僕は三ちゃんに依存してるから。ポツリと兵太夫が零した言葉に、伊助も喜三太もなにも言葉を返すことが出来ず、ただ静かに聞き入った。
 その静けさに、兵太夫は自嘲したように目元を緩める。
 曰く。
 ―― 知ってはいるんだ。三治郎だって僕にべったりだからさ、きっとあっちも僕に依存してるんだって。それはね、なんとなく察せるもんだよ。だってついこの前、ホントについこの前までね。
 ―― 互いに互いがいなきゃ生きていけないなんて、そんなことを本気で話してたんだもん。
 ―― だから余計にね。三ちゃんの言葉と、頭に残ってる誓約じみたその言葉が矛盾に聞こえてね。
 ―― 裏切られたって感じちゃってさ。あの言葉は結局一時の気紛れで、ただの嘘にしちゃうのかなんて、カッとなって。
 ―― 馬鹿馬鹿しい話だよ。いなきゃ死んじゃうって、少なくとも僕は本気でそう思ってて、今だってそれに変わりはないはずなのに。僕のほうこそ三ちゃんに怒って、顔も見ず、声も聞かずに一日過ごした。
 ―― そりゃあねぇ、三治郎だって呆れるよね。呆れ帰って物も言えなくなって、三ちゃんにしてみればきっと、裏切ったのは僕のほうなんだろうね。
 ―― 三ちゃんの全部を抱き締めて、全部許して愛するよって言ったのは僕のほうだ。三年のときにそう告白して、ずっとずっとそのつもりでいたってのに。
 ―― なのに許すどころか怒りまくって、まだ許す気になりもしない。
 ―― 諦められたような顔をされるのだって、仕方ないのかもしれないってホントは分かってる。僕は三治郎に酷い嘘をついたことになるんだよ。
 ―― でも、ねぇ伊助。
 伊助の肩に頭を預けたままの兵太夫が微かに俯き、呼び掛けておきながら視線すらも寄越さずにまた静かに唇を開く。
 指先の染まった手が膝上に手を重ねてみても、それに対する反応も見せなかった。
 ―― 僕は普段、結構傍若無人に振舞ってはいるし、大人ぶってもいるけどさ。実のところは一番幼く見えるしんべヱや喜三太なんかより、ずっとずっと子供のままなんだろうね。ううん、違うな。子供のままなんて綺麗な言い方じゃ似つかわしくないね。言葉で身を飾るのは、今はいけないね。
 ―― 性根が幼いまま、この歳になってしまったんだろうね。自分の大事なもの、好きなもの、自分の物だと思っているものは、否が応にも手の中に隠して置かないと気が済まない。
 ―― 慰めやごまかしは今はいいよ。それくらいのことは自分で心得てる。だって僕は、ずっと先生や先輩、それには組のみんなと伝七には甘えっぱなしだったんだから。
 ―― 後輩達の前ではカッコをつけて、出来る先輩、辛辣で無情なところもある先輩を演じてはこれたけどさ。それだってどうだか分かったもんじゃない。自分が自分の好きなようにやってただけだ。
 ―― 我慢というものをあまり覚えずに育ってしまった。
 ―― 良くないねぇ。
 ぽつぽつと水滴が落ちるように止めどなく零れ続ける言葉は、目の前に二人の人間がいるというのにまるで独り言の様相で落ち続け、その視線もどこかぼんやりと焦点が定まらない。些か不安を煽られるようなその姿に、片手を握られたままだった喜三太が僅かに身を乗り出して正気を確かめようとしたところ、また一つ言葉が落ちた。
 だからかなぁと呟いた声に、ぴくりと動きを止める。
 ―― だから三ちゃん、僕から離れるのかなぁ。嫌われたわけじゃないと思うんだ。嫌われたわけじゃないと思ってはいるんだよ。もしホントに嫌われたりしてたら、僕はここで舌を噛んで死んでもいい。でも三治郎が僕を嫌うのだけは、きっとない。
 ―― だから三ちゃんが僕から離れるのは、我慢を覚えさせようとしてるのかなぁ。
 ―― なんて、こんなのまるで右も左も知らない子供の躾みたいだよね。
 ―― ……なぁ喜三太。喜三太は卒業後、どうするの? 他のみんなは諸々聞いたけど、そういやまだお前の進路は聞いてないよね。金吾と一緒に諸国行脚? それが似合いかもしれないね。金吾のほうこそ、喜三太とずっと会えないなんてなったら心が飢えて乾いて苦しんで、そのままどこかで事切れそうだもの。
 ―― 金吾がお前と離れるわけがない。
 ―― 伊助は実家の染物屋の傍ら、佐武衆としての二束の草鞋。でも呼ばれるのは仕事のときだけで、ずっと一緒にいられるわけじゃないんだよね。
 ―― ねぇ、離れるのって想像出来る? それともそれが出来るから、その道を選択したのかなぁ。
 ―― 僕はね。僕には……全然思いもつかないよ。だって霊峰を渡り歩くなら、一所に長くいないってことだ。播磨の笠形山や、噂に聞く大霊峰の富士だけじゃない。隅州から奥州まで、どれだけの数の霊峰があるのか僕は知らない。そんな数え切れない、場所も知らないところを点々とするなら文だって送れない。会えない上に、近況だって知れない。修験の道は険しいところを行くということだけは知ってるけど、それならもしなにかあっても僕の耳にはきっと入らない。入ったとしたって、きっと半年や一年かかるかもしれない。
 ―― そんな覚悟は、僕の中にはまだないよ。
 震えた声が、不意に喜三太の手を強く握る。
 ―― だって、ねぇ。六年だよ。年端もいかない時分からこの学園に入って、両親とも俗世とも一応隔離されて六年間過ごしてきた僕達にとってはさ。人生の半分近くがこの学園でも思い出だけで埋まってる。
 ―― その僕らにとって、ここで好きになった人ってのはさ。
 ―― もうこの人しかいない。盲目的に、愛情だけが奔流する。
 ―― そんな存在になってるんじゃないのかなぁ。
 ―― なのに僕は愚かなことに、離れるかもしれないだなんて。そんなこと、一度も考えないままこんな状況になっちゃった。
 乾いた笑いが漏れ、微かに揺れた肩の上で一筋の涙が頬を伝う。途端、急に怯えだしたように兵太夫の手が激しく震えを示した。
 ―― どうしよう。三ちゃんに会いたいのに。すごく会いたいのに、なにを言ったらいいのか全然分からない。見当もつかない。ねぇ、どうしよう。顔を見たいのに、なのに会ったら抱き締めるよりなにより先に、なにか酷いことを言っちゃいそうですごく怖い。なぁ、どうしよう二人とも。僕は。なぁ、僕はさ。六年もここで忍術や戦い方を勉強したっていうのに、仲直りの仕方を忘れちゃったみたいだ。
 どうしよう、どうしようと終わることなく泣き言が落ちる。その肩を伊助は抱き締め、喜三太は強く強く手を握った。掛ける言葉も見当たらず、結局それ以外出来ることもなく時間だけが過ぎた。
 その一部始終を伊助と喜三太は隠すことなく、全て庄左ヱ門へと報告した。
 は組長屋の一室。未だ蝋燭の日を灯すほどに暗くはないけれど、既に斜陽が格子窓から差し込む頃合い。部屋の中央で二人の報告に耳を済ませていた庄左ヱ門は、薄く目蓋を開いて重々しく息を吐いた。
 そうかと掠れた声が、いやに響く。
「……思っていたよりも根が深そうだね」
 軽く唇を噛む庄左ヱ門の言葉に、二人とも異議を唱えない。代わり、伊助は同じように苦々しい表情で唇を噛み、うんと小さく同意を示す。
「なにも言えなかったよ。ぼんやりして、茫然自失としてる兵太夫はあまり見た覚えもないからかもしれないけど。……うん、見ていられなかった。痛々しいほど切ない吐露だったよ。独り言みたいに、それこそ雨樋から水が滴るみたいな調子でさ。ぽつぽつ、思い出したみたいにどんどん心の中を言葉にしてた。でも言葉にすればするほど、兵太夫の中に悲しさが溜まっていくみたいでね。言葉を駆けるのも、無責任に笑い飛ばすのも出来なかった」
「だろうね。二人の話しを聞いてるだけでも兵太夫の顔が浮かぶようだった。又聞きの僕がこんなに切ないのに、直接話を聞いてくれた二人はどんなにか、それこそ兵太夫の切なさは計り知れないと感じてる。まさかこんなに根が深いと思わなかったんだ。二人にも辛い思いをさせてしまって申し訳ないよ」
 自信の見通しの甘さを恥じたのか眉間を寄せる庄左ヱ門に、二人がふるりと首を振る。策士の役に立つのは立派な諜報仕事だと苦笑した伊助に、級長は救われたように表情を緩めた。
 そして、また考え込むように口元を手で覆う。
「しかし僕のほうが先に教えられてたんだね、三治郎が諸国巡礼の旅に出ること。僕はてっきり、その相談からして兵太夫にしてるだろうと思い込んでたから……まさか一言も話してないとは思ってなかった。他のみんなには折を見て話すつもりだったんだろうけど、そりゃ兵太夫にはショックだろうね。本人も言ってるように、二人は見てて疎ましいほどべったりだったから」
 なぜ言っていなかったんだろうと眉間を寄せる庄左ヱ門に、今度は喜三太が物言いたげに僅かに唇を開く。けれど戸惑う表情でゆるゆると閉じられたそれに、伊助が目を留めた。
 どうしたのと問えば、やはり気まずげに目を泳がせる。
「喜三太、言いたいことがあるなら聞かせてくれ。喜三太の考えのほうが、僕や伊助よりも三治郎に近い。戸惑うことはないよ」
 伊助の後を受け、優しげに和らげられた声で促す庄左ヱ門の声に、それでも喜三太は戸惑いが消えない様子で身を縮める。しかし沈黙と共に言葉を待っている室内の雰囲気にやがて折れ、悲しげに眉尻を下げた。
 言えないよとポツリと落ちた声に、二人の表情が微かに怪訝に曇る。
「言えないもんだよ。相手が自分を大事にしてくれてるのを知ってれば知ってるほど、自分が相手を好きなら好きなだけ、まして離れがたいならその分だけ。……言えないよ。だって言ったら相手が悲しむとかそれ以上に、自分がその別れを想像したくないんだもん。自分が決めたことでもその瞬間のことを、そこから先のことを想像するだけで悲しいんだよ。だから言えない。相手に伝えちゃったら、お互いにそれを意識してしまう。そうなったら、現実が自分に迫ってくる。その日に向かって、別れに向かって毎日が過ぎていく。ふとしたときに、例えば笑ってるときに不意に思い出して、悲しくなってしまう。……そんなのは嫌だから、やっぱり言えないよ。言わないことで、そんな未来はないんだって自分を誤魔化してるんだから。……言えた三治郎は頑張ったよ。物凄く覚悟がいったと思う。よっぽど怖かっただろうにねぇ。今は過ぎていく時間が寂しくて仕方ないはずなのに」
 まるでこの場にいない三治郎を慈しむように薄く笑って呟く喜三太の言葉に、部屋の中がしんと静まり返る。そのあまりにも静かな空気にはたと我に返り、喜三太は慌てた様子で頭を掻いた。
「あー、ごめん! 想像だけで話しちゃ駄目だよねぇ。白けさせちゃってごめんね。横槍で邪魔しちゃ悪いから、僕はそろそろ部屋に戻るよ。またなにか手伝えそうなことがあったら遠慮なく声かけてね。じゃ、お邪魔様でしたー」
 先程までの雰囲気とは一変してへらりと笑って退室した背中を見送り、慌しげな足音を聞く。そのあからさまな態度に困ったように眉間を寄せ、伊助は肩の力を抜いた。
「……喜三太も、なにか隠し事がありそうかな」
「だね。だけど無理に聞きだそうとするのは喜三太にとって良くない。自主的に話してくれるのを待とう。今は喜三太もその覚悟を固めてる最中なんだろうしね。纏め役だ級長だのと言ったところで、僕に出来るのは本人が助けを求めてきたときの手助けだけだ。その手を引っ込めている相手にはなにも手出しは出来ないよ。それを弁えてるから、今は兵太夫と三治郎のことに気を遣る。このくらいのほうが明朗快活でいいだろ?」
 にっこりと笑んだ庄左ヱ門に笑って同意し、その顔を正面から見る。やりようはあるのと問い掛けた伊助に、策士は軽く眉を上げて見せた。
「まぁ、どうにかね。ただ明日はその下準備だから手出ししない。もし明日中にあの二人の問題が解決してないなら……まぁ、ちょっと手荒なことになるかもしれないんだけどね。そこはみんなにも先に根回ししておくよ」
 飄々と言ってのけられた言葉に、伊助が不安げに引き攣りつつも無理矢理に笑う。大仕掛けが必要にならないことを願うよと祈るように呟いた声に、はてさてと策士は楽しげに唇を吊った。



−−−続.