こんな気まずさを味わったのは後にも先にもこの日だけだったと、後に二人はしみじみとした表情で語ったという。
 普段のように激昂に任せて喧嘩をしたわけでもなく、かといって通常のように気兼ねない関係でいるというのも気分的に当てはまらない。その上、虎若と伊助のように妙に初々しく視線を交わしては微笑み合うようなそれも現状ではあまりにも似つかわしくなく、まるで錆付いた掛け金を掛けたり外そうとするようなぎこちなさを互いに感じざるを得なかった。
 しかも悪いことに虎若と伊助以外にこの二人も昨晩同衾したという話は既に学年内に出回っていたらしく、そしてこちらも誰がどういう風に話を巡らせたのか、団蔵と庄左ヱ門のほうはなにかしらの不具合が起きたために添い遂げられなかったらしいという話までがこの日の昼休みには既に学年に知れ渡っていた。
 娯楽の少ない閉鎖的な空間で噂の駆け巡る速度ほど恐ろしいものはこの世にないと、団蔵は敷かれたままの布団の上で項垂れた。
 既に入浴も終わり、あとは就寝を待つだけの時間。
 団蔵と虎若の部屋には金吾ときり丸、そして三治郎が集まり、車座になるでもなく思い思いに足を寛げていた。
 その中でも、きり丸の髪を編んで遊んでいた三治郎が笑いながら口を開く。
「でもさ、正直言って意外だよね。団蔵だったら庄左ヱ門が多少抵抗しても、無理矢理押し倒しちゃうかと思ってたのに」
 きゃらきゃらと楽しげに笑ってみせる声に、俺はケダモノかなんかかと脱力した声が返る。それをまた笑い飛ばし、そう思ってたってことだよと手を翻す三治郎に、さすがにそれはと金吾が顔を引き攣らせた。
「……まぁ三治郎ほどのことを言うつもりはないけど、とりあえず意外っていうのは同意かな。少なくとも僕は、その。……お前が上だと思って疑っていなかった」
「あー、そこは俺もそう」
「同じく! っつか、お前のほうががっついてそうっつーか」
「だよな!? ですよね!? 血気盛んな俺のほうが上っぽいよな!?」
 金吾に続いて同意を見せた虎若ときり丸の反応に、団蔵が我が意を得たりとばかりに身を乗り出す。その輝いた瞳に、がっついてるのは否定しないんだと虎若が苦笑した。
 それを敢えて咳一つで受け流し、団蔵が改めて胡坐を掻く。
「いや、ホントならさ、俺だって今日の虎若と伊助みたいにさ。二人を一目チラッと見ただけで、あーアイツら昨日なんかあったんだなー、なんか昨日と雰囲気変わってイチャイチャしてんなーって思われたかったわけなんだよ。な? 虎若みたいにさ、他のクラスの友達とか恋敵の先輩とかに校舎の影に引っ張り込まれて仔細を聞かれたり軽くボコられたりしたかったんだよ! そういう甘酸っぱいのが欲しかったわけだよ俺は!! なぁ!? 決してさ、哀れんだ目をした左吉に肩を叩かれて、最初は緊張して役に立たない奴もいるらしいから……とか言われたかったわけじゃないんだよ! っつかアイツ最悪な勘違いしてんだけど!! コレどうやって訂正したらいいんだよ!!」
 最初は胡坐を掻きつつ腕を組んでいた姿が、次第に腕を握る手に力が入り、最終的に布団を力の限り叩きつける団蔵に、まぁまぁと四人掛かりで慌てて宥める。とは言ったところでその勘違いはさすがに辛いと内心で苦笑して見せ、代表して虎若がその背中を軽く叩いてやることで僅かながらも落ち着きを取り戻した。
 はぁと漏れ落ちた溜息が、重苦しく布団に染み込んでいく。
「……俺、庄左ヱ門とちゃんとイチャイチャ出来るかどうか不安になってきた」
 ぐずと鼻を啜る音と共に零れた言葉にどう返答したらいいものか悩み、四人それぞれが困惑のままに目を泳がせる。その沈黙にさらに自信を喪失したのか、団蔵はまた一つ息を吐いた。
 ごろりと布団に寝転がり、胡坐を掻いた虎若の膝に遠慮なく頭を乗せる。そのあまりに慣れた態度に、お前が本当に好きなのは一体誰なんだと口を開きかけたきり丸が、やがて諦めたように肩を竦めた。
 それを気にせず、横になったままの沈んだ唇が微かに動く。
「庄左ヱ門、可愛いのになぁ。普段真面目な顔してる分、気が抜けたときとかメチャクチャ可愛いのになぁ。そりゃアイツの冷静さとか、作戦考えてるときのすっげぇ真剣な顔も惚れ惚れするくらいカッコ良くて好きだし、安心して背中を任せていられる信頼感もあって大好きなんだけどさ。……なぁ、アイツさ。もし仮に俺が下になったとしたら、今みたいに俺と対等な関係でいてくれない気がしないか? 庄左ヱ門ってなんでもかんでも背負い込んで、とにかく自分の手の届く範囲なら守ろうとするだろ。今は俺と背中合わせに立ってるし、なんかあったら無条件でお互いに背中を任せっぱなしにしてカバーし合えてると思ってるんだけどさ。もし俺まで守る対象に入っちゃったら、しまいにゃ潰れちゃうんじゃないかと思うんだよ。……それは、嫌なんだよなぁ。俺はアイツが倒れそうになったら、殴ってでも立ち上がらせる位置にいてやりたいんだ。あいつを甘やかすのは、伊助と乱太郎だけでいい」
 ぽつぽつと落ちる言葉に、その場がしんと静まり返る。
 確かに実生活上でも兄という立場であることが大きいのか、庄左ヱ門はは組の中でも庇護欲が強いように見受けられる。そしてこれも学級委員を長く続けてきている影響が強いのか、なにかあった際には必ず自ら進んで矢面に立つということは、この三年ほどの中でも充分に実感してきていることでもあった。
 沈黙の落ちた部屋の中、きり丸がふぅと溜息を吐き、背筋を伸ばす。
「……まぁ、なんにせよだ。団蔵の言うことも最もだけど、それが嫌ならどうにか庄左ヱ門を納得させて組み敷くか、それでなけりゃお前自身の頭の中身を切り替えるしかねぇよな。なんせ、お前も庄左ヱ門も頑固なところはそっくりだし、俺達が横から口出ししてもうまく纏まる気がしねぇよ」
 一見素っ気無い物言いに、しかし反論はないのか虎若と金吾が揃って頬を掻く。けれど未だきり丸の髪を弄んでいた三治郎だけはその言い方に不満を感じたのか、物言わず手の中のそれを下へと引っ張った。
 頭皮の引き攣る痛みに、思わずきり丸から短い悲鳴が漏れる。
 そこから始まったささやかな口論を敢えて思考の外へと追いやり、もう一人のこの部屋の主が目を泳がせながら口を開いた。
「あー。でもホラ、なんか相談したいとかいうのがあったら言ってくれれば、俺達もちゃんとそれには乗っかってやるからさ。お前はあんまり一人で抱え込むタイプじゃないけど、万が一そんなんになったら大変だろ? 具体的な助け舟は出してやれないけど、ちょっと背中を支えてやるくらいはいつだって出来るんだからあんまり悩んだりするなよ。お前と庄左ヱ門だったら、なんだかんだ言ってもちゃんとうまくいくって俺達はみんな信じてんだからさ」
 歯を見せて笑い、無責任とは言い難い快活な表情で団蔵の背を叩く。さすがに学級一の筋肉自慢を誇るだけあってその力は例え加減されていても思わず噎せ返るほどのものだったが、それでも悪気なく笑顔を見せてくる虎若にどこか惚けた様子で瞬いた。
 正しく、呆けると言うよりも惚けたその顔に、不穏なものを感じて首を傾ぐ。
「……団蔵?」
 問い、ふと周囲の視線に気付けば団蔵以外の三人までもがいつの間にか似た表情で自分を見ていることに気付いて思わず引き攣る。これは別の意味で伊助がよくやられているやつではないのだろうかと身を引いたところで、逃がすものかとばかりに四方から勢いよく飛びつかれた。
 ぎゃあと叫んでひっくり返るも、がっしりと巻きついた八本の手は虎若を掴んで離さない。
「なんっだよお前らいきなり!!」
「ごめん虎若! でも無理、なんか、こう! 兄ちゃんって叫びたい!!」
「やっぱり虎若はお兄ちゃんだった! もう見事なまでにお兄ちゃんだった! なんかいっそ感動した!! 僕のお兄ちゃんは完璧だった!」
「僕も、ごめん、なんか、変にホームシックにかかったみたいで泣きそう……。って言うか、きり丸が泣いてる!?」
「はぁ!?」
 突然の展開に、思いがけず場が騒然となる。虎若にしがみ付いたまま本当に肩を強張らせて目尻を赤くしていたきり丸に一体どうしたと慌てふためき、とにかく慰めるほかはないと周りを囲む。大きな手に抱え込まれた普段より幼く見える背中がなんでもないと強がりを見せるたび、それまで自分が頭を悩ませていたことが霧散していくような錯覚に囚われた。
 否が応にもなにかを抱え込まざるを得なかったきり丸の背中に、なぜか庄左ヱ門の背中が重なる。
 必死で慰めていたはずの手を止めその背中を見つめ始めた団蔵に、三治郎がやがて気付いた。
「団蔵? どうかした?」
 遠慮げに袖を引く手に、はたと我に返り、ごめんと咄嗟に謝罪する。その言葉に別に謝ることはないけれどと苦笑した三治郎から、気まずげに目を逸らした。
「いや、特にどうってことはないんだけどさ。……きり丸は俺達じゃ分かってやれない事をたくさん抱え込んでるから、時々こんな風に泣くんだよなと思って。…………もし俺達がそれを事前に防いでやれたらこんなことはなかったんだろうなとか、もうきり丸のそれを俺達が分けて背負ってやることは出来ないけど、やっぱ庄左ヱ門にはこんな風に泣いて欲しくはないよなとか、色々。……悪い、うまいこと言えないや」
 困惑に眉尻を下げながらガシガシと頭を掻く団蔵に、三治郎の目元が和らぐ。語彙の乏しい言葉であっても、既に三年もの時間を共にすれば言いたいことなど見当がつくと薄笑いのまま目を伏せた。
 軽く握った拳で前髪から覗く額を弱く小突く。その痛みとも言えない痛みに驚いたように目を見開く表情に、馬鹿だねと小さく呟いた。
「そういう風に言える団蔵だから、庄ちゃんは好きになったんだよ。だから心配しないで、二人で一緒に道を見つけたらいいじゃないか。さっき虎ちゃんも言ってたけど、僕らはそんなこと、微塵だって心配しちゃいないんだからさ」
 分かったらきり丸を早く笑わせてあげようと手を叩き、何事もなかったかのように金吾の隣に戻って普段のままに声を掛ける。
 未だ鼻先の赤いままのきり丸の背を抱いたまま困ったような表情で顔を覗く虎若と、言葉が見つからないためかせめてとばかりに肩を摩り続けている金吾。そして金吾と虎若の間に座した瞬間から楽しげな話を提供し始めた三治郎の姿に、自分の周りは見事にお人好ししか揃っていないと肩を竦めた。
「……ん。でも信じてもらってるってことは、俺達が思ってる以上に危なげないってことだよな。まぁ、ならいいか」
 問題点が解決したわけでもないが、背中を押されたことで気分も変わったのか曇っていた表情は僅かに晴れる。しかし次の問題は自分達の長兄代わりにしがみ付いたまま離れないきり丸だと視線を移し、困惑した表情で唇を尖らせた。
 宥めても賺しても、気分を変えようと楽しい話を振っても今のところ徒労に終わっている。ならばどんな話題を振ればいいものかと頭を捻り、団蔵はおぉと手を打った。
 ずずいと膝でにじり寄り、鼻を啜っている耳元に口を寄せる。その仕草に思わず注意を引かれたのか大人しく聞き入ったきり丸の頬が次の瞬間燃えるような朱に染まり、同時に風のような速さで派手な音を立てた木戸が倒れ、その向こう側に団蔵が転がっていた。
 先程の頼りなげな姿はどこへ消え失せたのか、羞恥で赤く染まりながらも肩で呼吸を繰り返すきり丸が思わず立ち上がる。
「アホかお前は! 土井先生に夜這いなんて出来るわけないだろうが!! ちったぁ考えてから物言えこの馬鹿旦那!!」
 恥ずかしさのあまり首筋まで染め、それ以上言葉を紡ぐことさえ出来なくなったらしいきり丸が勢いのままに退室する。それを半ば呆然と見送り、状況を掴めず取り残された三人は助けを求めるように廊下で転がったままの団蔵を見遣った。
 その目に、嬉しそうに親指を立てる。
「とりあえず、気分は変えさせただろ?」
 力の限りで殴られたらしい左頬を痛そうに腫らせたまま満足げな笑みを見せる団蔵に、呆れながらも納得する。しかし仲間の気分転換一つでそこまで体を張れるなら、それこそお前と庄左ヱ門はなんの心配もいらないよと金吾がただただ苦笑した。



−−−続.