陽は既に傾き、忍術学園は朱色を通り越してほんのりとした薄暗さに包まれ始めていた。
 各クラスに宛がわれた長屋の土間からはもくもくと夕飯準備のための煙と湯気が上がり、場所によっては芳しい味噌の香りすらも鼻腔をくすぐる。米が炊ける甘い湯気と味噌の香ばしいさが充満していく周囲の中で、ただ一箇所、四年は組長屋の土間だけが捗った様子を見せていなかった。
 どすどすという怒気を孕んだ足音と共に、勢いよく木戸が叩きつけられる。
「おいコラ金吾ー! 今日は俺とお前と虎若とで夕食当番だろうが! 米は炊いたし材料は出しといたから、とっとと来て手伝えよー!」
「きり丸もそう怒るなって。おーい金吾ー、具合でも悪いかー?」
 憤慨した様子で眉間を寄せて大声を上げるきり丸の後ろから、困った表情の虎若が顔を覗かせる。しかしその怒声にも気遣う声音にも返答はなく、二人はその静けさに怪訝さを感じ、注意深く室内を見回した。見れば、そこの金吾の姿はない。
「……厠でも行ったか?」
「可能性としちゃあ一番高いけどな」
 顔を見合わせた二人が首を傾いだ背後で、気落ちした風な足音が鼓膜を揺らす。それを振り返った虎若は、ようやく見つけた見慣れた前髪にほうと安堵の息を吐いた。
「金吾、どこに行ってたんだよ。探したんだぞ?」
 視線の先には眉間を寄せたまま面を伏せている金吾が、長屋の縁側下に唇を噛んで立ち尽くす。その虎若の呼びかけにも応じない並々ならぬ雰囲気に、きり丸は顔を覗き込もうと戸惑い気味に身を屈めた。
「…………金吾? えーっと、もし本気で具合悪いなら俺と虎若で夕食作るからよ。お前は気にしないで部屋で寝て……」
「喜三太が」
 しどろもどろに切り出された気遣いの言葉を、ぽつりと落ちた声音が遮る。微かに震えた声帯から搾り出したような言葉に二人は思わず口を噤み、その発言の続きを待った。
 それを知ってか、勢いよく顔を上げた金吾が苦しげに胸元を握り締める。
「喜三太が町に行ったまま、まだ戻っていないんだ。授業に使う筆記具を買いに行くだけだからすぐに戻るって言ってたのに。もしかしたら、なにか騒動に巻き込まれてるんじゃないかと思って、その。……すぐに帰ってくるから、夕飯の準備、少し待ってもらえないかな。ちょっとだけ様子を見に行って来たいんだけど」
 思いつめた表情で目を泳がせつつ懇願する金吾に対し、きり丸と虎若は話の内容が明らかになるにつれて目元から表情を消し去っていく。最終的に探しに行きたいと言わんばかりの言葉に死んだ魚のような目を見交わし、物も言わずに金吾の首根っこを掴んだ。
「はいはい、とっとと晩飯の準備進めるぞー。あと過保護もほどほどにしとけー。いい加減失笑モンだからな、それ」
「今日は玉ねぎの味噌汁と鰆の燻製の味噌焼きにするから、玉ねぎはお前が切れよな。ったく、くっだんねーことで重大事件みたいな顔しやがって。喜三太は新入の一年か! あいつだって今年で十三になるんだぞ!? 早く帰るなんて言ってても、ちぃっとくらい遊び歩いて遅くなることだってあるっつーの!」
 未だ不安げな顔を見せる金吾を今度は気にする素振りも見せず、虎若は平然と金吾を引き摺り、その隣を歩くきり丸はぶつぶつと愚痴を零す。ただその行動は金吾にとって予想外の物だったのか、一瞬だけ信じられないといった表情で目を見開くと、すぐさま引き摺られる力に反抗すべく手足をバタバタと暴れさせた。
「っ、なんだよ、離せよ虎若! ちょっと見てくるだけだって!!」
「心配しなくってももうすぐ帰ってくるって。騒ぐんなら夕飯の時間が過ぎてからにしようなー」
「先に言っとくぞ!? くっつく前は前で苛々したけどな、今は今で鬱陶しいくらいだからな!? そろそろ俺達が普通に対応出来る感じに早く落ち着けよ!?」
「なんの話だ! だから、騒動に巻き込まれてる気がするって言ってるのにー!!」
 友人達に届くべくもない叫び声を上げ、金吾は抵抗も虚しくずるずると引き摺られていく。その嘆きの声に各部屋からは興味をそそられた様子でいくつもの顔が覗き、その主が金吾であることを知るや否や失笑交じりの笑みを浮かべてそっと木戸を閉じられた。
 ただしそれから一刻を過ぎた頃。憤慨した表情で腕を組んで座る金吾の前に、非常に申し訳なさそうに肩身を狭めた九人が並んでいた。
 特にきり丸と虎若に関しては、肩身を狭めるどころかもはや床に額をつける勢いで頭を下げたままその姿勢を保っている。それを些か苦笑の中で見守りながら、土井が木戸近くに腰を落ち着けている状態だった。
 夕食の支度もし終わり、喜三太を除く全員がそれぞれの食事を終えた後。すっかり空が濃紺に染まっても戻らないナメクジ使いにさすがに嫌な予感が頭を掠め、庄左ヱ門が慌てて担任教師達に相談に走ってから四半刻後のことだった。
 今回に限り、普段は作戦立案時に使用する庄左ヱ門達の部屋ではなく金吾と喜三太の部屋で現状報告が行われている辺り、金吾の不愉快さが窺い知れる。
「だから最初に言ったよな!? なにか騒動に巻き込まれてる気がするから、ちょっと見てくるって! それを過保護だのなんだのって言って、全然信用しなかったのは誰だよ! そしたら案の定喜三太は帰ってこないし、暗くなってから慌てるような始末になってさ! あの時動いてれば調べるのも楽だったはずなのに!! 今更謝られたって、無駄になった一刻は帰ってこないだろ!? お前らが僕をどう思ってるかは知らないけど、ちょっとはこっちの勘も信頼してもらいたいよ!!」
 心底苛立っていると分かる荒々しい口調で立腹を露わにする金吾の言葉に、今回ばかりは叱られても仕方がないとばかりに虎若もきり丸も姿勢を崩さない。それをほとんどの面々がフォローの仕方も分からないままに苦笑で見守る中、一角だけがその目を盗んでひそひそと囁き合った。
「勘って言っても、金吾の場合は普段も当たり外れが激しいしさぁ。今回のは相手が喜三太だったから珍しく当たりを引いたってだけじゃないの?」
 こそりと兵太夫が耳打てば、団蔵が静かに何度も首肯を繰り返す。
「俺もそう思う。っていうかコイツの場合、喜三太の危険察知装置でもついちゃったんじゃないか? でなきゃ今日のはおかしいだろー」
「えー、ついにそんなの搭載しちゃったー? やるね金吾、愛だね愛!」
 内緒話に花を咲かせる兵太夫と団蔵に、三治郎もが横から首を突っ込んで同じく談笑に耽る。すると人数が増えてしまったことで密やかだったはずの話し声は音量を増し、ただでさえ狭い部屋の中によく響いた。
 じろりと動いた剣士見習いの鋭い目が、苛立ちも隠さず三人を睨みつける。
「黙れ」
 押し込められた声音が自分達の知り得るどの声色とも違うことに思わず戦慄し、三人は兵太夫を中心に身を寄せた。
「……こっわぁ……」
「茶化したらダメだな。下手すりゃ刀抜くぞ、今のコイツ」
「重い。金吾の愛情、思ってたよりかなり重いっ」
 沈黙を強要されたにも拘らず、口を噤むつもりはないのかやはりひそひそと囁きは続く。それをわなわなと震えながら堪える金吾に、しんべヱが眉尻を下げた笑みで背中を叩いた。
 それを見届けながら、庄左ヱ門が口を開く。
「それで金吾。喜三太は最低限苦無一本と手裏剣二枚、小さい方の錏だけは持って出かけたんだね? あとはナメ壷と、ナメ壷を担ぐための網だっけ。……まぁそれだけ持っていれば滅多なことはないと思うけど。買いに行ったのは筆記具ってことで間違いないんだね?」
 問い掛けに、神妙な顔でゆっくりと頷く。
「墨と新しい筆、帳面を買いに行ったんだ。新学期が始まる前に買っとけば良かったのに、なんだかんだと理由をつけて怠けてたから……。ただ、今は春だし町には露店も多い上に、野生のナメクジが冬眠から起きだしてくる頃だ。町だけでなく山の中で寄り道をした可能性も高いから、正直、町で騒動があったとは断言出来ない。……本当は僕が一緒に行けばよかったんだろうけど、戸部先生との剣術指南の約束があってどうしても行けなかったんだ」
「うん、そうか。まぁ一緒に行かなかった件に関しては仕方がないよ。むしろ僕らなら、誰かが一緒だと纏めて巻き込まれて逆に面倒なことになってたかもしれない。なにより金吾と喜三太が二人して夜まで帰ってこないなんて言ったら、一部が赤飯を炊いて帰りを待ちかねないからね。翌日に発覚なんて事になるよりは良かったよ。金吾が気にするようなことはなんにもないさ」
 口惜しげに奥歯を噛む金吾に対し、庄左ヱ門はあまりにもさらりとその懺悔を受け流す。そのいっそ素っ気ないほどの返答に場の全員が思わず沈黙し、しかし発言内容を噛み締め、金吾以外は反論も出来ずに目蓋を下ろして低く唸った。
「……確かに野暮なことはしないで、帰ってくるのを待つかも……。そういうのは非推奨ではあるけど、金吾なら先走ったことはしないだろうとも思ってるから、帰ってきてからちょっと話を聞こうくらいにしか思わないかな……。あ、そのテの薬があったかを三反田先輩に聞きに走る方が先かも」
 乱太郎の独り言を皮切りに、それ以降次々と同意の声が上がる。
「俺だったら、どっかの長屋で小豆持ってないか聞きに走るな。白餅はどうにかなりそうな気もするし、うん。小豆探して、格安でもらってくる」
「いざ二人が揃って朝に帰ってきたらちょっと気恥ずかしいけど、やっぱりおめでとうって言いたいもんねぇ。僕も騒がないで待つかなぁ」
 ちょっと恥ずかしくて顔が見られないかもしれないけれどと笑うしんべヱに、可愛いことを言うじゃないかと周囲が冷やかす。しかし笑いながらもやはり同じ思いなのか、誰もがほんのりと頬を染めていた。
「私もしんべヱと同意見かな……。でも帰ってくるまで気になっちゃうと思うから、手持ち無沙汰に掃除や繕い物を全部やってるかもしれない」
「とりあえずうまくいくように念を送る! ヘタレず頑張れっつって、神頼み!」
「きり丸が小豆もらってくるなら、やっぱ慌てて赤飯炊くなぁ。あとは鍋でちょっとだけ白飯を炊いて、団蔵と二人で餅にする」
「僕は金吾と喜三太の部屋の地下に、もう一個内緒の部屋を作る作業に没頭する! 喜三太は平気そうだけど、その後金吾が長屋でイタせるとは思えない!!」
「じゃあ僕は兵太夫のお手伝いー」
 楽しげにはしゃぐ級友達と思いがけず盛り上がってしまった話題に、金吾が呆然とした表情でそれぞれの顔を見回す。その顔は顎からゆっくりと染まるように赤く滲み、最終的には真紅に染まってパクパクと口を開閉した。
 その金吾に、なにを今更と庄左ヱ門が首を傾ぐ。
「そりゃそうなるよ。だって金吾と喜三太の件に関しては、僕らみんなヤキモキしっぱなしだからね」
「や、あの、でも……!」
 オロオロと泣き出しそうな顔を見せる金吾が、羞恥で頭を爆発させるかと思えるほど顔を赤くしたときだった。
 木戸の近くから、突然大きな咳払いが響く。
 その若干わざとらしい音に、全員がぴたりと動きを止め、錆の音でも響かせるような動きでそちらを見返る。そこには若干憮然とした表情を浮かべながらも気まずげに目線を脇へ逸らし、頬を赤らめるでもなく照れている教科担任の姿があった。
 最初から同席していたはずの存在を失念しきっていたことをようやくになって思い出し、全員の顔から血の気が引く。
 その中でも金吾は真紅から蒼白へと顔色を変え、ふらりと体を揺らしたあと縋るように手を伸ばした。
「あの、えっと、土井、センセ……っ! ちが、違うんです! そういうんじゃなくて、あの、その、えっと……!! してないですからっ! そういうこと、してないですからっっ!! き、喜三太のことはえっと、その、友達、と、してっ、好きな……うぁ、そうじゃないけどそういうことなんです!! とりあえずこいつらが今言ってたことは全部忘れてくださいお願いしますー!!」
 絶叫する懇願に、土井が苦笑で唇を歪める。混乱のためにもはや言葉を文章として纏め上げる能力すら失いかけてしまっている教え子に、分かってる分かってると数度頷いて頭を掻いた。
「そこまで心配せんでも、私も今はうっかりして睡魔に気を許していたからお前達の話は聞き逃していたよ。お前達はすぐに話を脱線させるから、こっちも聞き逃す作業が上手くなってしまって困ったもんだ。……それより、そろそろ情報収集に走ってくださっている山田先生がお戻りになる頃だ。雑談はそれくらいにして、きちんと準備をしておきなさい」
 窘める口調と決してうまくはない嘘に、それでもどうにか聞かなかったことにはしてくれるらしいとほとんどの面々が胸を撫で下ろす。中でも金吾は嘘を見抜くことも今は出来なくなっているのか、それとも聞き逃したという単語だけを認識したのか心底安堵した表情でその場に座り込んだ。
 本人が納得したのならそれでいいのだろうと、その他の表情も落ち着きを取り戻す。しかし乱太郎、きり丸、しんべヱは土井の複雑そうな表情を目聡く見止め、申し訳なさそうにこっそりと両手を合わせた。
 騒ぎがそろそろと収束を見せる頃、するりと木戸が開かれる。
「すまん、遅くなってしまったな。喜三太はどうやら、単身で怪しい両替商へ潜入を……。って、なんだお前達。土井先生までそんな困った顔をして。わしのいない間になにかあったのか?」
 木戸を引き開けるや否や早速報告に移ろうとした山田が、室内の微妙な雰囲気を察して目を丸くする。泣きそうな表情で脱力しきっている金吾と、それを慰めているような周囲。そしてまるで親離れを目の当たりにした父親のような表情を浮かべる土井と、そんな土井に両手を合わせて申し訳なさそうに拝んでいる三人組。その姿を順番に見回しては首を傾ぐ実技担任に、誰もがただただ苦笑を浮かべた。
 気にしないでくださいと進言される言葉に、納得のいかない様子でありながらも仕方なさそうに室内へ入り、腰を下ろす。
 ともあれ具体的な情報が入ったらしいと知れば、途端に室内は緊張したものへと空気を変えた。
「山田先生、喜三太が単身でと仰いましたが」
 土井が僅かに身を乗り出せば、十人もそれに倣う。
「そうだ。運よく惣菜屋がまだ店を出していてな、少しばかり話を聞くことが出来た。……どうやら喜三太は怪しげな両替商の噂を耳に入れ、単身で調査に行ったようだ。桃色の着物を着て壷を担いだ少年が、両替商の前でウロウロと中を窺っていたという話でな。桃色の着物だけでなく壷を担いでいたとなれば、喜三太と見てまず間違いはないだろう」
 簡潔な報告に、それでも信憑性を感じそれぞれの頭が首肯する。しかし報告の中に出てきた両替商という単語にきり丸が眉間を寄せ、そんなところがあった覚えはないがと首を傾いだ。
 その仕草に、山田が静かに頷く。
「お前の疑問ももっともだ、きり丸。少し調べてみたんだが、件の両替商はつい二日前に暖簾を出したばかりらしい。二日前と言えば、お前は新学期の準備で町には出ず、近所のバイトでやり過ごしていた頃だろう。知らんのも無理はない。播磨方面での大店が出した新店舗という触れ込みのようだが、開店前の事前告知は一切なかったようだな。その上、店は町外れで廃れていた空きの貸し店舗を改装もせずに開かれたものだ。土地の大家に話を聞きに行ったんだが、土地の借用人はどうやら大陸の人間らしい。店を開くつい五日ほど前に来て、突然その店を貸して欲しいと願い出てきたんだそうだ。怪しいとは思ったらしいんだが、新品の精銭を大量に持っていたためにその場で交渉が成立したとのことだった」
 さらさらと紡がれる報告に耳を傾け、それぞれに頭の中で内容を咀嚼する。やがて真っ直ぐに上がった一本の腕に山田は目を細め、庄左ヱ門と名を呼んだ。
 発言の許可を意味するそれに、級長は嬉しそうに表情を華やがせる。
「大店が新店舗を開店するにあたって宣伝をしないという不自然さ、また、古い貸し店舗を改装する時間も惜しんで、まるで思いつきのように動いているとも考えられるやり方。そして借用人が大陸の人間であることと、借用に際して新品の精銭が大量に用いられたこと。それが怪しいのは分かりますが、それは調べたからこそ浮かび上がってきた部分ですよね。喜三太が単身で乗り込んだ理由に該当するようなあからさまに怪しいなにかが、他にあったってことでしょうか」
 熱を込めるでもなく淡々と口に出される疑問に、土井を含んだほかの面々もが山田を注視する。それをどこか満足そうに口元を緩めて見遣り、無論だと肯定の言葉が漏れ落ちた。
「どうやらこの両替商、その新品の精銭一枚をビタ銭二枚で、欠けや割れでは四枚ほどで交換していたらしい。以前ドクタケが似たようなことを起こしていたのは、お前達もまだ覚えているだろう。あの時ですら、ビタ銭三枚との交換だった。恐らく喜三太も覚えていたんだろうな。通常の価値を考えれば、異常だということは誰でも分かる。もっとも、店の者は古銭集めが趣味だという店主の道楽だと話していたようだが……」
 悩ましげに眉間を寄せた山田の言葉に、大人しく話を聞き入っていたは組の面々からどよめきが上がる。勿論そのどよめきの中心がきり丸だろうということは土井も山田も既に理解済みではあったものの、改めて向き直った先に見えた姿に二人は思わずびくりと体を震わせた。
 ぐったりと床に倒れたまま、涙とよだれと鼻水を垂れ流しつつ体を痙攣させているきり丸に咄嗟の恐怖が背筋を走る。
「こらこらきり丸! しっかりせんか!」
「叫ぶかと思っていたのに静かだから変だとは思ったが、なんでそんな怖い格好になってるんだお前は!」
 冷や汗を浮かべながら叫ぶ担任達の声に、それでもきり丸はボロボロと涙を流したまま体を起こさない。やがて見かねた乱太郎としんべヱが慰めるように髪を撫で足を軽く叩いてやれば、ようやく言葉を思い出したかのように切実な声音が唇の隙間から這い出した。
「なんで俺は……っ! ビタ銭全部持ってそこに駆け込まなかったんだ……っっ!!」
 地を這うような吐露に、そうだろうともと苦笑が場に溢れる。
「あのなぁきり丸。配られているものが精銭なわけはないだろう。偽金でも価値は発生するが、バレたら即座に価値が暴落するような危なっかしいものなんだぞ?」
「それでもぉっ……! 怪しいと思ってたって精銭と見分けつかないんだったら、そいつはもう精銭みたいなもんじゃないっすかぁ……っ!! 俺それでもいい……っ!!」
 顔をグシャグシャに歪めながら悔し涙を流すきり丸の意見も分からないこともないと頭を掻き、山田と土井が顔を見合わせる。その間に乱太郎としんべヱはきり丸を慰めることに集中し、にわかに騒がしさを増した室内がまた雑談に入ろうとしたときだった。
「喜三太がその両替商の近くにいるってことは、間違いないんですね」
 凛と響いた声に、全ての視線が集中する。見れば、真っ直ぐに背筋を伸ばした金吾が唇を引き結んで教師二人を見据えていた。
 熱意の込められたそれにそうだと肯定の言葉が返ると、そのまま視線が策士へと移る。
「庄左ヱ門、もたもたしてたら明日になる。喜三太は相手の目論見を探りに行ってるんだ。場所が分かってるなら、僕らも早く動いた方がいい」
 声色に心配するが故の焦りと怒りが滲んでいるのを感じ、庄左ヱ門がやれやれと肩を竦める。今回はやけに本気じゃないかと揶揄する言葉に、金吾は無視を決め込んで口を噤んだ。



−−−続.