片足の軽度骨折のために自由にならない足を杖で補い、虎若がゆっくりとした動作で風呂へと向かう。腫れる恐れを考慮して極力暖めないようにと注意を受けていはいるものの、鍛錬したままの状態で手当てを受けて、汗すら流せていない現状を放置して布団に転がろうとはさすがに思えなかった。
 湯船に入ろうにも足を上げなければいけないため、支えるために同行すると申し出た団蔵の言葉をありがたく思いながらも固辞したことを胸中で深く謝罪する。心配してくれていることは純粋に嬉しかったが、一度悩みを打ち明けた今となっては、今度は静かに思い悩みたかった。
 脱衣所に辿り着き、装束に手をかけた時分になってようやく先客がいることに気が付く。
 籠の中には紫の装束。それに微かに嫌な顔をしながらも、こちらが話しかけさえしなければ必要以上に構われることもないだろうと投げるように脱ぎ捨てた。
 扉を開き、自然、視線は湯船に向かう。
「よぉ」
「……失礼しました。もうちょい後で入ることにします」
「どういう意味だコラ」
 にぃと唇を歪めて見返った三郎次の姿に、踵を返して一歩戻る。けれどその背にぴしゃりと湯を掛けられ、虎若は不愉快さを隠さずに振り向いた。
 忌々しげなその表情を意にも介さず、いいから入れと先客は顎で示す。それに憎々しげに眉間を寄せ、引き攣りながらもぎこちない笑みを作った。
「いやぁ、なんて言うんですかね。俺みたいな年中汗臭いのが入ったらせっかくの湯が汚れるんで、そんなところに先輩様を同席させるわけにはいかないっていう気遣いっつーか」
「掛かり湯もしないつもりかこの筋肉ダルマ、相変わらずお前は俺のことが大嫌いだな。……いいから入れよ。伊助の話でもしようや」
 嫌味に歪められた唇から零れ落ちた伊助の名にひくりと片眉を動かし、しばしそのまま逡巡する。
 一年時からなにかと自分達に冗談交じりのからかいと、時折本気の嫌味を織り交ぜては突っかかってくるこの先達が前々から伊助を憎からず思っていることは気付いていたが、だからこそあえて二人の時にその名を出すことなどなかったことを回想する。それがこの頃合を見計らったかのようにわざわざ、しかも現時点では自分より不利な立場にあるはずの三郎次から投げかけられたことに唇を引き結んだ。
 開いたままだった扉を閉め、黙って洗い場に向かう。木桶を手に些か乱暴に湯船から湯を掬い、包帯と支え木で固定されたままの足の甲を気にもせず頭から二度かぶった。
 湯の滴る視界で、睨むようにちらりと視線を走らせる。
「……なんで先輩が俺に伊助の話なんか振ってくるんですか」
「身に覚えがあるだろ? なんせこっちは、伊助に相談されてわざわざ待っといてやったんだからな。おかげで湯当たりしそうだ」
「っ、なんで伊助があんたに……!」
 食って掛かろうとした虎若の顔に、また湯が掛けられる。咄嗟のことに思わず対応出来ず、甘んじて受けるしかなかったその表情に不機嫌な言葉が投げつけられた。
「敬称どころか、俺の名前まで忘れたのか?」
「…………すみません。ちょっとイラッとしたもんで、なけなしの尊敬の念がどっかに行ってました」
「そいつは随分とやわな尊敬だ」
 嘲笑か自嘲か、どちらにしろそういった種類の笑いを漏らした三郎次の言葉を区切りに、一度風呂場に沈黙が落ちる。掛かり湯を終えた虎若がこれ以上足を湯に付けないようにと気を遣いながら湯船に身を沈めるのをちらりとも見ようともしないまま、けれどその気配が落ち着くと嫌味な唇は再度開いた。
「まぁ気に食わない相手、しかも当人は気付いてないが一応の恋敵から好いてる相手の名前が出てくりゃ、面白くはないよな。しかも自分が仕出かしたことの相談と来れば」
「ははっ、まったくですねー。なんであいつ、先輩にそんなに懐いてんですか。餌でもやりましたか」
「アホか、一年の時の刷り込みだ。俺はまだあいつの中で、困ったときにはなんだかんだで助けてくれる優しい先輩って認識なんだよ」
「あいつが俺と田村先輩の影響で火器に魅せられたことへの唯一の反省点ですよ。伊助が焔硝蔵に通う限り、先輩は火薬委員会にいるんでしょうし」
「勘違いすんな、実家に戻るにしろ二束の草鞋を履くにしろ、火薬の扱いに長けときたいだけだ。伊助は関係ない」
「素直じゃないっすねー」
 互いに視線を交わしもしないまま、どこか淡々と掛け合いが続く。湯気の満ちた室内はともすれば息苦しいほどに湿気が溢れ、夏だというのに僅かに白く濁って視界を遮った。
 そろりと視線を動かした先にいる三郎次が、彼方を向いていることを確認して小さく呟く。
「……伊助、なんて言ってたんですか」
 零れた声音が天井に溜まった雫を揺らし、一つ湯船へと落とす。遠慮げな声音とは相反するようなその水音に三郎次は姿勢を変え、ようやく虎若へと視線を移した。
「気になるか?」
「そりゃあ、ならなきゃ可笑しいです」
「危機感抱いてる奴の台詞だな」
「嫌味ですか」
「言わせとけよ、柄になく妬いてんだ。なのにあいつに約束しちまったから、お前の話まで聞いてやらなきゃならんこっちの気も察しろ」
 今度ははっきりと自嘲する声音に、虎若の言葉が詰まる。それをまた鼻白むように笑い、三郎次は湯船の縁に腕を置いて虎若に向き合った。
「それでお前、伊助とどうなりたいんだ」
「……は?」
「子供の感情で好きだのなんだの言ってるだけじゃなく、欲情までするような歳になったのは分かったけどよ。お前の場合、その感情だけで一緒にいられるような家柄じゃなかったろ。紀伊の、あの鉄砲隊の跡取りだっけ?」
 唐突な話の切り出しに目を丸くしていた虎若だったが、家柄という言葉に途端に眉間を寄せる。もとより代々忍者の家柄だけでなく商人や武家、果ては霊能者の家系までもが入り混じった自学級でこういった話題になる際、家柄について言及することはあまりにも無粋だと暗黙の内に徹底されていた。
 学級どころか学年すら違う三郎次にそれを期待するのはお門違いと知りつつも、迷いもなく踏み込んできた言葉に不快を露にする。
「うちん家と、俺が伊助を好きってことに関係なんてないでしょう」
「そうだな、ないかもしれない。ただそれはお前が卒業したあとは伊助と別れるって明言出来る時だけだ。たとえ将来がどうあれ、あいつとずっと一緒にいたいと願うならその話を避けるべきじゃない」
 射抜くような視線にたじろぎ、またしても言葉に詰まる。正論とは言えど言い負かされることに悔しさを感じたのか噛み締められる唇に、三郎次は不意に視線をはずし、水面を軽く叩いた。
 ぱしゃりと水音が響き、溜息が一つ落ちる。
「男ってのは女とは別の意味で面倒な生き物でな。好きって感情とはまったく別の場所で、とにかく欲情の発散をしたいって感情があるんだと。しかもそいつは自覚したての頃が一番強くて制御が利き辛く、興味本位でなんだかんだとコトを起こしやすい。その上の一つ目の感情を知ってる奴からすれば後者は見分けが付かなくて、好きって感情が暴走したようにしか思えないんだそうだ。……左近の受け売りだけどな。お前はどうだ、馬鹿大夫」
 相変わらず無感動に投げ掛けられる言葉に眉間を寄せ、そう言われてもと小さく愚痴を零す。風呂の中で反響する声音、それが聞こえていないはずもないのにあえて無視を決め込んだ三郎次に、虎若は僅かに苛ついた言葉で唇を開いた。
「見分けがつかないってんなら、その通りなんじゃないですか。俺の頭ん中、今は伊助でいっぱいなんで」
「そうか、ならまた足の骨を折ることになるな。それか庄左ヱ門あたりに殺される」
「縁起でもないことを言わんでください。見分けがつかないって言ったって、困らせたり泣かしたりしてまでそんなことをしたいわけじゃないです。……傍にいてくれたらそれが一番、俺は嬉しい」
 答えながら、脳裏には自分を呼んで幸せそうに笑う伊助の顔が浮かぶ。それが離れていくことを厭うように僅かに寄せられた眉間を注視し、三郎次は見えないように自嘲を浮かべた。
 わざとつまらなそうに腕を伸ばし、天井を仰いで大きく息を吐く。
「残念。アホなことを抜かすようなら、とっとと俺に譲れって言いたかったんだけどな」
「譲りませんよ。て言うか、俺はあいつを物みたいに扱えるほど偉いさんじゃありません」
「最強と言われる傭兵鉄砲部隊の次代頭領がどの口で」
「家と俺は別物です」
 きっぱりと断言された言葉に笑い、三郎次が音を立てて湯から上がる。その背中を見送りながら、虎若は自分ばかりが聞き出されたことに気付いて僅かに頬を膨らませた。
「……で、どういう助言を頂けるんですかね」
「ねぇよ、そんなもん」
「はぁ!?」
「言ったろ、お前の話を聞くって。俺が伊助に約束したのはそんだけだ。恋敵に助言なんて求めてんじゃねぇよ、アホ」
 さらりと嫌味を投げながら、洗い場に置いたままにしていた手拭いを絞る。その飄々とした様子と言葉に一瞬呆然とし、虎若は拍子抜けした表情で体を沈めた。
 それを可笑しげに見遣り、三郎次が背を向ける。
「お前を突き飛ばしたこと、気にしてたぞ。謝らせるくらいがちょうどいいって言っといたがな。……前にきり丸や兵太夫みたいに器量がいいわけじゃないって気にしてたが、それも関係してんのか知らないけど、あいつはお前らに気を遣いすぎだ」
 ぼそりと呟かれた声に慌てて体勢を立て直した虎若の動作で、湯が騒がしく音を立てる。ばしゃりと湯が溢れるもったいなさなど気にも留めない様子で焦った虎若が、片足を湯船の外に出している不自由さをものともせずに声を投げた。
「そっ、それだけですか!?」
「ほかに何かあるか?」
 素面で返された言葉に、それだけかと落胆する。それを雰囲気だけで察し、三郎次は微かに肩を揺らして笑って見せた。
「……驚いただけで、嫌だったわけじゃないとさ。お前とぎこちなくなるのも、まして離れるのもごめんらしい。お前みたいなのの何がそんなにいいんだか。……きり丸や団蔵も今じゃ可愛い後輩だが、俺にとって伊助はちょっと別格だ。泣かせるようなら掻っ攫うから肝に銘じとけ」
 濡れた手拭を肩に掛け、振り返りもしない三郎次に小さく息を呑む。意地でも離しませんと小さく落ちた虎若の言葉に満足したのか、あえてわざとらしい舌打ちを響かせ、先達は扉に手を掛けた。
「汗流して包帯の取り替えも終わったら、月見亭にでも行ってみろ。誰かいるかもしれないぞ」
 ひらりと手を翻して扉の向こうに消えた背中を見送り、やはり素直に物が言えない性格らしいと小さく笑う。助言を与えないと言っておきながら十二分に与えられた励ましに、久し振りにデレられたなと大きく息を吐いて天井を見上げた。
 思い起こすまでもなく先程まで目の前にあった背中が湯立ちそうなほど赤かったことを考え、せめてもの感謝に湯当たりがマシになるまでの時間くらいは存分に汗を流させてもらおうかと頭を掻いた。



−−−続.