――― とある放課後のナヤミゴト





「……バカ旦那が難しい顔してる」
「馬鹿って言うな!」
 夕陽の射し込む教室内。誰もいないその中でただ一人眉間に皺を寄せていた団蔵に素直な感想を伝えると、さらに眉間に皺を寄せて声を荒げる。それに形式だけでごめんと笑って見せると、不愉快そうに膨らまされた頬がふいと兵太夫から視線を外した。
 授業も委員会も終わってから、ようやくになって教室に普段使い用の墨を忘れたことに気がついた。普段なら別段困ることもないからとそのまま翌日の授業まで置いておくところだが、この日は確実に筆記が必要になる宿題が出ている上に、同室の三治郎はどうもまた毒生物の脱走騒ぎで回収作業に当たっているらしい。
 いくら勝手知ったる仲とはいえ無断で墨を拝借するわけにはいかず、かといって地下のからくり部屋に保管してある買い置きを取りに行くのも今は面倒だと結論付け、仕方なしに教室に戻ってみれば、珍しく眉間に皺を寄せ酷く考え込むように目線を下げている団蔵がいたという、言ってしまえばそれだけの話。
 けれどそれだけの話で終わらせることもなく、兵太夫は一度墨が置き去りにされている自分の机を無視し、団蔵の向かい側へと腰を下ろした。
「どうしたの。マジ悩み?」
 膨れたままの頬を軽くつつくと、やはり眉間を寄せたままの表情が視線を下ろしたまま向き直る。ともすれば泣き出しそうにも見える顔が無言のままこっくりと首肯を返したのを確認し、兵太夫は母音に濁音をつけた音を漏らしてガリガリと頭を掻いた。
 庄左ヱ門と伊助は先生からのお遣い、乱太郎は委員会。は組の誇る相談役達の不在に頭を廻らせ、仕方ないかと短く息を吐く。
「一人で悩んでたって堂々巡りするだけだろ? 僕が聞いてあげるから言ってごらんよ」
「……うん、ありがと」
 遠慮げに笑う団蔵に、らしくないと内心で呟き眉間を寄せる。
「庄左ヱ門が、さ。二日前から、あんまり、口、利いてくれない」
「ケンカ?」
「してないよ! ……してない、けど」
 消え入る語尾と共にまた下げられた目線に、兵太夫の唇が吊り上がる。ふぅんと呟かれた言葉に孕まされた不穏な空気にビクリと肩を震わせ、机に腕をついていた団蔵の上半身が僅かに兵太夫から距離を取った。
「なんだよ、その嫌ぁな言い方……」
「含みがある言い方してくれるじゃん? ほら吐け。ケンカじゃないなら何した覚えならあるんだよ」
「あーもー、だから兵太夫はー!」
 ニヤニヤとした趣味の悪い笑みを浮かべながら机越しに距離を詰める兵太夫に音を上げ、団蔵がぐしゃぐしゃと頭を掻き、その後がっくりと首を垂れる。上目遣いに見上げる視線に一見優しげな笑みを見せ、色素の薄い髪が傾ぐように揺れた。
「ほーら怖くないよー」
「……楽しんでるだろ」
「僕が? まさか! 大事な大事なは組の仲間の悩みを、この僕が楽しんでるって?」
「その言い方が……まぁいいや。兵太夫だもん」
「さっきから思ってたんだけど、これだからーとか、なんなんだよそれ」
「いい性格してるってこと」
「へぇ、やったぁ。褒められちゃった」
 ニィと唇を吊り上げて自分を見遣る兵太夫の視線に溜息を吐き、ついに観念したとばかり天井を仰ぐ。一応ほかの奴らには内緒なと呟かれた声に了解の首肯を返し、兵太夫が楽しげに机に肘をついた。
 些か心配げに目線を泳がせ、ようやく団蔵の唇が僅かに開く。
「せ……接吻、したの」
 紅く染まった頬を恥じ入るように逸らされた視線に、兵太夫の目が見開く。
「せっぷん」
「だぁああああ繰り返して言うな!」
「なんで。そんなに恥ずかしがることだっけ? 舌入れた?」
「恥ずかしいよ普通は! って、なにそれ!?」
「この前委員会の雑談中に立花先輩と綾部先輩が教えてくれた。大人の接吻は舌入れてするんだってさ。僕も一回やってみたけど、よく分かんなかったから研究中なんだけどね」
 こともなげに暴露された内容に肩の力が抜け落ちる。自分の羞恥レベルが低すぎるのだろうかと一瞬悩み、いやいやそんなことはないと首を振った。
 しかし同級の友人からのあまりにも衝撃的な告白に、今まで張り詰めていた一種の緊張感にも似た思いが途切れ、くたりと机に頬をつける。
「……そんなことしてないよ。知らなかったし。ただ、ふつーに……ちゅってしただけ」
「無理矢理?」
「なんっでだよ! ……ちゃんとしていいって、言ってくれた」
「ふぅん。で、そのあとから庄ちゃんが余所余所しいと」
「……うん」
 本格的に沈み込む声音と溜息を吐く姿に、団蔵の見えないところで兵太夫が僅かに笑む。悩みでもなんでもないと思うけどなと呟かれた言葉に、団蔵が僅かに身を起こした。
 分かってないところがバカ旦那だなぁと笑い、ひらりと手を翻す。
「嫌いになったとかなんか仕出かしたとかそういうことじゃなくってさ。庄ちゃん、恥ずかしくって団蔵の顔をまともに見られないんじゃない? いいって言ってくれたんなら、庄ちゃんだって団蔵のことちゃんと好きなんだろうし。いつもの団蔵らしくなーんにも考えずにくっついていってたら、そのうち元の庄ちゃんに戻ってくれるよ」
「……そうかなぁ」
「そうだよ。お前、変なところで考え込んでド壷にはまる癖あるよな。団蔵っていけどんのほうが似合うのに」
「ほっとけよ。……そんだけ好きなんだもん」
「知ってる」
 さらりと返された言葉に、また僅かに団蔵の頬が赤く染まる。それを茶化す兵太夫に照れ隠しに軽い拳を一つお見舞いし、団蔵は不意にその場から立ち上がった。
「ちょっと庄左ヱ門のところ行ってくる!」
「うん。あ、でも今庄左ヱ門は……。……まぁいいか。はしゃぎすぎて伊助に怒られない程度に頑張れ」
「おう!」
 ありがとうなと手を振り、慌しく教室をあとにする背中を見送って兵太夫もゆっくりと立ち上がり、本来の目的だった墨に手を伸ばす。指先を僅かに黒く汚す墨。それに先刻の一連の流れと庄左ヱ門の不在を知った時の団蔵の顔を想像し、たまには教室に忘れ物も悪くないと、兵太夫はどこか上機嫌で長屋へと足を向けた。



−−−了.