままで喜三太の顔を覗き込みくしゃりと下ろした髪を撫でる。それを傍から見ていた乱太郎は、三治郎が決して茶化し目的や慰め目的なだけではなく、少なからず彼好みの癖がありつつも柔らかな髪質を楽しんでいるのだと見て取り、反応に困るように苦笑を浮かべて見せた。
「コラコラ、自分と一緒にしないの。喜三太のはそういうんじゃないよ、きっと」
「あれ、本当にそう思う? ま、乱太郎ってば真面目だからなぁ。僕とは意見が違うかも。僕はね、乱太郎。喜三太は自覚してないだけで、そういうことなんだろうと思ってるよ? だからいいじゃない、僕なりの気遣いだよ。ね、喜三太? 大好きな友達が相手でも、特にケンカしたわけでもないのに、なんだかものすごーくズルく思えちゃう時ってあるよねぇ?」
 にこにこと話題を振る三治郎に、それまで布団に崩れたままだった喜三太の目が大きく瞬き、がばりと起き上がる。けれどその反動で貧血になったのか、途端に揺れた体を慌てて乱太郎が受け止め、軽い叱責の言葉と共に布団の中に押し戻した。
 口元まで引き上げられた掛け布団の下、病で揺れた瞳がちらりと脇を流し見る。
「……三治郎も、ある?」
「あるある、大有りだよ。僕なんて、兵ちゃんのことをズルいなぁって思わない日はないくらい。でも大好きだから、頭ん中ぐるぐるーって。一緒?」
「うん、一緒」
「じゃあ、僕と一緒だ。でしょ? 乱太郎」
 したり顔で自慢げに笑みを見せる三治郎に、降参とばかりに手を上げる。それにさらに満足げな様子を加え、三治郎は乱太郎へと向き直った。
「ねぇ、乱太郎。今日は夜番なんだろ? あと一人二人集めてきてさ、ちょっとした愚痴ノロケ大会開いちゃおうよ。喜三太の気晴らし! きっと話してる間に眠くなって寝ちゃうよ」
「えー! さすがにそれは困るよー!」
「いーじゃんいーじゃん。じゃ、ちょっと庄左ヱ門と伊助を呼んでくるよ! 喜三太、待っててねー」
「ちょっと、ねぇ、三治郎ってば!! ……行っちゃった……」
 止める声も聞かずさっさと暗い廊下へ姿を消した三治郎に手を伸ばすも、もはや声すら届くわけもないと知りがっくりと肩を落とす。しかも時を置かず、確かに三人分の足音が近付いてきた事実に、乱太郎は苦笑を浮かべるほかなかった。
 するりと開いた扉から、三人の顔がひょこりと覗く。
「喜三太、まだ寝てない?」
 僅かの間にも寝入ってしまった可能性を考慮し、まずは庄左ヱ門が控えめに声を掛けてくる。それにぱちりと瞬き、喜三太が布団の中から返事の声を上げた。
「うん、起きてるよー」
「そう。じゃ、お邪魔します」
「……ねぇ庄ちゃん、ホントにいいの? 喜三太、寝なきゃいけないんじゃないの?」
「伊助ちゃんってばホントに気遣いっ子だよねぇ。庄ちゃんも僕も大丈夫って言ってるんだから、大丈夫大丈夫ー」
「三治郎ー、そういうことはせめて自分の委員会で言ってねー」
 最後尾から入室した割には遠慮の欠片も見当たらない三治郎の発言に、乱太郎が溜息を吐きこそりと額を掻く。けれどそれにすらかわすような笑顔で返し、それぞれが喜三太の布団の脇に腰を下ろした。
 まさか本当に呼んでくるとはとまた一つ溜息を吐いた乱太郎を尻目に、庄左ヱ門が一瞬視線を泳がせ、話題を探す。
「で、なんだっけ。団蔵のズルいと思うところを話せばいいの?」
「……庄ちゃんってば相変わらず冷静ね。てか、なんで団蔵?」
「ん? そういうことじゃないの? 喜三太は金吾、三治郎は兵太夫でしょ? なら、僕は団蔵で、伊助は虎若かなと思ったんだけど。乱太郎は聞く専門になっちゃうけど、ユキちゃんのことを言うにはまだ知らないことのほうが多すぎるだろ?」
「ハ……ハハハハハ……。もうどう返したらいいものやら……」
 相も変わらず沈着冷静な様子でさらさらと紡がれる言葉の群れに、乱太郎だけでなく伊助、三治郎も引き攣ったような表情を浮かべる。この中にあってそれぞれの関係性を理解していない喜三太だけが、どこか不思議そうに首を傾いで見せた。
 それに対し、まだ知らなくても大丈夫だよと髪を撫でた伊助の手に、甘えるように頭を寄せる。
「じゃあ、誰から話す? 喜三太から? モヤモヤして眠れないんだろ?」
「ん……。……でも僕、ぐちゃぐちゃで、なに言ったらいいかよく分かんないから……」
「そう、じゃあ少し皆の話を聞いておいて、言いたくなったら話したらいいからね。途中で寝ちゃっても、明日聞いてほしかったら皆で聞いてあげるから」
 優しく表情を綻ばせる庄左ヱ門に、お父さんみたいだねぇと三治郎が囃し言葉を投げる。けれどそれに対してもやはり級長は冷静さを崩さず、しれっとした表情で首を傾いだ。
「伊助がうちのクラスの母親役なら、級長の僕は父親役で適任だろ? ただし生憎と、お互い別々の想い人がいるわけだけど。それを考慮に入れないで、ただ役割としての名称なら、それが一番正しいんじゃないかな。伊助がお母さん、僕がお父さん。先生も入れちゃうと、土井先生がお父さんで、お母さんは……伝」
「ごめんなさい、悪かった! 僕が全面的に悪かったから、そこから先は言わないで! お願い!!」
 慌てて言葉を遮る三治郎に、その場に居合わせた全員が声を上げて笑う。それに少し気分を害されたように頬を膨らませて眉間を寄せ、この会合の幹事であるはずの見習い山伏は不貞腐れた様子で庄左ヱ門へと話題を振った。
「庄左ヱ門の冷静さはさ、物凄く手入れされてる手裏剣みたいだよ。普段は頼りになるけど、油断するとこっちが痛い思いしちゃう。ちょっと僕は傷ついちゃったから、庄左ヱ門から話せばいいよ。学級委員長からしたら、団蔵へのノロケよりも愚痴のほうが随分と多そうだけど」
「そうかな、そうでもないと思うんだけど。でもせっかくだし、じゃあ僕から話そうか。……団蔵への愚痴、ねぇ。というかズルいと思うところか。そうだね、とりあえず一個思い浮かぶかな」
 一度途切れた言葉に、興味を惹かれ、乱太郎までもが知らず期待に目を輝かせる。それをちらりと見回し、庄左ヱ門の唇が可笑しそうに僅かに吊り上がった。
 こくりと上下する喉に視線を巡らせ、にっこりと笑んで人差し指を立てる。
「あいつのズルイところは、馬鹿で、単純で、僕も思いつかないことを仕出かして困らせるくせに、それでも皆を引っ張っていける天性の兄貴肌なところだよね」
 薄く目を開いたまま笑みを浮かべる表情から淡々と漏れた言葉に、思わず医務室の中が静まり返る。一つと言っておきながら並べ立てられた悪口とも取れる単語の群に知らず頬を引き攣らせ、伊助がそろりと視線をそらした。
 先日繰り広げていた殴り合いのケンカがどうやらまだ遺恨を残しているらしいと察して、また部屋に戻ってからでも改めて愚痴を聞いたほうが良さそうだと息を吐き出す。
「……庄ちゃん、その顔怖いよ」
「うん? あぁ、ごめん。ちょっとね。だけど伊助、勘違いしないでくれよ。別に嫌いな部分を列挙してるんじゃないんだから。あくまでズルいところ、羨ましいと思うところだよ。僕のすることはあいつには出来ないけど、あいつのすることも僕には絶対出来ないんだ。……例えば僕にはその場を客観的に見て判断出来る目があるけど、団蔵はこの逆で、自分や、それ以外の誰かの立場になって物事を判断できる。しかもそれで皆を引っ張っていけるリーダー性まで持ってる。これってさ、僕にしてみれば物凄く羨ましいし、団蔵ってズルいなぁって思う部分なんだよ。努力して勉強して判断する僕に対して、あいつは天性の気質で違う方向から似たようなことをやってくれちゃう。本当は、こんなことを思うこと自体お門違いなんだけどね」
 それでも思わずにはいられないと笑った声に、伊助が笑って手を取り、柔らかに握る。その手の平の温かさに表情を崩す庄左ヱ門に今度は乱太郎が手を重ね、次いで三治郎、喜三太の手が続いた。
「庄左ヱ門は、うちのクラス最強の学級委員長だよ。努力してるのは皆が知ってるし、だから皆が庄ちゃんを信頼してる」
「そうだよ。それに団蔵だって、きっと庄左ヱ門のそういうところを羨ましがってるよ」
「それに、字の綺麗なところもね。……だけどさ、僕はちょっとホッとしたよ。庄左ヱ門も、人から見たら全然なんてことないところでそういう風に思っちゃったりするんだねー。なんか、ホントにホッとした」
「えへへ、僕もー。庄左ヱ門も、ちゃんと僕らと一緒なんだねぇ」
 機嫌良く笑う三治郎と喜三太の台詞にどことなく腑に落ちないものを感じながらも、違和感はこの際無視して曖昧に笑む。その表情になにか感銘を受けたように深く息を吐くと、先刻傷心を理由に発言を辞退したはずの三治郎が、改めて気合を入れるようによしと呟いた。
「ん! 庄左ヱ門もそんな理由で団蔵にモヤモヤするなら、なんか僕が兵ちゃんのこと言っても馬鹿にされない気がしてきた! 次、夢前三治郎! 兵ちゃんの大好きだけどちょっとズルいと思うところ、いきますっ!」
 高らかに宣言し、鼻息も荒く目を輝かせる。互いに溺愛を宣言しておきながら今更どんな愚痴があるのかと耳をそばだてる面々に、三治郎はどこか憤慨するときのような仕草で胸を張った。
「あのね、兵ちゃんはね、自分のカラクリの才能に自信持ってて、しかもその自信に見合うだけの技術を持ってるのが、ズルい! しかもカラクリ製作に熱中しちゃうと僕のことほっといて地下に籠もるくせに、当たり前みたいに完成品を僕に一番に見せてきて、三ちゃんすごいの出来たよ、褒めて褒めて、なんて可愛いことして僕のムカつきをどっかやっちゃうのが、ズルい!! あんなのされたら、許すどころか甘やかしたくなっちゃうじゃん! 頑固で融通が利かないのに、だけどものすごく顔立ちが綺麗でしかも僕にだけ甘え上手なんて、ズルい以外のなんでもない!!」
 叫ぶように一気に捲くし立てられた言葉に、数秒の間呆然とした空気と、庄左ヱ門の時とはまた違った沈黙が流れる。その間も止まることなく続けられている三治郎による兵太夫の魅力を語る惚気としか取れない愚痴は続き、少なくとも乱太郎はどうしたものかとやりどころのない救いを求めて天を仰いだ。
 かといって都合よく天啓など降りるわけもなく、仕方なく袖を引き、注意を自分へと向ける。
「……あのさ、三治郎? 三治郎の場合、それ、ズルいと思ってはいるけど、大好きで仕方ない部分なんじゃ……」
「そう! 兵太夫のあぁいうとこ、超可愛いし超好きだと思うけど、やっぱズルい!!」
「……う、うん……そうだね……」
 馬鹿にするとかいう問題ではなく、これは恐らくきり丸が耳に入れたら呆れ返って退室しそうな純然たる惚気だと苦笑しつつ、否定するわけにもいかずよしよしと頭を撫でて宥める。その乱太郎に抱きつき、さらに愚痴を連ねる三治郎の背を落ち着けるように数度軽く叩き、伊助が頬を掻きつつ口を開いた。
「僕の場合は、二人とはだいぶ違うなぁ。虎若が純粋に羨ましいなぁっていうか。……あー、でもちょっとだけズルいなぁと思う部分もあるから、やっぱり一緒なのかな。……まっすぐ、しかも物凄く誰かを尊敬して師事するって言うか、うん。尊敬する人がいることが純粋に羨ましい。喜三太もこれは一緒じゃない? 照星さんと戸部先生の違いはあるけどさ。一生懸命になれるなにかがあるのが、羨ましいよね?」
「うん、一緒。一生懸命に剣術頑張ってるのがすごいと思うし、そんな金吾が羨ましい」
「だよね。筋トレとか練習とか、ホントに一生懸命やってさ。すごいなと思うのと同じで、そんな相手がいることが羨ましい。僕にはそんな相手はまだ見つけられてないから、余計にね。……それとズルいなぁって思うのは、やっぱアレかなぁ。庄ちゃんを支えてる僕を、気が付いたらさりげなく支えてくれてるところかな。団蔵と一緒に馬鹿やってるようで、でも実はこっそり僕らみんなのことを見ててくれるって言うか。庄ちゃんのフォローでパニック状態になった時とか、ホントに自然な感じで助け舟を出してくれるのは虎若だったりするからさ。普段そういうのを感じさせない分、なんだか、あぁこいつ上手いな、ズルいなぁって思っちゃう。さっきの話でも出たけど、は組の父親が庄ちゃんで母親が僕なんていう共通認識でも、やっぱり虎若や団蔵にはすごく助けられてる。もちろん他の皆にもなんだけどね」
 照れて笑う伊助に、分かる分かると庄左ヱ門が肩を叩く。顔を見合わせ肩を揺らして小さく笑い合う二人に、どう見てもお似合いの夫婦にしか見えないとは思いつつも口には出さず、三治郎は頭の中で漢部屋の住人二人の顔を想像した。
 こんなことを言おうものなら、二人共に泣きが入りそうだと含み笑いが漏れる。
「……三ちゃん、なに考えたの」
「んー? 乱ちゃんの腕の中で幸せーって」
「やめてよ、兵太夫に本気で怒られそうなこと言うの……」
「大丈夫大丈夫、兵ちゃんは冗談の分かる子だよ」
 へらりと笑う三治郎に、弱りきった溜息を吐き出し喜三太へと視線を移す。それぞれの語りに頷きを繰り返しながら聞き入っていた喜三太がちらちらと視線を泳がせ始めたのを見て取り、乱太郎は抱きついていた重みをそろりと離して顔を覗き込んだ。
「話したいこと、まとまった?」
 柔らかな笑顔に、戸惑うように鼻まで布団を引き上げる。額に触れればやはりまだ熱を持つそこがじっとりと汗に濡れていることに気付き、慌てず濡れた手拭いで額を拭うと、へにゃりと歪んだ顔が小さくありがとうと呟いたあともじもじとまた視線を泳がせた。
「……あのね、僕のは、その。みんなみたいに、ちゃんとした理由とかないんだけど」
「うん、いいよ。言うだけでもスッキリするもんだし。私も聞いてあげるから、言ってごらん」
「そうだよ喜三太。それに三治郎のなんて、ちゃんとした理由って言うかただの惚気だったじゃないか」
「庄ちゃん、庄ちゃん。駄目だよ、みんな口に出さなかったのに」
「庄左ヱ門も伊助も酷くない!?」
 たまらず叫んだ三治郎の声に笑い、戸惑いが晴れたように喜三太が布団からそろりと顔を出す。それに気を引かれ、全員が注目すると、照れ隠しの笑顔が鼻の頭を掻いた。
「あのねぇ、ホントはちょっと言うの恥ずかしいんだけどね。……伊助のとちょっと似ちゃうし。でも、いい?」
「いいよ。どうぞ?」
「うん、ありがと。……あのね。金吾が一生懸命剣術の練習して、すっごく強くなりたいって気持ちはすごいなぁって思うんだ。それに優しいし、僕のわがままも聞いてくれるでしょ? だけどね、僕は金吾と全然違うし、わがままだし、勉強だって嫌いだし、剣術だって苦手だから、……なんだか、友達なのに置いて行かれそうって言うかね。……僕なんかと違ってものすごく強くなって、遠くに行っちゃいそうだなぁって考えて。…………大好きな友達なのに、僕を置いて一人で強くなっていっちゃいそうな金吾が、なんだかズルいなぁって思っちゃってさぁ……」
 話す間にくしゃりと歪み、泣き出しそうに眉間を寄せた喜三太を慌てて伊助と乱太郎が頭を撫でて慰める。優しさを感じるその手にまた顔を歪ませ、とうとう泣き出した病床の友人に今度は三治郎が布団の上から調子を取るように胸の辺りを叩いてみせた。
「泣かない泣かない、大丈夫だよ、喜三太。金吾は喜三太のこと大好きだもん、置いてったりしないよ。三ちゃんが保証してあげるから、泣いちゃ駄目だよ。熱が上がってもっとしんどくなっちゃったら、金吾なんて心配しすぎてハゲちゃうかもよ?」
「はにゃっ!? ハ……ハゲるの……?」
「うん。ごっそりと」
「……やだよぉ」
「じゃ、泣いちゃダメー」
 いい子いい子と宥める言葉で喜三太は泣き止んだものの、もし仮に金吾が聞いていたら憤慨どころの話では済まないような言葉だと乱太郎と伊助が互いに冷や汗を掻く。泣き止んだことで万事解決とでも言いたげな三治郎のウインクに引き攣った苦笑を返し、二人は救いを求める目で庄左ヱ門を見た。
 その視線を受け、短く息をついた級長が枕側へ膝で進み出る。
「三治郎が言ったとおりだよ、喜三太。心配なんてしなくていいよ。金吾だってきっとそんなつもりは全然ないんだから。いつもナメクジのことでケンカしても、結局は許してくれるだろ? あいつは喜三太に甘いんだから。もし先に行っちゃっても、立ち止まって、喜三太が来るのを待ってるようなやつだよ。だから心配しないでもうお休み? 喜三太が寝るまで、僕らここにいてあげる」
「……うん。ごめんね、ありがとうね」
 庄左ヱ門の言葉に少なからず安心したのか、とろとろと目蓋を下ろし、程なく寝息をたて始めた喜三太に全員が苦笑を漏らす。体が辛かっただろうにと困りきった声を出した乱太郎に伊助が同意するも、三治郎は精神的に浮上したならそれだけでもいいじゃないかと笑い飛ばした。
 庄左ヱ門は双方に同意を見せ、さてと膝を打ち立ち上がる。
「喜三太も寝たことだし、僕らは部屋に戻るよ。金吾も委員会から戻ってくる頃合だろうし、これ以上見舞いがいたらさすがに場所がないだろ? 乱太郎は普段通り、委員会活動に専念してね。あいつが部屋に戻ってきたら、それとなく僕らから喜三太のこと匂わせておくから」
「うん。……本当に、三治郎の言った通りっぽいねぇ。両想いだって、早く気付けたらいいな」
「相手が金吾じゃ難しいかもね。じゃ、喜三太のことはよろしく。夜中に土井先生が見に来るかもしれないから、飲ませた薬とかちゃんと報告するんだぞ」
「分かってるよ。お休み、庄左ヱ門、伊助、三治郎」
「お休み」
「お休み」
「お休みー」
 手を振って退室していく級友達を見送り、再び静寂を取り戻した医務室の中で疲れたような溜息を吐く。格子窓の向こうに浮かび始めた月を見上げ、乱太郎はすやすやと胸を上下させる喜三太の髪を梳いた。
「……色恋も、難しいもんだねぇ。だけどさ、喜三太。金吾のことはホントに心配いらないよ。誰がどう見たって、喜三太のことが可愛くて仕方ないんだもの。だからよく休んで、また皆で一緒に遊ぼうね」
 お休みと囁き布団の傍をそろりと離れて、衝立を隔てて蝋燭の揺れる床間で再び巻物を広げる。貸し出しの際、昔書かれた恋愛小説だと聞いたその内容にこっそりと笑みを漏らし、やっぱり私にはまだ早そうだと楽しげに笑った声が医務室に響いた。



−−−了.