「二人揃って湯上りに夕涼みに出たまま深夜まで水辺にいて風邪ひくとか、なんなの。どうしちゃったの。伊助は昨日から頭が回ってなかったの?」
 乱太郎が溜息と共に吐き出した言葉に反論することも出来ず、虎若と伊助は揃って布団を頭の上まで引き上げた。
 学園の休日、二日目。二人が寝かされているのは庄左ヱ門と伊助の部屋で、額の上には冷えた手拭。頭上には水の入った桶が置かれ、先ほど飲んだ薬の包み紙と湯飲みがその脇に添えられている状態だった。
 虎若は申し訳なさから、伊助は情けなさから声を出すことも出来ない。
 気恥ずかしい雰囲気に呑まれて長屋へ帰る機会を逸してしまった結果、二人はものの見事に風邪を招き入れていた。
「……申し訳ねぇ」
「うん、そうだね申し訳ないね。二人も寝込まれたんじゃ医務室だけじゃ場所が足りないから、結局一時的とはいえ庄左ヱ門に団蔵の部屋に移ってもらうことになったんだもんね。夏も盛りに向かう時期に風邪ひくのはね、お馬鹿のすることなんだよ虎ちゃん。反省したならとっとと寝て汗をいっぱい掻いて、そんでさらっと治してください。まったく、足折ってる人が風邪までひくとか、ホンットにもう!」
 笑顔の裏に刺々しさを忍ばせながら畳み掛けてくる乱太郎の言葉に、虎若はますます布団の中に引き篭もる。保健委員を続け、既に三年目。その中で脈々と培われてきた保健委員魂と普段の彼の性格から鑑みれば、それが心配しているからこその厳しい物言いと容易に察することが出来た。
 だが、強かに良心を痛める言葉達に布団の中で引き攣る他はない。
「心配掛けてごめんな、乱太郎。私も、その。……ちょっといっぱいいっぱいで、そこまで頭が働かなくって……」
 気まずい雰囲気に目だけを覗かせ、伊助が謝罪の言葉を呟く。その目が最初はまっすぐに自分を、次第に気まずげに逸らされていく様子を静かに観察し、乱太郎は困ったように息を吐いた。
「……んー、伊助のその言い方から察するに、二人があそこで逢引してたんだろうなっていうのはなんとなく分かるんだけどさ。でもね、いくらいい感じだったとしても、夏風邪をひくようなお馬鹿なことはやってほしくないなぁっていうのが私を含めた保健委員の本音でね?」
「反省してる。ごめんなさい」
「……ごめんなさい」
 伊助に続き、ごそりと動いた布団の中からくぐもった声が耳に届く。その返事にやはり困った様子ではあるものの微かに笑い、乱太郎は二つの布団を軽く二度叩いた。
「もういいから、二人はゆっくり寝てくださいな。時々様子は見に来るし、お昼の時間になったらご飯持ってくるから。それと今日はおばちゃんが休みだから、左近先輩に頼んでうどん作ってもらうけど、それでいい?」
「充分」
「むしろご馳走」
「りょーかい。じゃ、いい子で大人しくしててね。目が疲れるから本読んだり、まして筋トレなんて絶対しちゃ駄目だからね」
 木戸を閉める直前に厳しく言い置き、乱太郎の姿が部屋から消える。その足音が遠ざかるのを聞き、虎若はようやく布団から顔を出して大きく安堵の息を吐いた。
「あー、怒られたぁー」
 布団の中に引き篭もっていたせいか若干頬を紅潮させた虎若の第一声に、同じく完全に顔を出した伊助が噴き出すように笑う。その声に驚くように目を見開くと、次の瞬間には照れたように頭を掻いた。
「笑うなよ。だって乱太郎の奴、お前の代わりに母ちゃん役してるみたいに見えたんだ」
「それは思ったけどさ。怒られたぁーなんて、ものすごく情けない声を出すから」
 いまだ笑いを殺しきれないまま到底似ているとは思えない物真似を見せる伊助に、そこまで酷くないだろうと笑いながら反論する。けれど笑った喉の奥が酷くざらつくのを感じ、虎若は何度か咳き込んだ。
 慌て、伊助が口を噤む。
「……喉がガラガラだから、いやでも声が震えるんだよなぁ」
 不満な様子で呟いた言葉に、伊助が不安げに表情を曇らせる。
「ごめん、喉痛いのに大きな声出させた。もう話さないから、寝ていいよ」
「ん? 平気だよこんくらい。伊助と二人でずーっと喋ってられる機会なんてなかなかないんだし、気にすんなよ」
「気にするだろ普通。お前も私も風邪っぴきで寝込んでるんだから」
 苦笑する顔にそれもそうかと笑い返し、しばし静かに横になる。黙り込んでみればやはり休日の長屋はやけに静かで、少し離れた場所から聞こえる下級生の声さえもよく耳に響いた。
 熱を出しているといったところで、夏も近い時期に布団を被り続けているのは苦痛でしかない。じんわりと体に滲む汗はすぐに夜着に吸い込まれると言ってもやはり不快で、はじめは大人しく床に就いていた虎若は次第に布団を跳ね除けた。
 それを横目に見、伊助が困ったように眉間を寄せる。
「駄目だよ虎、暑くってもかぶってなきゃ。寝ちゃえば気にならなくなるよ」
「無理。茹でダコになる」
 体だけを敷布団の上に残したままぐったりと床に頬をつける虎若に、仕方なさそうに伊助が起き上がる。僅かに眩暈を起こす視界は身を起こした瞬間に世界を回したが、それを唇を噛んで堪え、へばる虎若の脇に座り込み、布団を整えた。
「手間掛けさせないで。私だって結構辛いんだから」
「ごめん。でもアッツイ」
「駄目だって」
 熱さを感じる溜息に、虎若の目が伊助を見上げる。その表情は確かに辛そうに翳って、普段であれば問答無用で布団に押し戻すはずの手つきがやけに重い。どうやら自分よりも熱が高いらしいことを感じ、渋々ながらも頭を枕の上に戻した。
「いいよ伊助、俺ちゃんと寝るから。困らせてごめん」
「謝るなら、最初から、寝てよ……」
 立ち上がろうとする刹那、辛そうに息切れた言葉と同時に伊助の体が傾ぐ。それに思わず面食らい、虎若は半身を起こして熱い体を抱き止めた。
 閉じた目蓋は重く、苦しげに顰められた眉間の下で開く気配がない。触れた肌ははっきりと熱く、虎若は青褪めて伊助を自分の布団に横たえた。
 落ちていた手拭を濡らし、汗を拭いてから乗せてやる。
「ごめん。しんどいのに」
 謝罪を呟けば、閉じていた目蓋がゆるりと開く。薄く開いた目が泣きそうな虎若を確認すると、力なく笑んでいいよと呟いた。
「私も、ごめんな。布団取っちゃった」
「いいよ。俺も一緒に入って寝る」
 謝る伊助に罪悪感を感じさせないよう、同じ布団に横になり、跳ね除けていた布団を引き寄せてばさりと被る。間近に迫った二つの顔を見合わせると、どちらかともなく楽しげに笑った。
 その笑いの最中、突然木戸が開く。
「伊助、寝てるか?」
 遠慮げに開かれた木戸の隙間から顔を覗かせたのは、昨日会ったばかりの紫闇の衣装。伺うように室内を廻った視線と振り向いた虎若の視線が不意に合い、病床の影は崩れ落ちるように枕に顔を埋めた。
 その向こう側で、伊助が慌てたように身を起こす。
「さ、三郎次先輩っ! ……ッ!!」
 急激に身を起こしたことでまた眩む目元に、伊助が頭を抑える。その様子に慌て、虎若だけでなく三郎次までが傍に駆け寄った。
「駄目だって、さっきグラッとしたとこなんだから。先輩なんか気にしないで寝てろ」
「乱太郎から熱が高いって聞いて来てみれば、お前はホンットに無理ばっかりするな。見舞いされる側が気を遣うなよ」
「……ごめんなさい」
 両側から宥めるように叱責され、居た堪れずに口元まで布団を引き上げる。その様子にほぅと安堵の息を漏らし、三郎次は虎若へ向き直った。
 いっそ煌びやかにさえ見える笑顔に嫌な予感を感じ、思わず愛想笑いで返す。
「とりあえずお前、ちょっと表出ろ」
「やだなぁ先輩、風邪っぴきの病人相手になんてこと言うんですか。勘弁してくれませんかね」
「うるせぇ、寝込んでる病人が布団の中に引っ張り込むか。アレか? お前は俺が思ってたより残念な人間か? 脳みそが完全に筋肉になってんじゃねぇのか、一回保健委員に開いて診てもらえ。三段跳びで階段駆け上ってんじゃねぇぞこの筋肉ダルマ」
「下種な勘繰りしないでもらえますかね。こっちは立ち上がった伊助が立ち眩み起こしたんで、俺の布団に一緒に寝かせてんですよ。嘘だと思うなら伊助に聞きゃあいいでしょう。なんなら布団剥いで、夜着が乱れてないか確認しますか」
 互いに口元に笑みを貼り付けたまま、一歩も退かない眼光で睨み合う。それをやはり勘違いさせてしまったかと戸惑い気味に見上げる伊助の視線に気付き、三郎次は些か憮然とした表情で声を投げた。
「なんにもされてないってのはホントか、伊助」
 苛立った声音に、びくりと肩が震える。
「あの、はい。されてないです、ていうか勘違いです。虎若が言ったとおりです。虎若が布団を蹴飛ばしたんで、直しに行ったんです。そしたらちょっと、眩暈がして倒れ込んじゃってですね。そんで、あの。一緒に入らせてもらってたっていう。心配掛けてごめんなさい」
 しどろもどろに釈明する伊助の言葉に、不機嫌な溜息が漏れ落ちる。その音にまだ納得がいかないだろうかと不安げに眉間を寄せた伊助が虎若を見た。
 布団の中で、無骨な手がその背を抱く。
「納得してくんないと困るんですけどねー。事実なもんで」
「勘違いさせた張本人が言うな。しかも、どっちにしろ原因はお前だろうが。横に伊助がいなかったらその頭、踏んでやるとこだ」
「いーでしょ、俺のお守りです」
「……次の合同臨海学校が楽しみだな馬鹿大夫。海の底に引きずり込んでやるから覚悟しろ」
 にっこりと笑んだ表情に、どうやら最後のは本気らしいと察して目を逸らす。その二人の様子を眺めながら、伊助が楽しげに肩を揺らした。
 漏れ落ちる笑い声に、三郎次、虎若の目が伊助に向く。
「あ、や、ごめんなさい。二人ともなんだかんだで仲良いから、見てると面白くって」
「えらい誤解だ」
「やめてくれ」
 互いに吐き捨て、その後睨み合う。それにまた笑い出した伊助の声に戦意を殺がれ、三郎次が先に視線を逸らして仕方なさげに溜息を吐いた。
 伊助の頭を軽く叩き、額に手拭を乗せ直す。
「なんにしろ早く治せよ。明日からまた授業なんだから、また内容についてこれなくなったら大変だろ? いくら補修が恒例のアホのは組でも、その中で最低点なんて取ったら笑いモンだぞ」
「アホのは組は余計ですよ、先輩」
 軽口とは裏腹の優しい手つきにくすぐったげに笑い、立ち上がる三郎次を見上げる。もう退室する様子を見せる先達に慌てて見舞いの礼を告げれば、笑った顔が伊助を見返った。
「そこの筋肉馬鹿になにかされそうになったら、辛くっても大声出して誰か呼べよ。保健委員には俺から言っとくから。大人しく寝とけ。んで、出来れば早めに自分の布団戻っとけ。じゃあな」
 後ろ手を振って退室した三郎次に目礼を返す伊助に対し、虎若は舌を出して見送る。それに気付いた伊助が軽く叩いて叱責すると、不満げに唇を尖らせた。
「気に食わないのは仕方ないよ」
「仕方なくないよ」
 呆れた様子で溜息を吐く伊助を横目で見遣り、細い背に回したままだった腕に力を籠める。その力に首を傾ぐ顔を覗き、虎若はこつりと額を合わせた。
「お前があいつに懐いてるのは、もうどうしようもないもんな」
「……三郎次先輩?」
「そう、気に食わないけど仕方ない。同じ委員会になったら良さが分かるって、団蔵も言ってたから」
「そうだね、虎は同じ委員会になったことがないから嫌いなままなんだと思うよ。あと二年の間に、同じ委員会になれたら」
「なれないよ。俺は火薬委員にはなれないもん」
 火薬委員に限定した物言いに、伊助の眉間が訝しげに寄せられる。けれどあえてそれを無視し、虎若は背中に回した腕を解いて染料に染まった手を取った。
 様々な色の末、今や紺に染まったその指先を軽く握り締める。
「……確か上級生になったらさ、桂男になるための勉強でどっかの店や職人に弟子入りする個人実習があるんだって。聞いたか?」
「うん? あぁ、前に喜三太としんべヱが言ってたね。立花先輩のお邪魔しちゃったって」
「そう、あれ。あれさ、俺、お前ん家に行こうかなって」
「……紺掻に? 洗濯嫌いの虎若が?」
「そう刺々しく言うなよ」
 思いのほか胡散臭そうに言い放たれた言葉に、虎若の顔が苦笑で引き攣る。もっともそれも当然の反応かと頭を掻けば、眼前の目元が和らぎ、理由はと呟くように問い掛けた。
 それに嬉しげに笑み、一度目を閉じる。
「不純な動機。お前とおんなじ指になりたいだけ」
「それだけ?」
「それだけ。 お前は火器に興味を持って、今じゃ薬込役だって出来るようになった。でも俺はお前の染物の助けをしてやれない。それじゃなんか不公平だ。俺の指も、お前と同じ色にしてみたい」
「……ホント、お前って変な奴」
 単純すぎる理由に、思わずくしゃりと笑みが零れる。それに満足げに歯を見せて笑い、虎若はもう一度伊助を抱き締めて布団の中に潜りなおした。
「あーあ、せっかく寝ようとしてたのに邪魔が入った! 今から頑張って寝ようと思うんだけど、伊助も寝る?」
「寝る。乱太郎に怒られるもん」
「だよなー」
 笑い、それきり目蓋も下ろし口も閉ざす。じわじわと滲む汗、その不快感はやはり消え去りはしないものの、その暑さが腕の中にいる熱のためだと思えば耐えられないものでもないと唇を吊り上げた。
 薄く目を開けば、同じように目を閉じた伊助が視界を埋める。ただそれだけのことがやけに気分を高揚させ、虎若は鼻歌でも口ずさみそうな表情で静かに眠りに就いた。



−−−了.