風呂からあがり医務室で包帯の取替えを願い出たのは、三郎次の背中を見送ってしばらくしてからだった。
 よたつく足で医務室に辿り着き、当番だという五年生に包帯と添え木の交換をしてもらっている間に耳に入った話には正直冷や汗の出る思いだったが、それでもその場では適当な相槌を返すほかの対処法を思いつくはずもなく、虎若は心の中で申し訳なさに手を合わせた。
 あまり面識のない、薄紫の髪を持つ先達は困ったように笑って口を開いたことを回想する。
「あぁそうだ、虎若。四年の池田三郎次、一緒に風呂に入ってた?」
「え。あぁ、はい。途中までですけど」
「そうか。じゃあ誰かと一緒だったか?」
「……いえ、お一人でしたけど。池田先輩、どうかしたんですか?」
「いや、特になにがあったってわけでもないんだけどな。さっき左近が飛び込んできて、三郎次が湯当たりで脱水状態と酷い吐き気だって言ってたからさ。一応吐き気止めの薬と薄い塩水は渡したんだけど、もしかしたら誰かと我慢大会でも開いてたんじゃないかと思ったんだ。……そっか、一人だったのか。じゃあ他の理由があったんだろうなぁ」
 面白がるわけでもなくただ純粋に興味が沸いたとばかりに淡々と話しながら、手際よく包帯を巻いていく手の動きに感心しつつも話の内容にはじんわりと汗が滲む思いだった。
「なにもそんな状態になってまで話に付き合ってくれなくっても……。変なところでやたら律儀だよなあの人」
 決して軽んじるわけではなくむしろ気遣う声音でそう呟き、杖を持ったままの手で頬を掻く。湯当たりしそうだと冗談じみて言っていたあの言葉はむしろ本音で、にも拘らずそれを気取らせないように振舞っていたあの素直ではない背中を思い出した。
 意地っ張りもあそこまでいけば職人技だと、小さく笑みを漏らす。
 小さな蛍が柔らかな光を放ちながら目の前を浮遊する。それに気付き、学園内に点在する池の一つがもう目と鼻の先に近付いていることを闇の中で察した。
 学園の教師陣や低学年の月見用として建てられた通称月見亭は普段使用されることはほとんどなく、使用許可書などの提出も必要ない設備でありながらほとんど人気もない。ただただ事務員の仕事の一環として掃除や補修が義務付けられているだけで、虎若自身、三郎次に言われなければその存在すら忘れかけているところだった。
 多くの蛍の光に照らされ、池に張り出すようにひっそりと構えられた藁葺屋根が視界に入る。簡素な造りであるにも拘らず池に面した三辺には御簾が掛けられ、そこだけ見れば些か優美すぎるほどに時節を楽しめる趣向が凝らされていた。
 蛍舞うその池の上、舞台の観覧席のように手すりに頬杖をついた伊助を見つける。
 思わず声を掛けそうになるものの、ぼんやりと蛍を眺めているようでいて微かに笑みの形に歪められた唇に気付いて口を噤む。せめて声を掛けるのはもう少し近付いてからと戒め、極力気配を殺して板間に近付いた。
 その距離およそ三間。真後ろではなくわずか斜めにずれた場所からゆっくりと舞台に上がり、虎若は静かに杖を置いた。
「水辺での実習がやりにくい時期になったな。学園だけでこんだけ蛍が出たんじゃ、川の近くなんて行けたもんじゃないぞ」
 掛けた声に、眼前の肩は震えもせずに蛍へ手を伸ばす。
「特に今日は上弦の半月だしね。でも逆に言えば、守りやすく、そして水辺が付け入られやすい季節だよ」
 さして驚いた気配もなく当たり前のように返された言葉に喉を揺らし、やっぱり気付いてたかと笑って隣に歩み寄る。近すぎもせず、かといって遠慮げに離れるわけでもないあくまでも自然な距離感に、それを望んだ虎若自身が安堵したように隠れて息を吐いた。
 怯えもされず、拒絶されもしなかったことが胸の奥を落ち着かせる。ちらりと見下ろした伊助の横顔は柔らかな笑みを浮かべたまま飛び交う蛍を眺め、藍に染まった指先に留まって光るそれに目を細めていた。
 静かな所作が彼の同室者を思い起こさせ、長く同室だと互いに影響を受けるものなのだろうかと眺める。
「お前、どんどん庄左ヱ門に似ていってるな」
「そうかな。でも事実を事実と認識するのは大事なことだよ」
「いや、守備の話じゃなくって……まぁいいか。ちなみにそれは誰の受け売り?」
「庄ちゃん」
「だよな」
 分かりきっていた返答にただ笑い、立ったまま空に浮かぶ月を見上げる。雲もなく晴れ渡った濃紺の中もう随分と西に傾いては弓弦を上へと向けた琥珀色は、あと一刻もあれば山間に沈むように見えた。
 ふと、湯上りからずっとここで自分を待っていたのだろうかと疑問が浮かぶ。
「……湯冷めとかしてないか?」
「平気。このごろ酷く暑いから、いい夕涼みだよ。蚊に刺されはしたけどね。それより座ったら? 折れてない足に体重掛けてるんだろうけど、それもあんまり良くないよ」
「うん、そうだな」
 咎めるでもない口調に大人しく従い、一寸ほど間を詰めて腰を下ろす。より水面に近付いた体は冷えた風に晒され、確かに湯上りで火照った体にはいい夕涼みに思えた。
「今日、驚かせてごめんな」
 呟いた謝罪の言葉に、伊助は困ったように苦笑を漏らす。
「虎若が謝ることじゃないよ。謝るのはこっち」
「いやいや、そこは受け入れとけよ。お前に謝られたりしたら、それこそ俺の立つ瀬がない」
「そうかなぁ。……でもそれならホント、三郎次先輩の言ったとおりだ」
 先輩はすごいと呟いたその目が優しげに伏せられたのを見て取り、虎若の眉間が不機嫌に寄せられる。けれどそれを気取られないように顔を逸らし、些か不貞腐れた表情で頬杖をついた。
「……さっき三郎次がさ」
「池田先輩だろ」
 ぴしゃりと直された言葉に、ますます腑に落ちないものを感じて頬が膨れる。
「…………その池田先輩が、俺にここに行けって言ってきたんだけど。つかお前、自分は三郎次先輩呼びなのに」
「だって虎若、名前で呼ぶと必ず呼び捨てにするから苗字のほうがいいだろ? 細かいことは気にしないの。……先輩、相談に乗ってくださったんだ。あの後思わず焔硝蔵の影に走っちゃってさ、混乱してて涙目だったから、心配してくださって」
「泣いたの!?」
「あー、違う違う。嫌だったんじゃなくてさ。頭の中がぐちゃぐちゃだとなんだか泣けてくるだろ? あれだよ」
 失言に気づき、両手をバタつかせながら慌てて訂正する姿にほうと安堵の息を吐く。嫌だったわけではないと先刻耳に入れていたはずなのに、いざ泣かせてしまったかと思えば額から一気に血の気が引いた。
「……先輩から細かい話は聞かなかったんだ?」
「いや、お前が嫌がってなかったとかそういうのは聞いたんだけど、ちょっと不安で。……ホントに嫌じゃなかったか?」
「嘘をつく理由がないよ。聞かなかった? 私、お前と離れたりするのは嫌だよ」
「聞いた。でもお前があいつにそこまで素直にいろいろ話したかと思うと、ちょっと癪に障る」
「変な奴」
 今度こそ正面へ向き直り、蛍を睨みつけるように不貞腐れた表情をみせた虎若に噴き出すように笑う。眉尻を下げたその笑みが仄かな光に照らされ、心臓が締め付けられたような錯覚に陥った。
 散々した後悔の二の轍を踏むまいと、右の手に力を籠める。
「……伊助」
「うん?」
 呼び掛けに首を傾ぐ姿に、まるで朝の再現だと唇を噛む。それだけにここでまた手前勝手な行動を起こせば、今度こそ愛想を尽かされるかも知れないと一度唾液を飲み下した。
 些か訝しげに眉間を寄せた伊助の手を握り、遠慮げに唇を開く。
「…………口、吸ってもいい?」
 上目遣いに呟かれた言葉に、伊助の目が思わず泳ぐ。その仕草にまだ反省が足りなかったかと慌て、即座に距離を取った。
「あの、嫌ならいいんだ! どうしても今ってわけじゃ」
「っ、誰も嫌なんて言ってないだろ!?」
 必死に言い訳を紡ぐ言葉を遮って、伊助が声を荒げる。その声が自分で思っていたよりも大きかったのか慌てて口を噤む姿に目を瞬き、虎若は思わず気が抜けたように肩の力を抜いた。
 蛍の光に照らされた伊助は首元まで赤く、それを隠そうと片腕に顔を庇う。
「……心の準備くらいさせろよ。いくらなんでも、そう簡単にどうぞなんて言えるわけないだろ」
 照れ臭さからか不機嫌にも思える声音で呟かれた言葉に、虎若は思わず背筋を伸ばして居住まいを正す。伊助の唇から漏れ落ちた心の準備という単語は自分が口にするものよりもやけに重く、備えと言うよりも覚悟と言ったほうがより正確なのだろうと理解した。
 そんな虎若を尻目に、伊助はゆっくりと深呼吸を繰り返す。水面を揺らす風もなくただ静かに蛍舞う池の上で、大袈裟なまでの呼吸音だけが響いた。
 やがてその音が飲み込まれたように止まり、意志の強い瞳が向き直る。
「ん、準備完了! いいよ!」
「そんな力いっぱい返事していいの!?」
「いいからするなら早くしろよ! はい!」
 準備が出来たというよりも些か自棄気味に目を閉じて顎を上げた伊助に、息を飲み唇を一文字に結びながら僅かに怖気づいて虎若の目が泳ぐ。けれど目を閉じて待ち続けるその唇から目を離すことは出来ず、やがて恐る恐る距離を縮めた。
 体が内側から爆発するのではと思ってしまうほど心臓の音が耳につく。むしろ耳自体が鼓動しているかのように脈打つのを感じながら、震えた吐息が互いの肌に触れることに更なる緊張が身を強張らせた。
 間近に迫った口元が怯えたように軽く引き結ばれたのを目にすると同時に、目蓋を下ろす。触れた唇は無我夢中で触れたときよりも数段、柔らかさと暖かさを増している気がした。
 指先が触れていた手が震えたことに気付き、上から覆うように握り締める。口付けた場所をそろりと食んでみれば、僅かな甘さが口内に満ちた。
 それを数度繰り返し、最後にまた啄ばんで名残惜しげに離れる。ゆっくりと吐き出した息と共に薄く目を開くと、その先に見えた姿に虎若は狼狽した。
 同じく大きく息を吐き出した伊助は、酷く顔を赤くして、目尻に涙を溜めていた。
「あ、あの! やっぱ嫌だったか!?」
 慌てて慰めようとうろたえる虎若に、言葉もなくただ首を振る。しかしそれだけでは納得が出来ずただおろおろとうろたえ続ける姿に、伊助は乱暴に目元をこすった。
「違うよ、なんか恥ずかしくって死にそうだっただけ……! ……あと、その。息も出来なかったから……」
 湯気でも噴き出しそうな雰囲気で俯いてしまった伊助につられ、虎若までもが気恥ずかしさに耐えられず俯く。それまでが恥ずかしくなかったわけではないものの、目の前で露骨に恥ずかしがられてしまうと耐えるものも耐えられなくなるのが困ったものだと熱い頬を手の甲で擦った。
 俺も一緒だと呟けば、俯いていた伊助の視線が上がり、二度瞬く。
「……ホントだ。赤い」
「お前がめちゃくちゃ恥ずかしがるから、つられた」
 正直に白状すると、安心したように伊助の顔が綻ぶ。その表情に照れたように苦笑を返せば、蛍の光を遮り目の前に影が生まれた。
 驚いて目を開けば、唇に覚えのある柔らかさが押し付けられる。
「おあいこ」
 悪戯に笑んだ顔が離れ、ぺろりと舌を出す。不意打ちの接吻けに思わず呆然とし、やがて虎若は眉尻を下げて頬を掻いた。
「伊助にゃ敵いません」
「当然」
 互いに笑い、月を見上げる。その距離は先ほどよりも随分と近く、肩を預け合うように寄り添った二人を蛍が行き来した。
「……なぁ、伊助。佐武の就職って目指してみないか?」
 唐突に呟かれた言葉に、伊助の目が見開き、虎若を見る。
「私が?」
「うん。そしたらずっと一緒にいられる。俺がお前を守るってのは難しくなるかもしれないけど、離れなくって済む。……勝手な話、もし俺が誰かと所帯を持つことになっても戦場ではそういうのは許されてるから傍にいられるなって……。……さっき思いついただけだから、深くは考えてないんだけどさ」
 口篭るように歯切れ悪く零れ落ちる途切れ途切れの言葉に、伊助の目が宙を漂う。考え込んでいるようでもあり呆れたようにも見えるその仕草に溜息を吐き、やっぱり駄目かと虎若は笑ってみせた。
 その額を指で弾き、痛みに叫んだ顔にずいと詰め寄る。
「馬鹿、そんなの去年から考えてるよ」
「……へ?」
 弾かれた箇所を手で擦りつつ、間の抜けた声を漏らす。それに可笑しげに笑い、伊助は手摺りに頬杖をついた。
「考えてたよ、去年から。一緒にいられたらいいなぁって考えて、結局その結論に落ち着いた。幸い火器にも興味を持ったことだし、勉強すれば間に合うかもしれないって。だけど家を継ぎたい気持ちも私の中にあって、どうやって折り合いをつけるかずーっと考えてるんだ。なのにまさか、跡取りから直々に勧誘されるとは思ってもいなかった」
 肩を揺らしながら蛍を見入る姿と言葉に現実味を持てず、虎若の目が忙しなく瞬く。戸惑うばかりの気配を察して伊助が首を傾いで振り向けば、挙動不審気味に唇が戦慄いた。
「え、いや、だってお前……! ……ホントに? 本当?」
「だから、嘘つく理由なんてないってば。存外に信用がないなー」
 困ったように眉間を寄せて笑った伊助の手が虎若の手に触れ、胡坐を掻いたその身にそろりと体重を預ける。足を気遣っているのか半端な位置で抑制を掛けている体に気付き、どうせなら完全に預けてこいよと無理矢理に抱き込んだ。
 力任せといっても差し支えのない愛情表現に、やはり困惑気味に笑い、大人しく身を任せる。
 夜着越しに触れ合った箇所から伝わる熱に召を細め、伊助の頬がかすかに擦り寄る。
「今度から虎若も一緒に考えて、染物屋と佐武衆を両立させる方法。半農半忍の生活みたいにもしも両立させることが出来るなら、私、万一のときのお前の逃げ場にもなれる」
「……うん。必死で考える」
 腕の中の熱を逃がさないように力を入れて抱き締め、愛しさに駆られて身を縮める。まるで大事なものを隠すときの子供のようだと笑った伊助の声に、正解と小さく呟いた。
 月は山間にその身を半分沈め、闇の中の光を蛍に託す。数多飛び交うその柔らかな光をただただ見つめ、二人は夜半過ぎまで月見亭から動くこともなく風に吹かれた。



−−−続.