――― 超対称性理論





 それは酷く喉の乾く空間だった。
 理由はといえば至極明確そしてありふれたもので、漢字にすれば緊張というたった二文字に他ならない。けれどそのありふれた事象に対しまさに体全体を強張らせた状態で、団蔵は下唇の内側を噛み締めて座していた。
 室内の明かりは燭台で静やかに燃える蝋燭の日が一つ。
 向かい合わせに座した人影も同じくどこか緊張した様子で肩が強張り、ちらりと見交わすことはあっても長く互いの目線が合うこともない。
 部屋の片隅には慌てて積み上げられ、そしてとにかく大きな布をかけて隠されたごみの山。それでも普段の室内の惨状を考えれば、急場しのぎとは言えど床が見える程度に片付けが間に合ったことにほんの少しの安心感を見出して小さく息を吐いた。
 正面に座るは庄左ヱ門。本来の同室者である虎若は今夜は初めて自発的に自室以外での就寝を決め、その代わりに級長がこちらで就寝することとなったわけだが、それがどういう意味合いを持つのか分からない歳でもない。
 そして今頃は同じく緊張した面持ちで向き合っているだろう二人と同様に、互いに友情以上の感情を持ち、その上それを伝え合っている者同士ともなればこうなることは目に見えていた。
 何よりそれを見越し、つい先刻部屋を出て行く虎若と互いの健闘を祈り合ったばかりだった。
 固く握りこんだ拳の中で、震えた指が爪を立てる。
「っ、あの、さ! 庄左ヱ門!」
 より一層力を入れて拳を握り、身を前へと乗り出す。心臓が跳ねる音とそのままどこからか飛び出してしまわないかという不安は押し込め、ちらと脇に敷かれた二組の布団に目を遣った。
 それがやけに恥ずかしいものに見え、目の前でちかちかと星が散る。
「あの、そろそろ、寝……。寝ませんかっ!?」
 思い切り目を閉じて勢い込んで吐き出した言葉のあと、奇妙な安心感が体を襲う。恐る恐ると覗き見た庄左ヱ門は俯き気味ながらも顔を紅潮させたまま頷き、それが団蔵により一層の安心感をもたらした。
 緊張のし過ぎでなぜか敬語になってしまったことなど、もはや気にしていられない。
 そろそろと膝を進め、怯えた仕草で手を伸ばす。庄左ヱ門の冷たい頬に触れればびくりと肩が震え、自身の喉はやけに大きな音をたてて唾液を飲み下す。顔が間近に迫る頃になってようやく交差した視線で、互いの顔が相手と同じほど赤いのだろうと自覚した。
 震えながら唇を寄せ、小さな水音を立てて接吻ける。口を吸うだけならもう何度も経験したはずが、なぜだか酷く神々しい行為のような気がした。
 ほとんど触れるだけの接吻けの後、僅かに離れる。緊張のためか、もしくは内心の興奮のためか心臓と共に跳ねる呼吸を飲み込むと、眼前にある丸い瞳が驚いた表情を見せて瞬いた。
「……庄、左ヱ門?」
 もしやなにか可笑しかっただろうかと困惑に眉尻を垂れれば、はたと我に返った様子で慌てて首を振る。その反応にほぅと安堵の息を吐くと、庄左ヱ門は柔らかに微笑んだ。
「ごめん、なんでもないよ。ただ思っていたよりも随分積極的だったから、驚いただけ」
「…………そうか?」
「そうだよ」
 釈然としない思いに首を傾げば、殊更優しげに目を細めた庄左ヱ門が頬を寄せる。その仕草に積極的なのはそっちのほうだと顔を紅潮させた刹那、団蔵は言葉を発する時間も与えられず、そのまま布団の方向へと押し倒された。
 現実感のないどさりという音と真上に見える優しい顔に、思わず思考が止まる。
「……はい?」
「こういう時に最初に口を吸うのは、組み敷く側の役目だと思ってたのに」
 揶揄するように耳元で囁かれた言葉に、団蔵の顔が青褪める。先程の釈然としない思いの正体がここに来てはっきり形になって見え、意図せずして口元が引き攣った。
その隙にも、夜着を纏める腰帯が解かれる衣擦れの音が響く。
「わっ、わっ!! ちょ、待て庄左ヱ門!!」
「待たないよ。せっかく団蔵から誘ってくれたのに」
「チッガウそうじゃなくってっ!!」
 抵抗と制止を意にも介さず手際よく夜着をはだけさせていく手を掴み、目をまっすぐに合わせて一度息を呑む。
「……俺が上じゃねぇの?」
 決死の覚悟でそう問えば、庄左ヱ門もまた先程の団蔵と同じように時間が止まったようにピシリと身を固める。
 直後飛び退くように二人は離れ、示し合わせたように向かい合わせで正座していた。
 悩むような沈黙のあと、庄左ヱ門から口を開く。
「……互いにちょっとした思い違いがあったみたいだね」
「うん、俺もまさにそれを言おうと思ってた。……え、もっかい言うけど、俺が上じゃないの?」
「むしろなんで団蔵が上なの?」
「いやいや、それを言うならなんで庄左ヱ門が上だと思ったのか知りたい」
「そりゃあほら。見てて可愛いじゃないか」
「お前だって可愛いところあるだろ」
 そこまで言い合い、また沈黙が落ちる。
 庄左ヱ門は苦悩を隠さず眉間を寄せて目を閉じ、団蔵は額を抑えて思考を廻らせた。
 その内に、団蔵が濁った音であぁと呟く。
「あー、その。俺はさ。そりゃあお前の冷静なところもやたらカッコいいところも物凄く好きだよ。俺が困ってたら颯爽と助けに来てくれるところとかそりゃ惚れるっつーの。実際惚れた原因はお前の冷静さだよ。でもさぁ、でもな!? お前の場合それだけじゃないだろ! 時々ド天然かますだろ! そこがメチャメチャ可愛いだろ普通に考えて! 普段の頭脳明晰っぷりとのギャップとかぶっちゃけ卑怯だし! その上声変わり始まってから、お前の声ちょっと掠れてるんだって! なんか聞いててエロいんだよ! そう考えたらお前のほうが下じゃないの!?」
 途中から不意に語調に熱意を込め、床板を叩かんばかりに語りだした団蔵の言葉に眉間を寄せたままの庄左ヱ門が大人しく聞き入る。けれど納得には至らないのか重々しい溜息を吐き出し、難しい表情で視線を伏せた。
 やがて、ポツリと呟くように唇が動く。
「そりゃあね、僕だってお前がカッコいいのは認めるよ。虎若の影響だか、それとも去年まで所属していた会計委員会の影響だか知らないけど鍛錬に励むようになって、体つきが見違えるほど逞しくなった。それに後輩やくノ一教室の女の子達に対する態度も男らしいのに優しいとかいう天然タラシ全開だよ。実技授業中に組んだときとかも、やたら楽しそうに槍術や坤術に取り組む様子はうっかり見惚れるほどだ。だけどさ」
 一度言葉を切った庄左ヱ門の目が、ここで真っ直ぐに団蔵を見据える。
「お前のほうが僕より背が低いし、喜怒哀楽がはっきりしていて特に嬉しいことがあった時なんてこっちまで微笑ましくなるくらい可愛いのを自覚してないだろ。あと兵太夫のカラクリを目の前にしたときとかどうしても自分一人じゃ解決できない問題に直面したときの顔だよね。正直卑怯だよあの顔は。あんな顔で助けを請われたりしたら断れるわけないじゃないか。捨てられた子犬みたいな目で見てくるんだよお前。あとね、一番の要因はお前の普段着と言うか、普段着で馬に乗るときにチラチラ見える足だよ。別に女の子みたいに柔らかそうなわけでもないけど、なんなのお前のあの足は。どんだけ綺麗なの。普段は制服の袴で隠れてる分、不意打ちで見たときには目の保養どころか目の毒なんだよ。それが馬に跨ってるときとか綺麗に筋肉の形まで出てるんだよ。足首の腱なんて浮き出てるんだよ。眩しくて直視出来ないんだよ。……以上、僕がお前を下だと思ってた理由です。なにか質問はありますか」
 目を合わせてからも終始語調を変えるでもなく熱を込めるでもなく、ただただ真顔でスラスラと紡がれた言葉に団蔵の表情がゆっくりと引き攣る。まさか自分の足をそういった風に見ていたとは思いもしなかったと呟けば、照れたような笑みが返った。
「伊助には毎晩のように語ってたんだけどね。さすがに本人に言うのは勇気がいったよ」
「勇気がいったとは思えない語りっぷりだったんだけどな……まぁそれはいいや。でも庄左ヱ門、俺の脚に触りたいだけだったら、別にお前が下でもいいと思うんだ」
「いや、それを言うなら団蔵のほうこそだろ。僕の声を聞いていたいだけなら、下でいても問題はないはずだ」
「うんにゃ。俺はお前が掠れ声で啼くのが聞きたい」
「僕だってその足を思うさま蹂躙したいよ」
 断固として主張を押し通し、互いに一歩も引かない状況でまたしても沈黙が落ちる。もはや最初の初々しい恥じらいなどどこへ捨て去ったのか率直過ぎるまでの言葉を吐き出し、二人はじりと距離を取った。
 こうなれば隙を窺って先に押し倒したほうが勝ちとばかりに殺気混じりに間合いを窺う。とは言ったところで既に時刻は夜半過ぎ。多少なりとも気が緩んだ瞬間に睡魔が入り込み、緊張は長く続かない。ただしどちらかが睡魔に襲われ始めるともう一方が好機と見て襲い掛かるので完全な睡眠をとることが出来なかった。
 組み敷かれた方は必死の抵抗とばかりに腹を蹴り、どちらからともなく部屋の隅に置いてあったゴミ山の中から武器になりそうなものを手にする。学園が完全に眠りに包まれ静寂が支配しても、二人の攻防戦は続いた。
 次第にこの遣り取りの切っ掛けすらも忘れ、ただ無意識に隙を窺っては反撃するという作業をこなしていた時、気付けば起床の鐘の音が響いていた。
 その音を理解出来ず、思わず格子窓を塞ぐ木戸を仰いで慌てて開く。その向こうからは確かに輝く朝陽が白々と室内を照らし出し、それを目にし、二人はへなへなとその場に座り込んだ。


  ■  □  ■


 一睡もしなかった疲労と一晩中緊張の糸を張り続けた疲労に、ふらついた足取りで揃って井戸へと向かう。たった一晩の徹夜で隈が出来てしまったことからもその疲労の程度が窺え、最終的にお互いが乾いた笑いを漏らすしか出来なかった。

 疲れきった目に、朝陽は痛いほどに沁みる。
 辿り着いた井戸で、既に起床していたらしい虎若と伊助が戯れているのを目にし、団蔵が忌々しげに眉間を寄せた。
 そして足音に気付いたのか視界の端に人影を捕らえたのか、じゃれていた伊助から手を離して振り向いた虎若が、太陽を背に手を挙げた。
「っ、おはよ! 団蔵、庄左ヱ門!! 昨日は良く寝たか!?」
 文字通り後光が差し、その上輝かんばかりの笑顔で手を振る親友に、呻き声を上げて怯む。その様子を不穏に感じたのか、どうかしたのかと首を傾いだ虎若に、団蔵は苦しげに声を絞り出した。
「近寄らないでくれ虎若。今の俺に、お前は眩しすぎる……」
「……なに言ってんのお前」
「うるせぇ! 今のお前にはこの言葉がお似合いだ! リア充爆発しろ!!」
「するか! っていうか、お前だって昨日……え、嘘。アレ? まさかお前」
「それ以上言うな! 言ったら俺が爆発する!」
「いや、それもしないだろうけどさ。……うん、ちょっと後で話してみ? 聞いてやるから」
 戸惑い気味に団蔵の肩を抱いた虎若が、目を泳がせながら顔を覗き込む。その仕草に涙腺を刺激されたのか情けない顔で鼻の頭を赤く染めた表情に、あぁあと困ったような声を上げた。
 それを傍目に、伊助も庄左ヱ門へと傍近く駆け寄る。
「庄ちゃん、昨日どうし……って、本当にどうしたのさ! 目の下、酷い隈だよ!?」
「……うん、思ってたのと全然違う展開になっちゃってね。あとで聞いてくれる? あと今日の授業でもしうたた寝なんてしちゃったら、土井先生に怒られる前に起こしてくれるかな。睡魔に耐えられる自信がない」
 ははと乾いた声で笑う庄左ヱ門に、気押された様子で伊助の首が上下に動く。それを見て微笑ましげに疲れた笑みを浮かべると、昨日は幸せだったのと小さく囁いた。
 途端、伊助の頬が朱に染まる。それを庄左ヱ門は正面から、団蔵は虎若の影からこそりと見つめ、本当ならこちらもこうなるはずだったのにと小さな溜息を吐いた。



−−−続.