――― 藍に染む





 不意に襲ってくる自覚ほど心臓に悪いものはない。それが虎若の場合、自覚していると思い込んでいた上での再認識ともなれば尚更のものだった。
 週に一度の強制洗濯日。この日は雲一つなく晴れ渡り、抜けるような青が頭上を埋めた。
 太陽が昇りきる前にと叩き起こされた休日の朝、情けない顔で情けない声を上げながら井戸端で手を動かし続ける虎若と団蔵の姿を級友達は笑って通り過ぎ、それに恨みがましい視線を送りながらも自業自得に項垂れたのが明四ツ刻になろうかという時間だった。  洗い上げた布地は水を吸って一層に重く、日常的な鍛錬のためにただでさえ着替えを多く必要とする二人の洗濯量では大きな桶が三つあってもまだ足りない。それに毎度のことながら呆れ返ったように眉間を寄せて溜息を吐きながらも、現場監督さながらに監視しながら手伝っていた伊助はようやくといった様相で困ったような笑みを見せた。
「はい、お疲れ! あとは干すだけだから、もうひと頑張りやっちゃうぞー」
「はぁーい……」
 声を揃えて返す疲れきった二人を気にもせず、染料の抜けきらない藍色の指先が次々と物干し竿に衣類を掛けていく。その指が伸ばされる先には制服だけに留まらず、外出用の私服や大量の手拭、無論下着の類などの他に敷布までもが含まれており、とてもではないが一日に、むしろ一刻に洗う量とは思えなかった。
 それをやってのけたのも、全てはこの綺麗好きな母親役のなせる技かといっそ感嘆の声が漏れる。
 ぱんと乾いた音を立て、洗いたての衣服が開かれる。次々と干されていく洗濯物を見遣り、虎若と団蔵は顔を見合せて笑ったあと、引き継ぐようにその手から衣服を奪った。
「母ちゃんお疲れ」
「あとは俺達、自分でやるからさ。母ちゃんは部屋で休んだらいいよ。せっかく休みなのに、疲れるのももったいないだろ?」
 はにかんだように笑う二人に、伊助の目が大きく瞬く。そうしている間にもせっせと自分達の洗濯物を干す姿に、どうやら多少の罪悪感を感じているらしいと気取り含むように笑った。
「干すのも大変だけど、二人で大丈夫?」
「当然!」
「手足の筋トレと思えばどうってことない!」
「それならいいけど」
 力強く断言する二人に伊助はまた笑い、けれど最後にこれだけと呟いて敷布を手に取る。
 学園から配布されるものだけあって、下級生から上級生までその大きさは統一されている。上級生でさえそれを干すのは些かの苦労を要するが、下級生ともなればそれはさらに難易度を上げた。
 両手を大きく広げ、爪先立ちで竿に敷布の端を掛ける。
「伊助、危ないって!」
「へ? わっ!」
 虎若の声に驚き、さらに風に煽られた敷布に襲われ、後ろに倒れそうに体が揺らぐ。ばさりと敷布が翻る音とぐらりと回る空に思わず目を瞑るも、いつまで経っても訪れない冷たく硬い地面の感触の代わりに背中に温かな物が当たった。
 恐る恐る瞼を上げると、伊助は斜めに傾いだまま支えられた体を自覚する。
「……あ、れ?」
 きょろりと視線を廻らせれば、両肩に添えられた武骨な手に気付く。火縄銃の練習の際に出来た右手人差し指にあるタコは否が応にもその人物を特定し、伊助は後ろを見返ってくしゃりと笑んだ。
「虎」
「敷布は大きいんだから、一人でなんて無理だろ。ちゃんと俺達に言えって。手伝うから」
「悪い。二人が気遣ってくれたのが嬉しかったから、ちょっと張りきっちゃったんだ」
 バツが悪く笑う声に、慌てて手を伸ばしたらしい団蔵も肩を落として安堵の息を吐く。けれど虎若はその顔を見たまま唇を一文字に結んで緊張気味に顎を引き、支えた手を放すことも出来ずに固まっていた。
 その様子に首を傾いだ伊助が、腕の中から抜け出し正面から顔を覗き込む。
「虎若? どしたの?」
 心底不思議そうに問う声に、うろたえた様子で目を泳がせる。
「え、や、なんでもないっ! それよりホラ、後はもういいから! 伊助は部屋でゆっくりしてろよ!」
「そう? でもホントに大丈夫?」
「大丈夫っ!! 団蔵とやりゃあすぐだよ、すぐ!」
「……うん、じゃあ甘えるけど。手伝う事があったらすぐ言えよ?」
 些か不審そうに背を見せる伊助に、虎若がぎこちない笑みで手を振る。やがてその背中が長屋の縁側に上がり部屋に入るのを見届けると、それまで黙って見守っていた団蔵が不意に口笛を吹いた。
 その音に必要以上に肩をびくつかせ、錆びた音でもしそうな動作で振りかえる。
「な……なんだよ団蔵……」
「別にぃ? 虎若がなんでもないってんだからそうなんだろ? 早くやっちゃおうぜ、それこそ休みがなくなっちまう」
 にぃと意地悪に唇を歪めたまま肩を竦めて洗濯物に手を掛ける団蔵に、気まずげに虎若も従う。
 空はあくまでも晴れ渡り、太陽はじりじりと肌を焼くように照りつける。竿にはためく布地は風に揺れながら洗濯直後特有の湿ったにおいを鼻孔に運び、場に落ちてしまった妙な沈黙を意識させた。
 やがてはぁと溜息が漏れ落ち、虎若が遠慮気に唇を開く。
「……な、団蔵」
「んー?」
「伊助、雰囲気変わった?」
「雰囲気?」
 手拭いを干していた手を止め、眉間を寄せて考え込む。
「俺は思ったこともないけどな。いつも通りは組の母ちゃんって感じだろ? 掃除洗濯しないって怒られるのもいつものことだし」
「あー、いやそうじゃなくってさ……。なんていうかなぁ、その。……小さくなったっつーか、細くなった気がするっつーか……」
「……それお前がデカくなっただけじゃないか?」
「いやぁ、それもあるんだろうけどさ、そうじゃなくって。声とかも、ホラ。柔らかくなったというか、なんて言うか、ほら!」
「ほらって言われてもなぁ」
 また一つ洗濯物を干し、団蔵が唇を尖らせる。その様子にまどろっこしさを感じながらも虎若も倣って竿に布地を掛けた。ぐるぐると釈然としない感覚が渦巻く思考の中で、先程の伊助の姿が思い起こされる。
 敷布と風に煽られ、倒れかけた体は自分が考えていたよりも頼りなげに小さく見えた。咄嗟に支えた肩は痩せて細く、日々鍛えている自分や団蔵の物とは随分と違って驚いたことすら回想する。そしてその回想が声音にまで差し掛かると、虎若の顔色が次第に赤く染まった。
 虎と呼ばれたその声が、むずがゆさを覚えるほどに柔らかだったことに酷くいたたまれなさを感じて洗濯物に顔を埋める。
「ちょ、うぉお!? なにしてんだ虎若!」
「なんでもない! 気にしてくれるな!」
「いやいや気になるだろ! なにその挙動不審!!」
「忍法見て見ぬフリ! さんはい!!」
「残念、俺まだそれ習得してない! で、なんなんだよお前は」
 出来る限りのツッコミを駆使し、ようやく洗濯物から顔を放した虎若の額をべしりと叩く。その鈍い痛みに渋い顔で眉間を寄せると、未だ赤みの引かない頬を腕で隠した。
「……本当、なんでもないんだよ。ちょっと伊助の感じが変わってる気がして、ビックリしただけだ」
「ふぅん?」
 探るような団蔵の視線から目を逸らし、唇を噛んで洗濯物を干し続ける。照れ隠しなのか先程よりも速度を上げたその動きに、団蔵はまたしてもふぅんと呟いてみせた。
「なんか、この前からの喜三太みたいだな」
「……なにそれ」
 思いもかけない名前に、ちらりと虎若の目が泳ぐ。その反応に興味ありと見て、団蔵は洗濯桶に手を伸ばし、手拭いを竿に掛けながら口を開いた。
「あいつ、ちょっと前から様子がおかしいだろ? 今になって金吾のことが好きなんだって自覚したんだってさ。金吾の顔を見ると恥ずかしくって、声聞くのも恥ずかしくって、どうしようもないから逃げちまうって相談された。でもさ、金吾はそんなの知らないだろ? あっちはあっちで、喜三太に嫌われたかもしれないっつって泣きそうな顔で庄左ヱ門に相談にいったんだってさ。俺と庄左ヱ門は、お互いの相談内容を話し合って思わず笑ったんだけど。でもお前が喜三太とおんなじような反応してんのが、なんだか意外だよ」
「……なんで?」
「お前が伊助のこと好きなのなんて、一年の時からだろ? なのに今更自覚した喜三太と同じようなことしてりゃ、そりゃあ変だなぁって思うよ」
 理解できない様子で肩を竦める団蔵に、それもそうかと苦笑が頬を引き攣らせる。それでも尚うまく言葉が浮かぶわけでもなく虎若は困ったように眉間を寄せて笑って見せた。
「忘れてくれ。こんなこともあるってことで」
「そりゃ、お前がいいならいいけどさ」
 歯切れの悪い言葉を残し、その後は黙々とただ洗濯物を竿に干す作業に没頭する。忘れてくれと言われたからか、それから先はどんなに挙動が不審でも見て見ぬ振りを通した団蔵に胸中で感謝の言葉を呟いた。
 ぐるぐると、さっきほど言われた言葉が虎若の頭を巡り続ける。
「そうだよ、元々好きなのは分かってたじゃないか。それこそ自覚のなかった喜三太じゃあるまいし、今更ドキドキするなんておかしいだろ自分。あぁいや違うな、ドキドキして当たり前なんだから今になって頭ん中こんがらがってるのがおかしいんだ、そうだそっちが正解だ。でもなぁ違うんだよなー、なんか違うんだよなー。なんつか、こう……」
 些か大きめの独り言を止めどなく呟き続ける虎若に呆れた視線を寄越し、団蔵が最後の洗濯物を大きく鳴らす。その音にはたと正気を取り戻すと、クラスで二番目の筋肉自慢は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「悪い、口に出てたか」
「聞いてないから安心しとけ。それより、頭の中がぐちゃぐちゃなんだったら鍛錬でもしてスッキリしてこいよ。洗濯はもう終わったし、俺もちょっと町に出てくる予定だからさ」
「……うん、そうだな。そうする」
 気遣いにありがたく笑みを見せ、肩を回しながら長屋に戻っていく背中を見送る。確かに鍛錬している間は頭の中が真っ白になり、考えを纏めるいい環境かもしれないと奮起した。
 そうと決まれば後は早いと、長屋の縁側下に保管してある鍛錬用の鉛玉や縄の括りつけられた土俵を取り出す。それらを腰に縄を結びつけて、あるいは両手に持って歩き出した。
 引き摺られた土俵が、ずずと重い音を立てて虎若の後ろをついて回る。両手に持たれた鉛玉も本来は石火矢用の砲弾だが、肩の高さから上に上げ下げされるためだけに大人しく収まっていた。
 照りつける陽射しの中、一気に噴出す汗にもかまわず思考を走らせる。
「好きなのはそうだ、元々だ。俺は伊助の優しいとことか、ちょっとおせっかいなところとかが大好きで、ちゃんとそういうのも伊助に言ってある。手ぇ繋いでるのが嬉しかったり、二人で買い物に行くのは楽しい。でもさっきのはそういうんじゃなくて、俺より細いな、軽そうだなって思った途端に普段より伊助がキラキラして見えて、そんで」
 既に二十間ほど進んだ辺りで、ふと足が止まる。
「……そうだ。俺、あのまま抱き締めて口を吸いたいって、思ったんだ」
 愕然とした様子で呟き、思わず脱力した腕から鉛玉が転がり落ちる。それにすら気付かず、予想もしていなかった自身の欲求に自失したように立ち尽くした。
 しかしそれも長くはもたず、次の瞬間には足の骨が砕けたかと思うほどの衝撃に引き攣った声が漏れる。
 零れ落ちた鉛玉がそのまま虎若の足の上に落ち、目の前に星が飛んだような錯覚にも見舞われた。
「ぁいってぇええええええ!!」
 長屋に叫びが響き、虎若がしゃがみこむ間に騒がしく木戸が開く音がする。どうしたのと慌てた声が二つ聞こえ、それが乱太郎と伊助だと無意識に理解した。
 団蔵が出てこなかったところを考えればもう行ってしまったか、それともこの展開を予想していたかのどちらかだと冷や汗ながらに苦笑する。
「ちょっと、どうしたの虎若!」
「鉛玉!? まさかこれを足に落としたの!?」
 血相を変えて駆け寄った乱太郎と伊助に誤魔化すように笑い、痛む足を投げ出して地面に腰を下ろす。いい判断だよと早口に褒めた乱太郎が素早く忍び足袋を脱がせると、二人の眉間が引き攣ったように寄せられた。
 腫れ上がった足の甲が、痛々しい赤に染まっていた。
「伊助、少し虎若を頼める? 新野先生を呼んでくるから」
「分かった」
 真剣な面持ちの乱太郎の言葉を快諾し、駆けていくその背中を見送る間もなく伊助が虎若の肩に触れる。
「虎、少し待ってて。井戸で手拭を濡らしてくる」
「悪い」
「いいから、動くなよ」
 やはり母親のように言い置くと、僅かに離れているだけの井戸に駆ける。先ほどまで使っていただけあって冷えた水が出るのか、数度漕いだ水を桶に受け、乱暴に手拭を放り込んで伊助が戻った。
 ほぼ絞りもしないまま、腫れた場所に濡れ手拭をそろりと宛がう。
「ってぇ。水が沁みるー」
「熱を取ったほうがいいだろうから我慢して。それより鍛錬中に考え事でもしてた? 虎若がこんな不注意するなんて」
「いや、まぁちょっとな。今物凄く反省してるから勘弁して」
 視線を合わせようとしない虎若を気にもせず、ただただ心配そうに腫れた箇所を見つめる伊助にちらりと視線を流す。僅かに顰められた眉間と伏せられた目蓋が今まで認識していたそれよりも酷く華奢に見せ、虎若の鼓動をよりいっそう早めた。
「折れた音はしてなかったから、大丈夫だよ。悪くて打撲だ」
「本当? 折れてないって断言できる?」
 思わず見惚れながら気休めに呟いた一言で、不安げに見上げてくる視線がぶつかる。心底動揺しているらしいその表情に緊張すると同時に、はらりと落ちていた前髪が目に入りそうなことに気付き、遠慮げに手を伸ばす。
「伊助、目に入っちゃうぞ」
「え? あ、あぁ、ありがと……」
 そろりと払い除けてやれば、恥らったような笑みが返る。
 指先に触れた頬の柔らかさと、目の前で咲く笑顔に、どくりと大きく心臓が脈打つ気がした。
「……伊助」
「うん? なに、虎」
 呼びかければ、柔らかに笑んで小首を傾ぐ。普段と変わらないはずの柔和なそれに引き寄せられるように、虎若は唇を寄せた。
 柔らかな感触が触れ、ちゅうと啄ばむように吸い付き、ゆっくりと離れる。一連の動作の最中、伊助は一寸も動くことができないまま目を見開いていた。
 それを見つめ、僅かに戦慄いた唇が開く。
「どうしよ。俺、もっとこういうこと、お前にしたい」
 囁いた言葉が恐らく伊助の脳に理解をもたらした後。
 唐突に虎若の体は突き飛ばされ、伊助は背を向けて駆け出していた。
「っ、伊助!」
 脇目も振らず駆けていく背中へ手を伸ばし、自分の仕出かしてしまったことに気付いて青褪める。けれど後悔の念も謝罪の言葉も音になることはなく、ただ行ってしまった背中を見送って虎若は恐ろしいほどの後悔に襲われた。
 間もなく養護教員を伴ってやってきた乱太郎に、乗せられたままだった濡れ手拭ごと足を固定されるだけで重い溜息が漏れる。その後、そういえばと不思議そうに伊助の所在を聞かれたものの、虎若は曖昧に笑って誤魔化すことしか出来なかった。



−−−続.