まぁそんな気はしてたんだよねと、諦めきった言葉が落ちる。
 その隣からは同意するように苦笑が返り、お互いにこれだもんねぇとへらりとした声音が天井を見上げた。
 誰もいない医務室。その中でも衝立に遮られた一角で、二人は横並びに敷かれた布団に一時的に寝かされていた。
 兵太夫は足に包帯を巻かれた状態。そして三治郎は外傷こそないものの、布団からはみ出した手が小刻みに震えている。寝かされているだけにもかかわらず身動きをとろうとしない状況が、全身がなんらかの麻痺に襲われているだろう事実を物語っていた。
 揃ってどうしようもなく寝かされている姿で、沈黙が落ちる。互いに気にはしていたものの、喧嘩で口を利かなくなって既に三日目。それが自分達の意思とは関係なくこうして同じ場所に閉じ込められている現状に、兵太夫はバツの悪いものを感じて目を泳がせた。
 声を聞きたいと願っていたことに間違いなどないが、それはあくまでも自分に心の準備が出来てからだと小さく舌打つ。
 姿を見せた途端恐怖で混乱状態に陥った一平が放った毒虫に噛まれた自分と、伏木蔵特製の毒にやられた三治郎とで話したかったわけではないと溜息が口をついた。
 どうせこの状況も、誰より信頼する級長の弄した策の結果なのだろうと頭を抱える。
「……あんにゃろ。どうやって敵チームの一平をけし掛けたのか、あとで絶対問い詰めてやる」
 ぼそりと呟けば、三治郎の目が可笑しげに細められて自身へと向く。それから慌てて目を逸らし、一瞬で熱くなった頬を隠すように背を向けて布団を引き上げた。
 たった三日、自ら意識して離れていただけでこんなにも緊張するものかと早鐘を打つ心臓を押さえつける。
 久し振りに自分へと向けられる目線。それが酷く懐かしいものに感じ、兵太夫は気恥ずかしさのあまり滲んでさえきた視界を拭った。
 その背中に、三治郎が遠慮げに声を掛ける。
「……ねぇ、兵ちゃん」
 名前を呼ばれたことに、思いがけず肩が震える。普段と変わらない柔らかい声音に押し込めていたものが膨れ上がり、それが大きすぎて喉が詰まる。言葉に出来ない想いがただただ唇だけを戦慄かせ、兵太夫は振り返ることすら出来ないまま身を縮めた。
 それを知らないまま、三治郎は続いて唇を開く。
「あのね、……まだ怒ってるかもしれないけど、ちょっとだけお話してもいいかなぁ。聞きたくなかったら黙れって言ってね。そしたら僕、ちゃんと黙るから。……あのね」
 戸惑い気味に、言葉を捜しながら紡がれる声に兵太夫は息を潜める。三日振りに間近で聞く三治郎の声に、自分の呼吸音ですら邪魔だった。
 押し寄せるばかりの愛しさが、全身で言葉に聞き入ろうと自身の存在を消していく。静かな医務室に、たった一人の存在だけが浮き立った。
 唇が開く微かな気配さえも読み取れる。
 やがて、掠れた声が言葉を紡いだ。
「……今回の喧嘩、ごめんって言ってあげられなくってごめんね」
 ぽそりと落ちた言葉に、気配を絶っていた兵太夫の目が大きく瞬く。まずは言葉の意味を理解しようと回転を始めた脳に続き、やがてその声が震えていたことに遅れて気付いた。
 たった数刹那ではあるものの、完全に自身の気配を抹消し三治郎にだけ集中していたことも忘れ、焦って寝返りを打つ。
 向き直ったその視界には、頬を枕に押し付けて自分を見つめたまま、静かに涙している三治郎が映り込んだ。
「っ、三ちゃん!」
 痛む足を引き摺り、布団から這い出して三治郎に覆い被さる。ぐすと鼻を啜る頭を抱き込み、額に掛かっている前髪を親指で撫で上げた。
 一切の邪魔もなく露わになった目元に唇を押し付け、熱を持ったその場所を慰めようと水気を舐め取る。
 三治郎と小さく名を呼べば情けなく歪んだ目が兵太夫を視界に捕らえ、麻痺したままの腕が縋るように背中へと伸ばされた。
「……ごめんな三治郎。寂しかったよな。全部許すよって言ったのは僕なのに、一人にしてごめんな」
 最早昨日まで胸中に留まり続けていた苛立ちなどかなぐり捨て、抱き締める腕に力をこめる。凝り固まっていたプライドや意地が消え去ったように素直に口をついた謝罪に自身でも驚きつつ、所詮感情なんてものは容易く変動するものなのだと半ば無理矢理に納得した。
 無理に重石を乗せて閉じ込めていた恋慕の感情が、枷を外した途端に溢れ返るとこういうことになるのかと僅かに苦笑する。
 自嘲に浸る中、腕の中で頭を振った三治郎を、首を傾いで覗き込んだ。
「三治郎?」
 もしやこうして抱き締められることが不快だったろうかと不安に揺れるも、見上げてきた視線からはそういった感情が窺えないことに安堵の息を吐く。そんな兵太夫の一喜一憂にほんの少し目元を和らげ、三治郎は背中に回した腕を解き、抱き込まれている胸を押した。
 大人しく放した兵太夫の眼前で、鼻を啜りつつも目元を擦る。そのために些か赤らんでしまった目尻を多少気にしながらも、普段と同じく笑みに緩んだ表情が向き直った。
「……ごめん、心配かけちゃった」
 へへと照れた様子で頬を掻く三治郎を、どこか不思議なものを見るような目で兵太夫が見つめる。なにか言いたいことでも出来たのか、先日までのようなたどたどしい雰囲気の消え去った三治郎にえも言われぬ違和感を感じた。
 その視線に気付き、僅かに細い目が伏せられる。
「あのね兵ちゃん、さっきの話の続き。謝ってあげられなかった理由のこと、ちゃんと話しておこうと思って。……聞いてくれる?」
 視線を合わせるでもなくそう呟かれた言葉に、兵太夫は肯定の意味をこめてまたそろりと背中を抱く。先刻までも強いものではなくあくまで真綿で包むように優しいそれに嬉しげに目を細め、三治郎も抵抗なく額を預けた。
 そのままの体勢で、改めて口を開く。
「……あのね、庄左ヱ門にはもう話してあるんだけどね。兵太夫にちゃんと話せる勇気が出なくって、なかなか言い出せなかったんだ。僕にとっては誇らしいけど、でもちょっと照れ臭い話。……僕が山を渡り歩くことに決めた理由。兵ちゃんにはやっぱり知っておいてもらったほうがいいと思って。だから聞いてね」
 抱き締めた腕の中で、向かい合った心臓がどくどくと早鐘を打っていることに気付く。勇気が必要というのは今現在もらしいと無言で察し、兵太夫はその背を撫でることで肯定を返した。
 その慰めに覚悟を決めたのか、静かな深呼吸が数度繰り返され、やがて小さく唇が開く。
「僕ね、兵ちゃんが無事でいてくれるようにって祈るために山へ行くんだよ」
 言葉に兵太夫の時間が止まる。
 一瞬では理解出来ないまま、理解出来たとしてもそれの意味を図りきれないまま、三治郎の顔を改めて覗く。その先には一言目を口にしたことで僅かに緊張が解れたのか、肩の力の抜けた笑顔が自分を見返していた。
 祈るってと復唱された言葉に、三治郎の目蓋が笑みのまま伏せられる。
「祈るは祈る、そのままの意味だよ。ホント言うと、兵太夫のことだけを祈るわけじゃないんだけどね。この学園で知り合った全員の無事を祈るために山へ行く。勿論僕にとっての一番は兵ちゃんだから、どうしたって偏るだろうなとは思ってるんだけどね。……だってこの学園にいる以上、みんな家業を継いでも多少の忍仕事は請け負うでしょ。そしたらこの時世、何に巻き込まれて命を落とすか分からない。僕はそんなの耐えられないから。だからいろいろな霊峰に登って神仏に祈るんだよ、一日でも長くみんなが平穏無事にいられますようにって。山伏の子として生まれた僕の、自分勝手な願い事。……だけど神仏に祈るなんて理由、この学園じゃ笑い話にされるかもしれないでしょ? 非現実的なことは極力信じない、でないと忍なんてやっていけないから。兵ちゃんは勿論、は組のみんなだってそんなことしないって分かってはいるんだけどさ。でもやっぱり言い出せなくって」  くしゃりと笑んだ顔に、呆然と見入る。
 その顔にまた困ったように眉尻を下げ、三治郎は兵太夫の頬に手を添えた。
「だからね、山から降りたら必ず兵ちゃんに会いに来る。奥州や隅州にいるときは難しいけど、畿内に戻ったら必ず。卒業したらそれっきりになんて絶対しない。だって僕は」
 一度言葉を切り、泣き出しそうに顔を歪める。
「だって僕、兵ちゃんがいてくれないと息も出来なくて死んじゃうもの」
 覚えのある言葉に兵太夫が息を呑む。
 三治郎と名前を呼ぶ声が震えると頬に宛がわれていた手に僅かに力が込められ、首を伸ばすようにして接吻けられた。
 触れるだけのそれに驚き、目を見開く兵太夫に三治郎の目が愛しげに細められる。
「それとね、教えといてあげる。僕はどんなに年齢を重ねておじさんになっても、結婚もしないし子供も作らない。……知ってる? 一人二人と、交わった人が増えていくとね、それだけで心霊的なものが天に昇華されていっちゃうんだよ。人と人の交わりは命を作り出せるほどすごいものだから。だから、その人数が増えると失う量も増えていく。だから僕は兵ちゃんとしかしない。子供も作らない。その分の力を、全部祈りに持っていく。……それにさ。子供を愛の結晶って呼ぶなら、この学園中に二人でいっぱいいっぱい作ったもんね?」
 にっこりと笑んだ三治郎の言葉に、兵太夫の体がいっそう震えを増す。三治郎とまた小さく掠れた声で名を呼び、傾げられたその頭を力の限り抱き締めた。
 窒息しそうだと笑う声に構わず、込み上げる感情に任せて腕に閉じ込める。
「三っ、三、ちゃん……! 三ちゃん……!」
「うん、大丈夫だよ。ここにいるから、大丈夫だよ兵ちゃん」
 堪えきれず零れだした情けない大粒の涙と、名前を呼ぶことしか出来なくなったらしい役立たずな唇を心のどこかで罵倒しながらも、奔流した感情に押し流される。腕の中に閉じ込めた三治郎が労わるように背を撫でてくる手の暖かさやその言葉が、それを酷く煽っていた。
 じわりと滲むようにして胸元が濡れた感覚に、三治郎もまた頬を濡らしていることを知る。
「覚えててね、兵太夫。僕が忍仕事をするときに仕える大将は庄左ヱ門だけど、もしも庄左ヱ門と兵太夫が対立関係になったなら、僕は兵ちゃんに仕えるよ。それくらい僕にとって君が絶対の存在なんだってこと、忘れないで覚えてて」
 静かな懇願に、言葉も返せずただ何度も首肯を返す。そのまま、しばらくは緩やかで暖かな時間が過ぎた。
 零れ落ちる涙も一段落を迎えたのか頬を引き攣らせるばかりに乾き、兵太夫はそれを恥じるように頬を擦る。やがてゆっくりと長い息を吐き、抱き締めていた三治郎を僅かに話し、視線を合わせた。
「……ね、三ちゃん。霊峰を渡り歩くって言っても、途中で町に寄ったりはするよね。ずっと山間部にいるわけじゃないよね?」
 突然の問い掛けに、ようやく全ての懸念を吐き終えて落ち着いた三治郎が怪訝そうに眉間を寄せる。けれど静かに返答を待ち続けている力強い目に気圧され、問いに問い返すことも出来ず、ただこっくりと頷いた。
 その仕草に、兵太夫が満足げに息を吐く。
「じゃあ約束。次の山へ向かう前に、必ず僕に手紙を頂戴。今はどこにいてどの山に登ったよ、だからこれからはここへ向かうよって、ちゃんと僕に教えて。そしたらそれだけで僕は安心できる。危険な霊峰で、三ちゃんになにも起こらず無事に過ごしてるんだって安心できる。どこにいるのか分かっていれば、僕は毎日、この学園からそこへ向かって話しかけるから。それと、学園に来る前も。手紙を受け取った日から毎日、僕は三ちゃんに聞こえるように、カラクリを作る槌の音を鳴らし続ける」
 約束と再度呟かれ、小指を差し出す兵太夫の顔と指を交互に見る。そして噴き出すように笑った三治郎が、可笑しげに肩を震わせたまま本当にと聞き返した。
「いいの? それやると、兵ちゃんが変な人みたいになっちゃうよ?」
「っ、うるさいよ。いいの。三治郎に関することなら、僕は変人にでも馬鹿にでもいくらでもなってやるから」
「……うん。兵太夫のそういうところ、嬉しいし大好き」
 心底幸福感に満ちた表情で目を細め、三治郎の小指が兵太夫の指に絡む。まるで子供の約束だと笑った声にもう一方も同意し、二人で楽しげに肩を揺らした。
 やがて兵太夫の視線がちらりと医務室の入口方向へと流れ、嫌味に口が開く。
「ってわけで、僕らは見事仲直りさせて頂きましたよ。これで満足かい、そこに潜んでる策士さんと若太夫、……それと伝七」
 木戸の向こうから、やはりバレていたかと笑いが漏れる。ただしこちら側に気を遣っているのかあくまでも戸を開かずにいる様子に、兵太夫は楽しげに喉を揺らした。
「別に開けてくれても構わないよ。なにもヤラシイことをしてるわけじゃあるまいし」
「いやいや、そういうわけにはいかないよ。せっかく三日ぶりの甘やかな空気に浸っている二人に、わざわざ当てられに行くほど馬鹿じゃない。他の怪我人に関しては、保健委員が僕らの部屋を医務室代わりに応対しているから心配無用だ。しばらくは誰も来ないと思うから、存分に二人でその蜜月のような甘やかさを堪能するといいよ」
 茶化すように見せかけながらも冷静な返答に、顔を覗かせなくても誰の言葉か分かると二人で笑い合う。やがて仲直りの現場を見届けたことでごそごそと退散しにかかったらしい気配に、三治郎が慌てたように声を上げた。
「虎若! 心配かけてごめんね! もう平気だからね!」
 謝罪の言葉に、兵太夫も思い立って顔を上げる。
「あー、伝七も! このところ僕が腑抜けてたから心配してたんだろ! もう平気だから安心しろよー!」
 投げた二つの声に、おうという威勢のいい返答と、誰が心配なんてするか自惚れるなという刺々しい返答が返る。その正反対の返事にまた笑い転げ、笑い疲れたのか息を吐いて布団に転がった。
 力の抜けた体を放り出し、天井を見上げる。
「あー……どうしよっか、三治郎。堪能しろって言われたけど、そういうわけにもいかないよねぇ」
「だねぇ、だって医務室だもん。……あ、じゃあさ兵ちゃん。少し疲れちゃって眠いから、腕枕してよ。三日ぶりに兵ちゃんにくっついて寝たいな」
 にっこりと笑う三治郎に、お安い御用と笑って腕を差し出す。そこにいそいそと頭を乗せた愛しい額に、首を伸ばして接吻ける。
「おやすみ三ちゃん。僕も抱き枕にさせてもらって、一緒に寝るよ。離れてる間、寝つきが悪かったんだ」
「うん。おやすみ兵ちゃん」
 互いに笑み、心臓の音を子守唄に目を閉じる。約束はしたにしろ、離別まで後半年。せめてその間だけはもう片時も離れないように手を繋いでおこうと心に決め、今はこの音を腕の寝顔を守るために鳴らそうと抱き締めた。



−−−了.