医務室で診てもらった足は、結局ごく軽度の骨折ということだった。幸い骨が折れたわけではなく恐らくひびが入っただけだと診断が下されたものの、自分にとっては過剰にも思えるほどしっかりと固定された右足が憂鬱さを加速させる。
 手当ての最中にとつとつと語りかけられる擁護教員の厳重注意の言葉にも耳を傾けられるほどの余裕もなく、頭の中を巡るのは突き飛ばされる直前の、怯えたようにも見えた伊助の表情だけだった。
 思えば自分の情欲ばかりに流されて、その後のことなど考えてもいなかった浅慮さに胸の奥が重くなるような錯覚に襲われる。
 渡された杖に頼らざるを得ない現状と同じく、誰かに先刻の失態を泣きついてしまいたかった。
「なんであんな事しちゃったかなぁ……。伊助が驚くのなんて当たり前なのになぁ……」
 重いため息とともに吐き出し、かといって現在は相談する同室者すらない現状に頭を抱えた。
「だってしたくなったもんは仕方ないよなー! なんかドキドキしたんだって、ビックリしたんだって! 可愛く見えたんだもんよどうしようもねぇってよー!」
 思うさま大声で叫び、のた打ち回って渦巻く感情を発散させる。床板が軋もうが掃除したばかりの部屋に埃が立とうが気にも留めない様子で転がり続ける虎若に、がらりと開いた木戸から呆れた声が投げられた。
「……なにしてんの虎ちゃん」
「あ。……お帰り団ちゃん」
「ただいま。で、なにしてんの? ものっすごい声響いてたぞお前。しかもこのちょっとの時間で怪我までしてるし、どうした?」
 風呂敷包みを肩にかけた団蔵が木戸を閉め、腰を落ち着けながら訝しげに眉間を寄せる。その二度目の問いかけに、ようやく相談相手が現れたことに対する感動で虎若の表情が輝いた。
 まるで尊敬する火縄銃使いを見るような輝いた目に、思わず団蔵の腰が引く。
「……なに、マジでどうした」
「団ちゃあぁあああああん!!」
「うおぉおおおおお!?」
 飛びついてくる体を避けることも出来ず、自分よりも大きなそれを受け止めて派手に頭をぶつける。一瞬目の前に星でも散ったかのような点滅感を覚えながらも、未だ感動した様子で擦り寄ってくる虎若に力なく口を開いた。
「ごめん虎。気持ちは嬉しいけどワタシ、あなたとは付き合えないワ。だってガッツリ筋肉ナンダモノ」
「俺だってお前相手は無理だよ悪いけど! つか、そんな冗談はいいんだって!! 相談乗ってくれ団蔵! 俺、伊助に嫌われたかもしんない!!」
「……はい?」
 切羽詰った表情で詰め寄る虎若に、団蔵は理解の及ばない様子で首を捻る。しかし今にも自決を決意しそうな雰囲気に気圧され、とりあえず話を聞いてやるかと頭を掻いた。


   ■   □   ■


 時間は少し巻き戻り、虎若が医務室で手当てを受けていた頃に遡る。
 思いがけない事態に気が動転したまま、伊助は身の置き場もなく焔硝蔵の影で蹲っていた。
 頬の熱さが引かず、上がった呼吸が落ち着かない。細かく息切れしたそれは自分の中の動揺をより確実なものに決定付け、先ほど自分に訪れた出来事をまざまざと脳裏に蘇らせてはさらに頬の温度を上昇させた。
 今現在の自分の顔色など想像するほどの余裕もなく、ただ整理のつかない思考を繰り返す。
 浮かぶ言葉といえば、どうしようという一言ばかりだった。
 記憶は絵巻を巻き戻すように遡り、とある場所に差し掛かると当たり前のように一連の場面を見せつける。自分のほうこそ足を痛めているにもかかわらずこの目を気遣って前髪を払ってくれた無骨な手が幸せで思わず笑いかけたところで、なぜか震えた声が自分を呼んだ。
 いつもとは多少違うその声音に不可解さは感じたものの、目を開いたところで目に入ったのは静かに、半分ほど伏せられた目元だった。
 見慣れたはずのそれに、心臓が跳ねたことを思い出す。
 けれどその時は、それを自覚する間もなく柔らかく暖かなものが唇に触れていた。
 気が狂うかと思うほどの思考の奔流に、気がつけば虎若を突き飛ばし、ここまで逃げてきた現状を再度認識する。
「どうしよう、ホントにどうしよう。だって私、僕、なんであんなこと……!」
 呟けども考えの纏まらない状況に涙さえ浮かぶ。もしや自分は本当に馬鹿になってしまったのかもしれないと半ば本気で考え、誰に縋るわけにもいかずその場で身を縮めた。
 その耳に、ゆっくりと閉まる重い扉の音が響く。
 砂利を踏みしめる音が数歩分近付き、ちょうど自分が見える場所で停止した。
「……そこにいるの、伊助か?」
 名を呼ぶ声に、ひくりと肩を震わせる。二年前でここを拠点とした委員会で世話になって以降互いの委員会が離れてからも何くれとなく世話を焼いてくれる、自分が一番よく知っていた頃から考えれば随分と低く声変わりした掠れ声に顔を上げた。
「三郎次、先輩」
「火薬の使用申請で土井先生に会いに来たなら、今は無理だぞ。確か外出中で……って、……なんだよ。お前泣いてんのか?」
 影になっているにも拘らず雰囲気だけで察したらしい三郎次の言葉に、伊助の顔が情けなく歪んだ。
「……ふ、ぇ。先輩ー!!」
「ちょ、はぁ!?」
 勢いよく抱きついてきた伊助を抱き止めることも出来ず、面食らって目を泳がせる。胸にしがみつくようにしてぐしゃぐしゃの顔を埋めている後輩に狼狽しつつ、辺りを気にした三郎次が緊張で震えた唇を開いた。
「お、お前な! これじゃ俺が泣かせたみたいだろ!? とりあえず泣きやめよ!」
「違うんです、私今、頭の中ぐっちゃぐちゃで、分けわかんなくって……! 庄ちゃんもいないし、乱太郎は虎の手当てだし、しかも僕、虎若が怪我してるの知ってたのに突き飛ばしちゃったし……!!」
「アホ、とりあえず落ち着け。一人称、去年までのに戻ってんぞ。上級生ぶれるように、私にするっつって他のはどこのどいつだよ」
 べしりと小気味のいい音を立てて額を叩かれ、伊助の目が涙に濡れたまま数度瞬く。その目に見つめられることに耐え切れなかったのかついと視線を逸らした三郎次が、わざと無愛想に眉間を寄せてみせた。
「話くらい聞いてやるから、なにがあったかゆっくり話せ。別に焦って答える必要もないし、学園じゃ話し辛いんだったら町にでも出て、団子でも食いながら聞いてやる。どうせ左近も久作も外に出てて、一人で暇してたところだ。少しくらいは付き合ってやる」
 素っ気なく言い放たれる言葉の影で、休日の内に在庫火薬の把握をしていたらしい帳簿を隠したのを見て取った伊助の眉尻が下がった。
「ふふっ」
「……なんだよ。泣いたり笑ったり忙しい奴だな」
「すみません。でも今日の先輩は優しいから」
「…………昔みたいに気持ち悪いとか言うなよ。あれ、部屋に帰ってよく考えてから、結構ショック受けたんだからな」
「言いませんよ。それにあの時のは、ちゃんと次の日に謝ったじゃないですか」
「じゃあなんだよ」
 今度は本当に機嫌を損ねた様子で眉間を寄せた一学年違いの先輩をほんの少しだけ申し訳なさそうに見上げ、照れたように頬を掻いた。
「三郎次先輩って普段はこっちが笑えない冗談ばっかり仕掛けてくるのに、こういう時は本当に優しいから嬉しいんです。ありがとうございます」
 照れ笑いのまま例を述べる伊助に、またしても三郎次の顔が彼方を向く。やっぱりお前はアホのは組だと呟いた言葉にほんの僅か眉間を寄せて唇を尖らせるも、直後に続けられた音に目を丸くした。
「先輩が後輩を心配するのは当たり前だ。このアホ」
 微かに朱に染まった頬に目を留め、相変わらず素直な言葉を口にしない困った癖にくしゃりと笑ってみせる。けれど当の本人はそれにさえも無視を決め込み、目の前にある頭を乱暴に撫でた。
 それにくすぐったげに笑い、濡れたままだった目元を拭った伊助が一歩離れる。
「じゃあ話を聞いて頂けるお礼に、この前しんべヱに教えてもらったお茶屋さんでお団子をご馳走します。着替えてから、門の前で待ち合わせってことでいいですか?」
「あぁ。しんべヱの推薦なら期待出来そうだな」
「はい! じゃあ先輩、またあとで」
 ぺこりと頭を下げてから長屋へ走っていく背中を見送って、三郎次が小さくガッツポーズをとる。しかしその手に火薬の在庫表を握り締めたままだったことに気付き、慌てた様子で長屋へと駆けた。
 そこから、およそ半刻。
 すっかり着替えも終えた二人の姿は既に茶屋にあり、並んで腰を下ろすその中央には高く積まれた団子がある。その味はといえば確かに学園一の味覚と嗅覚を誇る食いしん坊推薦の品だけあって、素朴ながらも美味で文句のつけようもないことは確かだった。
 だがしかし、それを黙々と食しながらも三郎次の表情は不愉快そうに顰められていた。
「まぁつまり端的に言うと、虎若のアホがやらかしたってことだよな」
 面白くもなさそうに吐き捨てられた言葉に、なにもそんな言い方をしなくてもと苦笑が返る。けれど不機嫌を隠す気など毛頭ないとでも言いたそうに鼻を鳴らした三郎次に、伊助が申し訳なさそうに肩身を狭めた。
「……すみません、こんな相談持ちかけてしまって。先輩には若色の気はないのに」
「いや、別にそんなことで不機嫌なわけじゃ……って、は?」
「え、だって先輩、そういう噂聞かないですし。……違いました?」
「…………いや、懇ろな相手がいないっていう意味なら正解だが、それについては答え辛い……。……とにかくそのテの話についての体制はあるんだから気にすんな。伊達で左近と久作と同室じゃないんだから」
「あ、そっか。そうですよね。お二人から相談されたりしますよね」
 へらりと笑ってみせる伊助の言葉に隠れて頭を抱え、この時代に心に決めた女がいない限りそういう趣味のない人間がどれほど少ないか分かっていないのかと口の中で愚痴をこぼす。だがそんな些細なことで話を頓挫させていては一向に話が進まないと小さく溜息を吐き、三郎次は持っていた団子串を皿へと戻した。
「で? いきなりなんの前触れもなくンな事されたもんだから、頭の中がこんがらがってるって? 結果、どうすりゃいいか分からないと」
「はい。……恥ずかしくって、ちょっとだけ怖くって、でもだからって怪我をしてる虎若を突き飛ばしたりした自分が信じられなくて」
 悲しげに眉間を寄せて目を伏せる伊助を横目に見、三郎次が微かに唇を噛む。腹の内に渦を巻くこの言い知れない重たさを吐き出せれば自分の身と精神は軽くなるだろうことを予測出来ても、その後を軽く見通せる洞察力のために口に出さずに飲み込んだ。
 代わり、また一度大きく息を吐く。
「困った奴だな、お前も」
「ははっ、ですよね。突き飛ばしたのは、さすがに」
「アホ。違うっつってんだ」
「ア、アホアホって何度も言わないでください! 私が黙ってると思ったらすぐそうやって……!」
「いいから聞いとけ」
 先程の涙を止めたときと同じように、またべしりと額を叩く。決して鋭くはないものの鈍い痛みに頬を膨らませる伊助の恨みがましい目を無視し、三郎次は小さく舌打って眉間を寄せた。
「恥ずかしくって怖くって、ンで頭が混乱した。それはな、嫌だと思ったんじゃなくて、驚いただけだ」
 苦々しく吐き出された言葉に、伊助の首が傾ぐ。驚いただけですかと復唱された言葉に、そうだと小さく肯定を返した。
「暗がりを歩いてる時、友達に後ろから脅かされるのと一緒だ。あれだってちょっと怖くて、頭が混乱して、しかも脅かされた自分が恥ずかしくてさらに頭が混乱する。似たようなもんだ。それがお前の場合、脅かしてきた相手が考えなしのアホな上に怪我してたってだけ。……そんだけだ。別に悩むようなことじゃない。あっちに謝らせるくらいがちょうどいいんだから気にすんな」
「でも、もしあの時に足を捻ってたりしたら」
「虎若の自業自得だ。それとも咄嗟にビビッて仕出かしたことを悔いて、しばらく距離を置くとでも言ってみるか? そうなりゃ程なくぎこちなくなって、自然に今の関係は壊れるだろうよ。もしお前がそれを望むんだったらな」
「っ、嫌です! そんなの絶対嫌です!!」
 冷たく言い放たれた言葉に、がたりと音を立てて伊助が立ち上がる。自分を見下ろしながら泣きそうに眉間を寄せたその顔に、三郎次は困ったように苦笑を見せた。
 微かに震える手を取り、いつもの冗談だと言って自嘲気味に笑う。
「今のはナシだ、聞き流せ。冗談にしたって性質が悪かったよ。……お前があいつを好きなら、そんな事にはならないから安心しとけ。泣きそうな顔なんて見せんな。ホント、今のは俺が悪かった」
 ごめんなと笑って手を引く力に従い、大人しく元の位置に腰を下ろす。今までで一番酷い冗談ですと鼻を啜った伊助に、三郎次は苦い表情で頭を撫でた。
「詫びに、今日少し虎若の話も聞いといてやるよ。でも俺はあいつから聞いた話をお前には伝えない。お互いにちょっと頭の中整理したら、そっからはお前ら二人で話し合え。いいな?」
「……はいっ!」
 泣き笑いに歪んだ伊助の表情に、この役目に甘んじるのも仕方ないかと隠れて肩を竦める。話の流れ上自分から言い出したこととはいえ水面下の恋敵と差し向かいで会話をしなければならなくなった事態に、まあそれも仕方ないかと諦め、三郎次は残りの団子を口の中に放り込んだ。



−−−続.