誰か、誰か、誰か。
 必死に助けを求める心とは裏腹に、喜三太は言葉も出せず、ただ一心不乱に長屋の廊下を走り抜けていた。
 壁に貼られた注意文など目にも入らず、入ったとしても言葉の意味などどうでもいい。
 朝日も昇らない暗い学園内。自分達のいつもの部屋。突然の音、飛び起きた自分、目に入った情景。
 苦しげに藻掻いていた、自分と同じほどの腕の残像が、目に焼きついて離れない。
 その目に、ようやく見えた教員長屋の目指す一室。早朝という時間の遠慮も何もなく、喜三太は縋るように木戸に指をかけ、そして一気に開け放った。
「先生、助けて! 金吾が、金吾が寝ぼけて木刀振り回してたら、弾き上げたナメ壷が頭にハマッちゃって、金吾が死にそうになってるよぉ!!」

(金喜)


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 夏休み帰っていた実家で、珍しい染料が手に入った。
 なんでも東国、しかも流刑の地で罪人達が見つけた染料だとかで、最初こそその話に理由もなく恐怖を感じて敬遠していた。
 罪人という言葉は、実際に悪事を働く人間よりもよほど恐ろしいイメージを脳内に植えつける。
 けれど染め上がりのその色に、伊助はそんなことさえ忘れて見入ってしまった。
 美しい琥珀色。その色に魅せられ、染地の端布をねだって見事手に入れた。少し派手かもしれないが、だからこそあの腐海のような部屋の中で埋もれてもすぐに見つけられるだろうと、知らず笑みを漏らし、裁縫箱の横に腰を下ろした。
「よっし。いっちょ無理しがちな馬鹿大夫に、お守り袋の一つでも作ってやるかぁ!」

(虎伊)


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 綺麗な生き物だと思う。
 よくもこんな美しい生き物が生まれたものだとも思う。
 艶やかによく手入れされた毛並みや、目に見えて分かるしなやかな筋肉。
 例え騎乗されていようと、その腿に鞭を打たれようとも、駆ける姿はやはりどこか楽しげに見える。まるで駆ける事こそ存在の意義だとでも言うように、身を震わせ、目を輝かせて先を真っ直ぐに見据えるその姿に、庄左ヱ門は知らず、唇を笑みに歪めて疾走する影を見送った。
「いつもみんな冗談みたいに言ってるけどさ。やっぱりお前、馬にそっくりだよ」

(団庄)


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 釘と、螺子と、杭と、ノミと、カンナと、槌と、板と、針と、糸と、漆喰とをまるで愛でるように組み上げていく指を目で追い、思わず見惚れて溜息が出る。
 ことカラクリに関してのみ発揮される計算高さで描き上げられた図面、そこに注がれるこれ以上なく真摯な眼差し。いつなり使えるようにと釘を咥えた唇に、危うさなど微塵も感じさせず道具を操る指先。
 恋煩いにも似た様相でそれらを眺め、三治郎はどこか拗ねた口調で小さく呟きを落とした。
「金楽寺の和尚様が言っていた輪廻ってやつが本当にあるなら、僕、次は兵太夫の作るカラクリになりたいよ」

(兵三)


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 結局自分の一方的な片思いが届き、見事成就する日なんてものはこれから先きっと来ないのだろうなと、そう呟かれた言葉に対し、居合わせた親友二人は言葉もなく、ただ物言わずそろりときり丸の肩を抱き、両横へと腰を下ろした。
 その無言の温もりが、その予感はきっと真実だろうと言外に確信を告げて諦めにも似た苦笑を浮かべさせる。答えるように両隣にあるそれぞれの膝に手を置けば、やはり、何も言わないままにその上に手が重ねられた。
 最初から、きっと息子としてしか見てもらえないだろうと心の中で分かっていたはずが、はっきりと自覚してしまうと酷く切ない。
「……でも、な。俺の一番特別なのはどうやったって先生だけど、俺、いっぱいいっぱい、は組のみんなに大事にしてもらってるもんな。お前らだって特別だ、これはどんなことがあってもずーっと一緒だ。……だからさ。俺、お前らが俺を親友って呼んでくれるなら、それで最っ高に幸せだよ」

(土←きり(+乱+しん))


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 ほんの自主トレ、いや、予習のつもりだった。
 ただ自分は残念なことに、この申し出をするという予習をすることを忘れていた。
 下らないミスをした。けれど後悔したところで今は遅い。探すべき背中は既にここにはなく、目の届く限りの場所にも見受けられない。自分の勘は予測不能の場所を探し当てられるほどには良くはなく、むしろ巻き込まれがた不運といった不名誉な代名詞まで冠してしまっている。
 そうなれば、縋る先など一つしか残されていない。
「ごめん作! 三之助がいなくなったときのために予習しとこうと思ったんだ。だけどアイツ、ホントにいなくなって……!」
「前々から思ってたけど、お前、賢い振りしてかなりの馬鹿だろ実はぁああああ!!」

(次浦)


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 ボーっとするなよと、いつもの声が言う。
 見れば先を行っていた三人が立ち止まり、いつものようにどこか呆れたような、けれど仕方なさそうな形容し難い笑みで自分を見返っていた。
 その面々の中で、一番後方に位置して待っていた久作の手がゆっくりと差し出される。
 体育委員なんだからもうちょっとしっかりしろよと掛けられる声に照れて笑い、小走りに追い縋って手を握った。
 委員会のわりに柔い手だなと眺める顔にへらりと表情を緩めて返せば、前方から囃したてる声が耳に届く。
「久作、お前自分をツンデレだと思ってるみたいだけど、傍から見てたらデレデレの部類だぞ」

(久シロ)


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 昔はもっと小さかったのにと愚痴を零せば、いつまでも子供のままじゃいられませんよと、自分を背負った背中が笑いに揺れた。
 賊の銛が腿を貫き、足が使えなくなったのは情けないながらも自分の失態。痛みのためうまく歩くこともできずにいた自分を、同じ水練としても家族としても後輩に当たる重が了承も得ずに担ぎ上げたのは先刻のことだった。
 仕事にぎこちなさが消え、いっぱしの海賊としての働きが出来るようになってから随分と体が出来上がってきたものだとは思っていたが、それが水練の役についてからというもの殊更に顕著らしいと溜息が漏れる。
 記憶の中ではいつまでも幼さの抜けない少年のままだったが、さすがにそれも認識を新たにしなければいけないかと僅かに首を振る。
「危険な時は守ってやろうと思っていたガキだったのに、背中を預けるどころか勝手に体を担ぎ上げるような男になられたんじゃ、見直す他はないよなぁ」

(重みよ)


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 その部屋はまるでゴミ山を押し込めたようになっていた。
 否、一応の訂正を施すのなら、ゴミの山というよりはゴミの平原とでも言ったほうがいいのだろうか。床には出しっぱなしの人気や武具が転がり、ともすれば足元できらりと光る鉄菱に刺されそうで、まして汚れたままの着物や頭巾などが散乱している様子はまさに所狭しと表現するに相応しいとさえ思う。
 凄惨なその光景に、まさかここが自軍忍組組頭の部屋だとは敵の間者でも思うまいと頭を抱えた。
 仕方なく、片付けと洗濯のためにと脱ぎ散らかされた着物に手をかける。
 するとその袖からはらりと紙が滑り落ち、諸泉は手を止めた。
 目に飛び込んだその筆跡と文章に、どうしたものかと頭を掻く。
「……感謝の手紙を忍ばせるような手間をかけるならね、組頭。どっちかって言うと、直接言ってもらったほうが嬉しいんですけども」

(雑諸)