――― 君に奏でる愛の音





「三ちゃんの馬鹿! だったら好きにしたらいいよ!!」
 既に消灯時間である亥の刻も過ぎた頃だった。
 長屋全体がそろそろと静まり返り、鍛錬に勤しむ生徒以外は緩やかな眠りに誘われる中。しかし一切の遠慮も気遣いも見られない様子でその大声は響いた。
 次いで、長屋全体が揺れ動くような地鳴りにも似た音が響く。その音に少なくともは組長屋の面々は一体何事だろうかと身を起こした。
 声を掛け合うまでもなく、それぞれが自主的に部屋から出て声の響いた一室を覗く。
 そこには二組の布団が敷かれているものの人影は一つしかなく、三治郎だけが繕ったような笑顔で座っていた。
「あー……ごめんね夜分に。ちょっと兵ちゃんを怒らせちゃった」
 ともすれば照れたようにも見える笑みで頭を掻く三治郎に、虎若の眉間が寄る。
「なにかあったか?」
 低学年時に同じ委員会を続けて経験しているだけに、名実共に三治郎の兄役を担っている虎若の言葉に、その笑顔が一瞬曇る。しかしそれも知らぬ振りを通すように眉尻を下げた笑みが、ふるふると首を振った。
「なんでもないよ、大丈夫。でも、ごめんね。明日か、もしかしたら明後日くらいまでちょっとギスギスしたまんまかもしれない。空気悪くしたら申し訳ないから、先に言っとくね」
 へらりと笑った顔に、虎若の眉間がさらに寄る。その口から無理に問い詰めるような言葉が飛び出す前に、慌てて乱太郎がそれを遮った。
「えっと、私達は構わないんだけどさ。三治郎は平気?」
「うん? あー、大丈夫だよー。兵ちゃんが地下に篭っちゃう時間が増えるだけ。地下へ行くときにカラクリが動くから、そのたびにちょっとうるさいかもしれないけど」
「……兵太夫、地下に行ったんだ……?」
 地下という言葉に、金吾と団蔵が青褪める。それを苦笑で見遣り、三治郎はカラクリを作りに行ったわけじゃないよと付け足した。
「カラクリ作成に熱中して下で寝ちゃうことが結構あるから、そういうときのために寝る場所があるんだよ。そこに布団も一式持ち込んであるから、多分そこにいるんだと思う。なにも夜中にいきなり地下に引きずり込まれたりはしないから、警戒しなくて大丈夫だよ」
「怖いことを言うな!」
「その発想が既に怖い!!」
 叫ぶ二人の声に少し気分の転換を図れたのか、今度は無理のない笑顔が三治郎の表情を彩る。その様子にほうと安堵の息を吐き、今度は伊助が口を開いた。
「ねぇ三治郎。もし一人が寂しかったら、私達の部屋に来る? とりあえず他の三部屋よりは綺麗にしてるし、詰めれば布団も敷けるしさ」
「うん、ありがと伊助。でも今日はいいよ、寝入り端を起こしたのにこれ以上迷惑掛けちゃうのも気が引けるしねー。それに兵ちゃんが上がってきたとき、僕がいなかったらますます拗ねちゃうと思うから」
 照れたように笑い、僅かに乱れていた掛け布団を軽く叩く。
「ホント、起こしちゃってごめんねー。僕は平気だから、みんな部屋に戻って寝よう? 明日も授業はあるんだし、全員が居眠りなんてしたら土井先生が泣いちゃうよ」
 笑う三治郎の言葉に、各自多少の戸惑いを感じつつも部屋へと足を向ける。なにかあれば声を掛けるようにとそれぞれに釘を刺していく級友達に笑顔で手を振り、木戸が閉まったのを見届けて三治郎はゆっくりと息を吐いた。
 その目は酷く疲れた様子で、落ちた溜息も重い。やがて膝を抱えるように蹲り、そこに額を乗せてもう一つ重い息を吐いた。
「……いつもならどっちかが折れて、早々に仲直りってとこなんだけどなぁ。みんなにも心配させるだろうし、嫌になる。……でもごめんね兵ちゃん。今回は僕、どうしても折れてあげられない」
 呟き、そのまま横に倒れて布団に顔を埋める。目蓋を下ろして意識を遥か地下へ向ければ、涙目で布団に包まっている兵太夫が見えるようだった。
 ごめんねと再度呟き、静まり返った室内の寂しさに身を縮めて布団を被る。滲むように目尻を濡らした水分が布団に染み込む前に、三治郎は緩やかに意識を手放した。
 翌日になっても、それは好転の兆しを見せることがなかった。
 朝食の場には兵太夫が遅れて現れたために三治郎の姿はそこになく、教室ではそれぞれに別の相手と談笑に耽る。まるで互いに避けるように動く二人に周囲は多少の困惑をもって見守っていたものの、喧嘩の確信を突けるような話題にすることも出来ずにいた。
 既に昼の鐘が鳴り、昼食も終えた。
「うん。まぁ良くない傾向を辿ってることは間違いないよね」
 庄左ヱ門がそう切り出したのは、教室ではなく学級委員長委員会の委員会室だった。
 畳の上に車座に腰を下ろし、庄左ヱ門を囲むのは三治郎と兵太夫を除いた八名。その誰もが先の言葉に同意を見せながらも、酷く落ち着かない様子でそわそわと辺りを見回していた。
「あのー、ところで庄左ヱ門? 二人のことを相談するなら別に教室でも……。自分が入ったことない委員会室って、やっぱりえもいわれぬ緊張感がさ?」
「乱太郎、甘い」
 苦笑と共に挙手した乱太郎の言葉に、ぴしゃりと返す。その素早さに思わずごめんなさいとうな垂れた姿に、別に謝ることはないけれどと庄左ヱ門が苦笑した。
 その後、同じく落ち着かなげに目を泳がせている面々に向き直る。
「今回ここを選択した理由としては、兵太夫と三治郎が絶対に近付かないという確信があってのことだ。喧嘩している二人に僕達までが気を遣わせる必要があろうか? ないよね? だからこそ、いつ二人が戻ってくるか分からない教室よりも、まして、集団で話し合うに適さない中庭よりもここを選択した。勿論使用するにあたっては彦四郎にも許可を取ってあるし、言ったところで僕ら学級委員長委員会はあまり仕事なんてしないものだから基本的にいつでも使いたい人間が使っていいことになってる。自分が本来踏み入れるはずのない場所というのはどうしても多少の違和感を覚えるだろうけど、そんなものは話すうちに薄れていくものだ。……以上でここを採択した理由を話し終えたわけだけど、まだなにか疑問や質問があれば答えておくよ?」
 さらさらと言葉を紡ぎ、最終的ににっこりと笑んだ庄左ヱ門の言葉にもはや誰も異議も疑問も示さない。相変わらず各自の疑問を先取りして説明し終えてしまう癖を持った級長はその様子に満足げに目を細め、さてではと軽く膝を打った。
「質問もないということで、話を先に進めさせてもらう。とりあえずさっきも言ったとおり、二人の喧嘩はちょっと良くない傾向を辿っていると言ってもいい。三治郎はこうなることを諦めている節が見られるし、兵太夫に至っては許す目途が立たないままいつもの独占欲だけが顔を出してる部分が見受けられる。実際に今日三治郎と話してた虎若と伊助、乱太郎としんべヱはなにか気付かなかった?」
 該当者を見回す視線に、恐る恐ると虎若が手を挙げる。
 その様子に既になにがあったのか悟ったらしい七名は、同情するような笑みを浮かべた。
 それを知った上で、挙手した影が呟くように唇を開く。 「僕らが喧嘩してるのをいいことに調子付いて三治郎に手ぇ出したらマジで八つ裂きにするからって、笑顔で言われた……」
 ガクガクと震えながらの言葉に団蔵が慰めるように肩を組む。それは怖かったなと軽く背を叩けば、虎若は何度も頷いた。
 震える唇を一度噛み、立ち上がりそうな勢いで体を前へと乗り出す。
「って言うか、アイツ絶対勘違いしてるって! 俺は伊助が好きって言ってるし分かってるはずなのに、なんでか知らんけど三治郎に手を出すなら俺しかいないと思い込んでるんだって! なんなの!? イジメ!? イジメだったら俺本気で泣くぞ!? 三治郎は低学年の頃からよく同じ委員会になったりして仲良いから、なんかちょっと弟みたいに思ってるだけですよ!? なのになんであぁいうこと言われるかなぁ意味分かんなくね!?」
「落ち着け虎若、口調が定まってないぞお前。女子高生とか下っ端サラリーマンとか色々混ざってる」
「団蔵、お前も時代考証忘れてるだろ」
 虎若を嗜める団蔵に、金吾が隣から突っ込みを入れる。それを狙っていたようにちろりと舌を出し、瑠璃紺の髪が面白くもなさそうに膝上で頬杖をついた。
 眉間を寄せ、悩ましげに溜息を吐く。
「しかしまぁ、庄左ヱ門の言うとおり良くない感じだよな。虎若に飛び火するのはいつものことだけど、この感じが長引くなら全員に嫉妬の目が向くのも遠くない気がするし。普段べったりな二人があれだと、こっちも変に気ぃ遣うよ。俺と庄左ヱ門みたいに喧嘩が日常茶飯事になってりゃそんなこともないのに」
 やれやれと溜息を吐く団蔵に、しんべヱが困ったように苦笑する。
「どっちにしても喧嘩は周りが戸惑っちゃうよ。でも今回は珍しいねぇ。誰も喧嘩の原因、聞いてないんでしょ?」
 きょろりと見回した先で、誰もが同じように互いの顔を見比べる。その反応から見るに確かに誰も原因を聞き出せてはいないらしいと見て取ると、今度は伊助が手を上げた。
「えっと、三治郎に聞こうとはしたんだけどね。なんでもないって笑って誤魔化されちゃったんだ。でも無理して笑ってるように見えて、ちょっと辛かったな」
 眉尻を下げて目線を伏せる伊助に、乱太郎が同意して膝上の手をそろりと重ねる。互いに同じことを感じていた二人が困ったような笑みで顔を見合わせると、喜三太が少し首を傾いだ。
「んー、僕も兵ちゃんに聞いたんだけどね。三ちゃん寂しそうだよ、行ってあげないのって。そしたらちょっと言葉に詰まったあと、今はいいの! って言ってそっぽ向いちゃった。怒ってるっていうより、拗ねてるって感じだったよ。団蔵やきり丸と喧嘩してるときみたいな、とにかく刺々しいって感じがなかった」
「だな。兵太夫は怒るととにかく苛々してることが多いけど、今回は三治郎のことをチラチラ窺っているし、様子を見ているように見える。ただお互いのタイミングがずれて視線が合わないから、余計僕達が気を遣わされる状況になってると言うか。……よく授業中に目が合って困る」
 喜三太に便乗して口を開き、溜息を吐いた金吾にきり丸が冷やかすように口笛を吹く。
「お前と兵太夫の目が合うのは、お前がよく喜三太のほうを見てるからだろー?」
「っな! なにを根拠に!!」
「きりちゃん、からかわないの」
 顔を朱に染めて反論した金吾に苦笑し、乱太郎がきり丸の膝を叩く。その痛みに唇を尖らせた影に笑い、大人しく全員の言葉に聞き入っていた庄左ヱ門が改めてその場を見回した。
「各自が観察を怠ってないようで助かるよ。しかし厄介だね。明後日にはい組とろ組の連合チームを相手に実習授業が予定されてるし、喧嘩が原因で体調不良なんて起こしたら負傷の可能性が増える。少なくとも原因が分かれば多少こちらも立ち回り方が決められるんだけど……。三治郎はその感じだと、頑なに言わないだろうしね。伊助、喜三太。兵太夫から少し話を聞いてくれる? きり丸と団蔵じゃ新たな火種になりかねないし、虎若は若干敵視されてる。乱太郎としんべヱは三治郎の話を聞くほうが適任だし、金吾は話を逸らすのに使われそうだ。無理に聞きだそうとしなくても、聞ける範囲で良い。頼める?」
「私達でいいの?」
「うん。兵太夫、二人には素直なところがあるからね。残念ながら僕が行くと身構えられちゃうんだ。頼むよ」
 頬を掻く庄左ヱ門に、そういうことならと二人は笑顔で引き受ける。それなら昼の間に話を聞いておこうと立ち上がった二人を見上げ、全員が健闘を祈って手を振った。
 退室した二人を見送り、しんべヱがほんの少し項垂れる。
「しんべヱ、どうかした?」
「ううん、なんでもないの。っていうか兵太夫と三治郎に関することじゃなくってね。早くこの部屋から出たいなぁって。だってここ、その戸棚からはお饅頭の匂いがするし、そこからはお団子の匂いがする。それに昨日、あそこの机の上で干菓子食べたでしょ? お昼食べたばっかりなのに、お腹が減って死んじゃいそうなんだもん」
 情けなく溜息を吐いたしんべヱの言葉に一瞬の沈黙のあと、弾けるような笑いが室内を包む。
「お前の鼻は相変わらずすっげぇな!」
「って言うか級長! 自分達ばっかりいいもの食ってるなよー!」
「考えたら私達までお腹が減ってきちゃったよ」
 きゃらきゃらと笑う面々に、庄左ヱ門も笑いながら頭を掻く。しんべヱのことを考えればこの部屋も決して相談に適してはいなかったのだと苦笑し、自分の判断能力もまだまだ研鑽が必要なようだと認識を改めた。
 自分達の退室後、そんな会話がなされているとは知る由もなく。
 伊助と喜三太は既に兵太夫を発見し、その傍らに腰を下ろしていた。
 人もまばらになった食堂の中に一人腰を落ち着け、卓上に大きな紙を広げて座り込んでいる。その姿は普段のカラクリ設計に勤しんでいるように見えるものの、その手元を見れば一切作業が進んでいないことが窺い知れた。
 ましてカラクリ設計は、常であれば人のいない地下でするものと決めている兵太夫が食堂でそれを広げるなど、人恋しい思いの表れ以外の何者でもない。
 声を掛ければ嬉しそうな笑顔を見せ、いそいそとそれをしまったことからもそれは明らかだった。
 その兵太夫に、些か聞き辛い様子で伊助が口を開く。
「兵太夫、今日寂しそうだね。三治郎と全然話してないだろ? ……なにかあった?」
 恐る恐る問いかけられた言葉に兵太夫の表情が僅かに曇る。
「なんでもないよ。……ちょっと進路の話をしただけ。酷い喧嘩とかじゃない」
「進路?」
 言葉に喜三太が眉間を寄せる。
 確かに既に最終学年になった自分達にとって、就職先や自分の進路について話すことは少なからぬ興味で話題に上がることも多い。けれどそれは各委員会でのことで、自学級においてはほとんどが家業を継ぐことやフリーの忍になることが決定的なため、改めて話に上がることも少なかった。
 そこにきて進路という言葉に違和感を覚え、喜三太が首を傾ぐ。
「兵太夫は学園で教職だよね? 三治郎は家業を継いで山伏なんじゃなかったっけ。庄左ヱ門から仕事が下りたら忍仕事もするって話だったけど」
「そう。それで間違ってない。……でも一個だけ、昨日初めて聞いたんだ。それで少し、……うん。ちょっと納得出来なくて」
 泣き出しそうに眉間を寄せ、唇を噛んだ兵太夫の背を伊助が撫でる。なにを聞いたのと優しく問う声音に、ことりと頭を預けた。
 その体勢で、ともすれば涙が滲みそうな状況を紛らわせるためか喜三太の手を静かに弄びはじめる。
「……僕さ、てっきり三治郎が行くのは播磨の霊峰だけだと思ってたんだよね。だから山から下りてる間は、いつでも学園に遊びに来れる距離にいるって思い込んでた。……でもさ、話を聞いたら違うんだ。播磨だけじゃなく、いろんな霊峰を渡り歩いて修行を積むんだって。だから庄左ヱ門からの仕事が遠方でも問題なくこなせるんだって。……それだけで面食らってるのにさ。あんまり当たり前みたいに、卒業したらなかなか会えなくなっちゃうねなんて言うから」
 ―― 三ちゃんは僕と会えなくなるのが平気なわけ!? 僕を放り出しちゃうつもりなんだ!?
 昨夜叫んだ言葉を反復して口に出し、また悲しげに眉間を寄せる。
「……あんなこと言うつもりじゃなかったんだ。だけど気が付いたら僕はもう地下に入っちゃってて、しかも朝になったら、三ちゃんは僕が怒ったのを諦めてるみたいにしててさ。それでやっぱり僕も腹の中から苛々しちゃって。……せめてもう少し早く知りたかったよ。あと半年しか一緒にいられないだなんて、心の準備がつけられない」
 伊助に甘えたまま喜三太の手を強く握り、顔を伏せた兵太夫に二人が困った表情で顔を見合わせる。これは自分達でなんとか折り合いをつけてやれる話ではなさそうだと判断し、とにかくあとで庄左ヱ門に報告しておかなければと僅かに目を泳がせた。
 ぐすと鼻を啜る兵太夫の髪を梳き、言葉もなくただ慰める。辛いことを言わせてごめんねと謝罪した二人に、また一度鼻を啜る音が返った。



−−−続.