翌日の朝から事態は一変した。
 昨夜の出来事で開き直ったのか団蔵はそれまで以上に庄左ヱ門に接触を図るようになり、事実朝の洗顔の時点で後ろから抱きついて見せた。
 無論その変化に昨夜同席していなかった伊助を始め、当事者である庄左ヱ門も面食らったような表情を見せたが気にするような素振りもない。突然どうしたのと問う声にも明確な答えを返さず歯を見せて笑うばかりの団蔵に、最初は訝しんでいた級長もやがて気にすることを諦めたのか、授業が始まる頃にはその態度を甘んじて受け入れるようになっていた。
 そして庄左ヱ門が気にしないとなれば、他の面々もあえてそこに首を突っ込むような野暮はしない。開き直ったらしいと知っている虎若達もそれを他の誰かに吹聴することなく、言うなれば温かく見守るように、それとなく二人を遠巻きに観察していた。
 授業が一つ終了するたびにじゃれ付く紺の髪に、まんざらでもない様子で庄左ヱ門も応じる。その円満な様子をどこか祈るような心持ちで見つめる級友達を知らぬ顔で、団蔵はより一層積極的に接触を試み、庄左ヱ門はそれをにこやかに受け止めていた。
 昼を告げる鐘が鳴り、午前授業の終了を知らせる。
 途端に騒がしさを増した教室の華やぎが学舎全体に伝播したかのように、時を置かず、廊下のそこかしこで会話に花が咲く。それから少し遅れて支度を終えた庄左ヱ門が腰を上げると、その眼前には当たり前のように団蔵が立って手を差し出していた。
 そしてやはり級長は当たり前にその手を取り、軽く引いて立ち上がる。
「今日は随分と構ってくれるじゃないか」
 並び立ち、庄左ヱ門は僅かに視線の噛み合わない目を見下ろす。常であれば僅かな不興を買うだろうその仕草も、今は気にもならないのか団蔵は嬉しそうに笑って見せた。
「そいつぁ下心ってやつだよ、策士さん」
「へぇ。お前は裏も表もない分かりやすい奴だとばかり思ってたよ」
「どうだろうな。それは世を忍ぶ仮の姿だったりして」
「この三年弱もの間、ずっとそれを貫いてたって? 下手な嘘だ」
「だよなー」
 じゃれるような会話を交わし、廊下に出る。先を行く級友達は既に今回のメニューについて楽しげに談笑を交わし、振り返りもせずに食堂へと歩みを進めていた。
 無論それはこの二人とて例外ではないが、不意に団蔵の目がちらりと一つ先の教室を確認する。
 本来クラス名が書かれているはずの場所には資料室と書かれた札が掛けられ、授業も一段落を迎えた現在は人の気配とは無縁な様子で静まり返っている。そして自分達の後ろからは誰も歩み寄る気配がないことに目を配り、庄左ヱ門の腕を掴んだ。
 面食らうほどの余裕も、驚きの声を上げさせる間もなく、二人の姿が資料室の中へと消える。
 些か埃っぽいその室内の空気に僅かに咳き込み、庄左ヱ門の眉間が寄せられた。
「……いきなりじゃないか」
「いいからちょっと黙っとけよ」
 開いたままの木戸に肩を押し付けるような形で追い詰め、僅かに首を伸ばして庄左ヱ門の唇を奪う。
 少し乾燥でカサついた唇を舌で舐め上げれば、押さえ込んだ肩が力を抜くのが感じられた。
「んっ」
 そのまま薄く開かれた隙間に舌を捻じ込み、庄左ヱ門のそれと絡める。舌の裏へと這わせればひくりと反応を返した体に、目元だけでにんまりと笑んだ。  すっかり緊張が解けたのかそれとも抵抗など諦めているのか、大人しくこの行為を享受している姿に安心し、団蔵は接吻けの合間に小さく息を吐く。
 啄ばむような水音と共に呼吸が漏れ落ちたその隙を突き、庄左ヱ門の腕が腰に伸びた。
「っ、ぅんん!?」
 突然腰を抱かれた動揺に声を上げようとするも、今度は庄左ヱ門から執拗に舌と唇を吸われて思うように言葉にならない。上顎を舐め上げられる感覚に背筋がぞくりと震え、団蔵は咄嗟に、自由の利く足で思い切り庄左ヱ門を蹴りつけた。
 痛みに顔を顰めて腕を離した級長から距離を取り、身構えたまま睨みつける。
「なんでお前が仕掛けてんだよ!」
「なんでって。団蔵が誘ってくれたのかと思って」
「なんっでだよ! 俺は、お前に! 俺が上だって納得させたいんだっつってんだろ!!」
「そうは言ってもなぁ」
 呼気を荒げて反論する言葉に、飄々とした表情で頬を掻く。それを不満げに睨む目を見返し、庄左ヱ門は困ったように眉尻を下げて見せた。
 それに片眉を上げて見返し、なんだよと小さく呟く。
「いや……でもね。無理だと思うよ団蔵」
「なんで。やってみなきゃ分かんねぇだろ」
「分かることだってあるよ。だって僕はこんなにもお前が好きなんだから」
「俺だってお前が思ってる以上にお前のこと好きだっつーの!」
「あー、うん。それはそうなんだろうけど」
 なんと言ったらいいのかと悩む仕草に、ますます訝しげに眉間を寄せた団蔵が焦れたように人差し指で自身の膝を叩く。それを横目に捕らえながら、庄左ヱ門はやれやれと視線を伏せた。
「僕は、お前が安心して背中を、本陣を任せてくれるような存在になりたいんだよ。だからお前に守られるわけにはいかない」
 言葉に、団蔵の目が瞬く。理解しているのかいないのか、呆然とも表現できるその表情に苦笑を浮かべた庄左ヱ門に、やがて団蔵は呆気なく反論した。
「俺は、お前が今背負ってたりこれから背負う重圧とか負担を、笑って請け負ってやれる存在になりたい。だからお前に守られてちゃ意味がないんだ」
 吐き出された言葉に、今度は庄左ヱ門の目が瞬く。しばらくの間そのまま互いに無言で見つめ合い、端から見る者がいれば随分と間抜けな顔だと笑うような表情で沈黙を守っていた。
 次第、その沈黙に気まずさを感じたのか庄左ヱ門が不意に目を逸らす。
「……分かった。お互いがお互いを想い合ってるのは、僕もお前も今の言葉でよく理解したと思う。だから今は少し、考えを纏める時間を設けようよ。もう早い奴なら昼食を食べ終わってる時分だ。席も空いてると思うし、そろそろ食堂に行こう」
 それだけ言い置き、背を向けて木戸から出て行こうとする庄左ヱ門に、まだ現実に引き戻されていなかった団蔵がはたと我に返る。そのまま自分の目の届かない場所へ行こうとする背中に慌てて手を伸ばし、おいと声を荒げて肩を掴んだ。
 しかし、庄左ヱ門はその仕草に首を傾ぐ。
「今日のランチはハンバーグのはずなんだけど、食いっぱぐれてもいいの?」
「へ!?」
 あまりにも先刻までの雰囲気と打って変わり、さらりと食堂のメニューに触れた内容に思わず気合を殺がれて団蔵の頭が混乱を起こす。
「あ、えと、それはヤダ!!」
 一通り目を泳がせたあと、とりあえずその結論に辿り着き庄左ヱ門の前に出る。ただ食堂へ向かう足取りは一歩二歩と進むごとに気力をなくし、やがて肩を脱力させて項垂れた。
 どこで雰囲気作りを間違ってしまったのだろうかと情けなさに涙を浮かべたその背中に、楽しげな声が掛けられる。
「なぁ、団蔵」
「……うん、ハンバーグ大事だよな。早く行かなきゃな」
「そうじゃなくて」
 ぐいと腕を引かれ、勢いのままに振り返ったところを接吻けられる。
 糸も張らぬような啄ばむだけのそれに、一瞬理解も出来ず思考が停止した。
 その顔に、庄左ヱ門はことさら柔らかに笑みを見せる。
「夜、今度は僕の部屋に来いよ。それで今度こそどちらが上か、きちんと白黒つけよう?」
 目を閉じるわけでなく、あくまで真っ直ぐに目を合わせながらの言葉にまた団蔵の顔が呆然としたものに変わる。それがだんだんと苦い笑みに似た表情になり、最終的にくしゃりとはにかんだ表情に変化し、あぁと諦めた声が落ちた。
「お前ってホント、なんでそんなにカッコいいかなぁ」


  ■  □  ■


 庄左ヱ門の誘い通り、二人は一組だけ敷かれた布団の傍らで座を正して向き合っていた。
 前回と違い室内は整然と片付けられ、仮にまた諍いが起こったとしても武器になりそうなものはどこにもない。それどころかあの日と決定的に違うのは、二人の持つ緊張感が恥じらいや羞恥を含まない酷く真剣なものになっていることだった。
 ほぅと低い音を響かせる夜鳴き鳥の声と、木窓を閉めていない格子の向こうから覗く月がやけに神経を尖らせる。
 ぴりと肌を焼くような緊張感を押し留め、まずは庄左ヱ門が口を開いた。
「……まぁ、最初は雑談から入ろうよ。なにもいきなりお前を押し倒して事に及ぼうなんて思ってないし、そっちだってそれが不毛な結果に終わったことは覚えてるだろ? あの後……昨夜も含め、お互いに色々考えちゃったのは間違いないと思うしさ」
 目を泳がせながらの言葉に、団蔵は肯定の言葉を返しながらも同じく目を泳がせる。脳裏に過ぎったのは哀れみを孕んだ左吉の視線とその言葉。それに苦々しく引き攣った口元を晒すと、団蔵は頭を振って回想を振り払った。
「あー、えっと、そうだな。なに、庄左ヱ門も色々悩んだんだ?」
「そりゃあね。……彦四郎の奴がどこから歪んだ噂を仕入れたんだか、突然僕の肩を叩いてきてさ。なにかと思って振り返れば、あんまり足に執着して触りまくるから気味悪がられて逃げられたんだろうとか言ってきて……。とりあえず本当の理由を言うのもあれだし、かと言って憐憫の対象として見てくるその視線を受け入れる気にもならなくてね……。悩んだ悩んだ……」
「……あの語り、彦四郎にもしてたんかお前……。つか、そういう哀れまれ方も嫌だなぁ確かに」
 足への執着の話は聞かなかったことにし、とりあえず愛想笑いの要領で同情しておく。それに些か不服そうに頬を膨らませた庄左ヱ門が、気にしないことにしたのか大きな溜息を吐いた。
「昨日そっちには四人いたんだっけ? 虎若と金吾に加えて、きり丸と三治郎。三治郎だけはちょっと意外だけど」
「うん。って、あれ? なんで知ってんのお前」
 ぱちぱちと二度瞬けば、それこそ意外そうに庄左ヱ門の目が見開く。
「なんでって言われてもなぁ。そりゃあそうだろ? 残りの5人はこっちの部屋に来て、僕の悩みを聞いてくれていたんだから」
「はぁ!?」
 思わず声を上げる団蔵に、庄左ヱ門は得意げに笑む。人徳がなくては級長は務まらないんだよと笑った声に、そりゃどうだけれどと情けなく顔が歪んだ。
「ちなみにね、団蔵。その五人は全員、僕が上だと信じて疑ってなかったよ」
「五人全員って……。へ!? あの、まさかしんべヱも!?」
「そう。まぁこんなのは数で決めるようなモンじゃないからね。どうということもないんだけど」
 肩を竦める庄左ヱ門のあまりに平然とした様子に、団蔵はと言えば言葉も出ない。同士の数が負けているというだけでも充分な衝撃ではあったものの、それ以上にそれを気にも留めない級長の態度が余裕の表れにも感じられた。
 自分では持つことの出来ないその冷静さに、憧れと同時に酷く嫉妬する。
 それを知ってか知らずか庄左ヱ門は再びにこやかに唇を開いた。
「で、団蔵。さっきなにか言ってたよね? 僕の負担を請け負いたいとかなんとか」
 言葉の真意を教えてと呟いた声音は、表情とは裏腹に押し込められたように低い。その低さと掠れ気味に聞こえる声音に不謹慎とは知りながら、団蔵は僅かに頬を赤らめ、そしてそれを誤魔化すように一度咳払った。
 欲情していい雰囲気ではないと自身に言い聞かせ、思考の中に言葉を探す。
「真意とか、そんなたいしたもんじゃないんだけどさ。お前の場合、ホラ。いっつも難しいこと考えててさ、なんだかんだと抱え込んでるだろ? みんなを仕切ってちゃんとそれぞれに合う役割を持たせて、その上で俺達がうまく動けるようにしてくれてるってのは凄いけど。それってお前に全部重圧とか責任を押し付けてんじゃないかなって思って。……だからお前に背負わせてる重さ、せめて少しでも俺が担いでやれないかと思うんだ。もしくは俺の分の重さくらい、自分で責任持って担ごうと思ってる。だけどお前が俺を抱く立場になったら、きっとお前の中で俺は守る対象になっちゃうから。だから絶対、それだけは嫌なんだ」
 正面から目を見据え、そしてはっきりと口にされた言葉に庄左ヱ門は僅かに目を伏せる。返答もなく、ただ考え込む仕草で逸らされた視線に文句を言うこともなく、団蔵はその場に落ちた沈黙を守った。
 やがて、うんと呟いた庄左ヱ門がなにか得心した様子で顔を上げる。
「とりあえず、分かったことが一つある。団蔵は僕のことを買い被りすぎだ。もし違うって言うんなら、可能性はもう一つ。お前はは組全体を過大評価しすぎてる」
 さらりとした切り替えしに、先程までの空気も忘れて団蔵が思わずぽかんとした表情で口を開く。それに可笑しげに喉を鳴らし、庄左ヱ門が人差し指を立てた。
「お前が思ってるほど、僕は難しいことを考えてるわけじゃないよ。だって僕らはまだ三年生だぞ? 発想や閃きはあっても、先生の手助けなしにはまだまだ未熟さが目立つばかりだ。運よくいろんな騒動を掻い潜って来られてるのも、周囲の大人達の尽力あってこそだよ。勿論みんなの信頼に応えたいという程度の責任感は感じるけど、一年の頃ならまだしも、今はそれが誇らしいと思えてる。……それにね団蔵。お前はどう思ってるか分からないけど、は組はやっぱりまだまだ未熟だ。一人一人の力量だってまだ任務を一つこなすにも充分じゃない。それを僕は相性のいい組み合わせで纏めていってるに過ぎないよ。だから責任感や義務感なんてものは僕を押し潰すほどの重さじゃない。むしろ僕はみんなにたくさんたくさん助けてもらってる。知ってるだろ? うちのクラスの奴らはみんな、困ってる人間がいたら手を差し伸べちゃうお人好しばっかりなんだ」
 つらつらと畳み掛けて流れていく言葉に、一瞬理解が及ばずオロオロと目を泳がせる。しかしその最中、何度も慌てて相槌を打ったことでようやく理解に至った語群に、今度は団蔵が悩んで腕を組んだ。
 果たして本当にそうなんだろうかと首を捻り、はたと気付いて顔を上げる。
「そうだ。さっきお前もなんか言ってた」
「お前が安心して本陣を任せてくれるような存在になりたいってやつ?」
「そう、それ」
 首肯と共に、僅かに膝を進める。
「それが言葉通りだとしたらなんだけど、お前はお前で自分のこと過小評価してんじゃないのか? 俺はもうとっくの昔に、お前に背中を預けっぱなしなんだぞ? だから四年生相手の授業でも無茶出来たり、一人でカッ飛んで行けたりするんだ。お前が俺の背中を預かってくれる代わりに、俺はお前の背中を預かってる気にはなってるけど。今更それが錯覚だったって言われたら、さすがにショックで頭真っ白になるってぇの」
 不貞腐れたように頬を膨らませ、眉間を寄せる。その表情に庄左ヱ門は惚けたように首を傾ぎ、本当にと小さな声を漏らした。
 音に、団蔵の片眉が上がる。
「……本当って、なにが」
「さっきお前が言った言葉。僕がお前の背中を預かって、お前が僕の背中をって」
「俺はそう思ってたって話だよ」
「いや。……違うよ、僕もそうであればいいなと思ってた。ただ正面切って言ってもらえると、やっぱりビックリするし恥ずかしいもんだね。嬉しいと思うより先に、同じ思いでいてくれたことに少し感激した」
 照れた表情で頬を掻き、隠れて唇を引き結ぶ。それが照れ隠しの仕草と知って、団蔵は思わず息を呑んだ。
 ひやりと部屋に入り込む風が枯茶色の髪を揺らし、山向こうに沈み行く巨大な月の光がそれを照らす。先程までは凛と背筋を伸ばして見惚れんばかりの姿を見せていたその人影が一瞬で愛らしい存在になったことに、自制の意識など働く間もなく手を伸ばした。
 そのまま床上に押し倒し、見下ろす。
「……団蔵、話はまだ終わってなかっただろ。ちょっと性急過ぎだよ」
「俺に抱かれるのはそんなに嫌ってことか?」
 切なく眉間を寄せ、声を絞り出す。その声音に困惑した表情を浮かべた庄左ヱ門に、団蔵は縋るような気持ちで言葉を続けた。
「俺は嫌だ。お前に抱かれるのは絶対ダメだって思ってる。お前がどんなに今の立場を重荷じゃないし負担じゃないって言っても、そんなの今までの話だ。これから授業も厳しくなるし、悩みだって多くなるのは俺にだって分かってる。そんな時、お前の手を引っ張って立たせてやらなきゃいけない役目が絶対必要なんだ。愚痴は伊助にだって乱太郎にだって吐き出せる。あの二人だったら、お前の愚痴を受け止めて抱き締めて、慰めてくれる。だけどお前に必要なのは立場の違う同じ場所で、離れてても代わりの役目も勤められる人間だろ。なのにもし俺が今お前に抱かれたら、お前に抱かれる立場に納まったら、俺はそうなれる自信がないよ」
 切々と吐露し、一度言葉を切る。
「俺はお前を殴ってやれる立場にいたい。だから抱かせろよ」
 押し倒しながら思いつめた表情で呟き、唇を重ねる。胸の奥になにかが詰まっているような苦しさに結局長くは合わせていられなかったそれを離すと、見下ろす表情が苦笑を浮かべていることに気が付いた。
 下から伸びてきた手が、頬を撫でる。
「卑怯だね、団蔵。言っただろ? お前が助けを請うときの顔は捨てられた子犬みたいに可愛くて、とてもじゃないけど僕には断れないって」
 喉を揺らした庄左ヱ門が、僅かに首を持ち上げて接吻ける。その甘やかな空気に目を見開けば、何を惚けているのとまた低い声が笑みを漏らした。
「脱がせてよ。いくらなんでも肌も重ねないような味気ない初経験なんて御免だ」
 挑むような表情で唇を吊り上げ、歌う口調で誘う言葉に肩が震える。歓喜か感動か、どちらにしろ歪んできた視界に唇を噛み、団蔵は帯に手を掛けるよりも先に深く深く接吻けた。


  ■  □  ■


 迎えた朝は信じられないほど晴れやかな天気だった。
 高い空には薄い雲があるだけで風も湿気を一切孕まない。それどころか空気それ自体が光り輝いているような錯覚に、団蔵は満面の笑みを浮かべて背筋を伸ばした。
「いー、天気!! 今日は実技の授業、なにすんのかな! こんだけ天気がいいなら走り回りたいなー!!」
 空を見上げ、有り余る気力を持て余し気味に体操へと移る。腱を伸ばし腕を回し、やがてその場で飛び跳ねだした団蔵に、背後から忌々しげな声が掛けられた。
「……ちょっと団蔵、手くらい貸しなよ。こっちは足の付け根とかその近辺がじわじわと痛んで辛いんだ。あとまだみんな寝てるかもしれないんだから大声出すなよ」
「あ、そか悪い! ……痛い?」
 振り返り、見下ろす。開け放たれた木戸の向こうには乱れた布団と座り込んだままの庄左ヱ門が白日に晒されていた。
 無論のこと夜着はきちんと着直されているものの、だからこそ一切立ち上がろうとしないその姿が嫌に生々しい。
 とにかく立ち上がらせてやらなければと差し出した手を、庄左ヱ門は遠慮なく掴む。
「聞いてはいたから覚悟はしてたんだけどね。今日の授業は実技どころか、教科ですら辛いかもしれない。座るととある場所に違和感があるわ痛むわで、集中できそうにないかな」
「……そんなにかぁ」
 申し訳ないことをしてしまったと眉尻を下げ、先程までの元気はどこへ失せてしまったのか項垂れる。団蔵の手を引いてどうにか立ち上がった庄左ヱ門がそれを見止めると、馬鹿だなと笑って頭を小突いた。
 痛みはないもののその軽い衝撃に、情けないままの顔で見上げる。
「分かってて受け入れたのはこっちだよ。なにもお前がそんな顔をすることないじゃないか。それとも、僕と契れたことを後悔しているのかな」
「っ、しねぇよ!!」
「だったらもっと喜べよ。知ってるか? どんなに年老いても離れても、自分の意思で想いを交わして最初に体を重ねた相手のことは絶対忘れないんだってさ。だから今後なにがあっても、僕はお前を忘れないし、お前も僕を忘れない。忍者を志す身にとって、こんな幸せなことがあるか? 少なくとも一人だけは、絶対に自分を覚えていてくれてるんだ。もちろん、うちの連中が友人を忘れてしまうような奴らだとは思っちゃいないけどね」
 笑って井戸へと踏み出した庄左ヱ門につられ、慌てて後を追う。地面への段差を先に降りて気遣うように手を出した団蔵に、姫君じゃあるまいしと笑い声が返った。
 それでもその手を取った級長を支え、二人で井戸へと進む。時折顔を引き攣らせる庄左ヱ門に労わりの声を掛けながらようやく井戸へと至り、釣瓶に手を掛けた。
 派手な水音を響かせ、桶に水を移す。
「こっち来れるか? 顔洗おう」
「大丈夫。それくらい出来なかったら大変だよ」
 よろつく足を無理矢理に進め、桶の前に腰を下ろす庄左ヱ門に、やはり不安げに目を配る。その視線に気付いたのか、二度ほど水を被った濡れた顔が困った表情で振り向いた。
「心配しすぎだよ。だから僕が上が良かったのに」
 咎める言葉に、また団蔵の顔が情けなく気力を失う。それに肩を竦めた庄左ヱ門がゆっくりと身を揺らして立ち上がった。
「だからそんなに気負わなくってもいいんだよ。どうせ僕が痛い思いをするのは今回だけなんだし、むしろ次はお前が覚悟を決めなきゃいけないって言うか」
「うん……でもホラ、やっぱ痛そうにしてんのを見ると申し訳ないって言うか……。って、は!?お前今なんて言った!?」
 しょげ返った表情のまま目を泳がせていた団蔵が、不穏な言葉に気付いて慌てて顔を上げる。
 その反応に、庄左ヱ門が知らぬ顔で手拭に手を伸ばした。
「だから、次はお前の番。僕の掠れ声は昨晩で存分に堪能したろ? 僕だってお前の足を触って舐めて頬擦りして堪能し尽くしたいんだから、今度からは僕が上になるのは当然の流れじゃないか」
「意味が分からん!!」
 絶叫し、昨日話し合った結果がなんでそうなるんだと混乱と共に反論する。
「二人の時は俺の足を触ろうと舐めようとどうしようと許すし好きにしたらいいけど、上だけは譲らない! ダメ! 絶対拒否!!」
「えー。……まぁいいよ。足は好きにさせてくれるって言うなら、散々触りまくってそのまま雰囲気で流しちゃうから。気が付いたら下にされてるって時の団蔵を想像しておく」
「だっ、だからっ! ダメだって言ってんのにー!!」
 あぁもうと絶叫を繰り返し、ふらつきながら長屋へ戻ろうとしている背中を追いかける。そして顔だけで振り向いたその表情があまりにも不敵な笑みを浮かべていたことに寒気を覚え、団蔵は拳を握り、作戦中に背中を預ける絶対の信頼は寄せても布団の中ではいっそ敵だと思うべきだと決意を固めた。



−−−了.