序
序
叩きつける雨の中で、ふらりと傾いだ体が疲れきった様子で土壁にもたれかかる。微かに震えている唇から漏れ落ちる吐息は酷く熱を持ち、夜の寒々しさと相まって闇の中でも白く濁って見えた。
せめて倒れまいと壁に突きたてられた指先はそれでも震えを訴え、呼吸と共に上下する肩も治まる気配は見られない。降り続ける雨も止む様子はなく、濡れそぼった体から確実に体温が奪われていることを知って、喜三太は最後の数歩を踏み出した。
砂地とは言っても濡れた足元は草鞋を思いのほか滑らせ、元より体力を奪われた現状では思うように進むことが出来ない。それでもどうにかして古木で出来た階段を這い上がり、力ない手で木戸を押し開ける。
半ば倒れ込むようにして転がり込んだ場所は、尾張は愛智郡、その中でも恐らくは一番の賑わいを見せているだろう大きな町に程近い辻堂だった。
埃まみれの堂内を気にすることなく身を転がし、一度胸いっぱいにかび臭い空気を吸い込む。鼓膜を揺らす雨音はいっそう激しさを増して屋根を叩き、喜三太は熱い額に手を宛がって目を閉じ、不快さに眉間を寄せた。
金吾が目の前で攫われてから、およそ一日半が経った暮九ツのことだった。
目を閉じているにもかかわらず世界が回るような感覚に、重い目蓋を開く。蝋燭の灯も点っていない堂内は真闇に近く、目蓋を閉じていようと開いていようと代わり映えのしない視界に溜息を吐いた。
聴覚は雨音に奪われ、視覚は闇の中になにも捕らえない。
昨晩も二刻ほど世話になったはずのこの辻堂の内部を思い出せもしない自分の記憶力に自嘲し、ろくに見えない天井を見上げる。墨滴の視界を漂う内にまた自然と目蓋が降りた。
体内の熱を吐き出し、ぐったりと腕を落とす。
「……油断、してたんだろうなぁ。僕と別れてすぐだったから」
ろくに食事も摂らず走り回ったためか、なんとなく曲げようとした指先にも力が入らない。苦笑を浮かべることも出来ない現状に、喜三太はどこか仕方なさそうに現在までの経過を反芻した。
もはや長期休暇の恒例となった、金吾と二人連れ立っての相模への帰郷。それは第五学年となり、そしてもうすぐ新年を迎えようかという冬休みも変わらない。
成長し、体力もつき、故郷への帰路に昔ほど日数をかけなくて済むようになった分、昨年から一番短い秋休み以外は出来るだけ相模へ帰ることになっていた。
そしていつものように東海道を東へと進み、尾張に着いたのが昨日の昼前のこと。
今回に限っては学園を発つ前から、金吾からここで別れることになると告げられていた。
なんでも剣術師範である戸部から待ち合わせを取り付けられているらしく、師を尊敬してやまない金吾がそれを無碍にするわけもない。喜三太としても都合があるのならば無理に同行は望むことはなく、互いにこの流れを承諾し合っていた。
勿論そう言ったところで、別れ際ともなればなぜか名残惜しくなるのも事実。
本来ならば尾張に着くと同時に別れているはずが二人はおよそ一刻かけて町を見て回り、芝居小屋の周りを冷やかし、他愛ない土産物屋を見て回り、もしくは茶屋で団子を食べたりしてそれとなく時間を潰した。
それでも日が中天に差し掛かり、影がほぼ真下になる頃。ようやくになって喜三太から別れの手を振った。
残念そうに眉尻を下げた金吾の顔を思い出し、今は埃まみれの辻堂で寝転んだままの喜三太がふふと肩を揺らし、薄く目を開く。
そろそろ行くねと切り出したのは、賑わいのある通りに面した、茶屋の前だった。
もう十四にもなるというのに情けない顔を見せた金吾に困った顔で笑ったことを思い出す。新学期にはまた一緒に学園へ戻る約束を取り付けて手を振った自分に、リリーさんや与四郎さんによろしくと寂しそうに笑って見せた顔が、喜三太が見た最後の表情だった。
金吾へ背を向け、数歩行った辺りから背後にざわめきが広がったことは気付いていた。だがその騒がしさに興味は惹かれたものの、やはり別れの心細さが勝っていたのか、その時の喜三太は野次馬に混ざる気にはなれなかった。
次第に周囲を埋めていく人々の密度に歩き辛さを感じながら、少々気分を害しつつも足を進める。人が倒れたらしいという断片な情報にも、耳だけが反応し、体はなかなか立ち止まろうとはしない。けれど最終的にはそのあまりの人の多さとざわめきに気を惹かれ、振り向いた。
信じられないものを見た瞬間というのは、ここまでまざまざと脳裏に焼きついて離れないものだろうかと闇を睨み、眉間を寄せる。
たくさんの頭の向こうに微かに見えたその中心。それは、見知らぬ男の肩に担ぎ上げられた金吾の姿だった。
ぐったりと目を閉じ、身じろぎの一つもない。
呆然となった頭はその途端、周囲の全ての音と金吾、そして彼を担ぎ上げている男以外を視界と聴覚から排除した。
「金吾!」
人目も憚らず声を上げ、傍近く駆け寄ろうと必死に藻掻く。しかし人ごみに敢えて逆行して進んだ距離はその程度ではどうにもならないほどに遠く、喘ぐように叫ぶ自分を奇異の目で見る人々が道を開けるはずもなかった。
それでもせめて声が届いて目を覚ますことが出来ればと、声を限りに叫ぶ。
「金吾、金吾!! 起きろよ金吾!!」
ざわめきの中、気を失っている金吾にその声は届かない。
代わり、その体を担ぐ男に声が届く。人ごみの中で喘ぐように声を上げながら近付こうと足掻き続ける喜三太に気付いたらしい男は、酷く底意地の悪い顔をして身を翻した。
頬や額に傷のある、見るからに静かな暮らしとは縁遠い男だった。きつい眼光と痛みきったぼさぼさの髪がやけに印象に残る、粗暴さが形を成して歩いているような姿。それが金吾を担いだまま背を向ける。
しかも野次馬の波をどう切り抜けているのか、その背中は見る間に小さくなった。どうにか追い縋ろうと手を伸ばすも、届くわけもなく人ごみの中で見失う。
話題性と注目の対象を欠いた民衆は、次第に散り散りとなって普段の日常へと戻る。その中でただ一人非現実の中に取り残された喜三太は、金吾の消えた方向を向いたまま呆然と立ち尽くしていた。
はたと我に返り、どうにか情報の片鱗を掴もうと周囲の人々を見回し、自分よりも野次馬の中心近くにいた老人を見つけ、声を掛ける。
「あの、すみません! さっきの子、どこに連れて行かれたか分かりませんか!?」
必死の形相で声を掛けた喜三太に多少気圧されたのか、戸惑った様子で目を白黒させる老人の表情に己の失態を自覚する。自分の姿は見るからに旅人で、見知らぬ人間にいきなり語気も荒く問い詰められて動転しない人間はいない。
思い直し、静かに呼吸を整えてもう一度縋る目で問いかける。
「担がれて行った子の友達なんです。畿内から一緒にここまで来て、ついさっき別れた途端に倒れたみたいだったから心配で。もしご存知なら教えてください」
話す間も、心臓が掴まれるような錯覚で荒い呼吸が漏れる。不安に揺れる視界で見た老人はこの説明で理解してくれたのか、そうかと笑って頷いた。
「あの子の友達かい。なるほど、そいつは心配だろうなぁ。その子なら知り合いだという男が医者へ見せると言って担いで行ったよ。ここいらに医者なんて数えるほどしかないが、まぁ恐らく一番近いところだろう。二筋目を右に曲がって、四つほど細い道を越えた所だ。顔を見に行ってやれば、きっとお互い安心するさ」
にっこりと笑った老人に、ありがとうございますと礼を言って頭を下げる。気を付けてお行きと手を振る老人を頭を下げて見送り、姿が見えなくなったところで一気に駆けた。
尾張に知り合いがいるなどという話は聞いたこともないが、万が一の希望に縋り、それが事実であることを祈る。
老人の言葉通り、二筋目を右に曲がって細い道を四つ過ぎる。確かに小さな町医者がそこに看板を掲げており、喜三太は迷いなくその戸を叩いた。
が、覚えがないと首を傾がれ、ざわと首筋が総毛立つような感覚に襲われる。
それでも他の医者に連れて行かれたのかもしれないと頭を切り替え、この近辺にある医者の場所を聞き出す。事情を話すと快く町の地図を渡され、喜三太は丁寧に礼を言って各場所を巡って走り続けた。
ただし全ての医者を巡って理解出来たのは、金吾は医者へ運ばれたのではなく攫われたのだという事実と、恐らく自分一人では見つけ出すことさえ困難だという現実だった。
その頃には既に夕刻も過ぎ、宵闇も近く。
慌てて日中の仕事を終えようとしている馬借に駆け込み、早馬での手紙を二通頼んだのはやはり正解だったと、今になって憫笑する。
一通は救援を呼ぶため庄左ヱ門に。もう一通は帰郷が遅れる旨を書いて足柄に。それぞれを出来るだけ早くと頼み込み、喜三太は再度捜索のために町を歩き回った。
食事も摂らず、休憩もせず、ただ金吾の噂や手掛かりを求めて歩き続ける。もうどうにも歩くことも出来なくなって転がり込んだのが、この辻堂だった。
現実に引き戻され、静かに息を吐く。
最初に辻堂に辿り着いた時点で半日歩き回り、収穫はなし。そして僅かな休息をとって歩き続け、今日一日歩いても結果は同様。しかも悪いことに夕刻から雨が激しく振り続け、店屋ももう閉まる時刻だったことから雨具も手に入れられずにこの数刻を過ごした。
体は冷えきり、もう思考も正常に動作しない。ただぼんやりと過去を振り返るばかりで、建設的な思考など出来るはずもなかった。
体を縮め、白い息を吐く。震え続ける手指は息を吐きかけてもなお冷たく、ぎこちなく擦り合わせても温まる気配を見せない。
凍死は嫌だなぁと冗談めいて笑い、荷物の中から学園の制服を取り出して上から被る。その他にも体を覆えるものならなんでも乗せ、せめてもの防寒とばかりに縮めた体をさらに縮めた。
多少の暖はとれるものの、寒い堂内はやはり寂しさと後悔を募らせる。やがてゆっくりと体の芯が温まる頃、喜三太はぼそりと呟いた。
「……なんであの時、すぐに振り返らなかったんだろう」
声は、雨音の響く堂内で掻き消える。それがまた虚無感を煽り、泣きそうな目で唇を噛んだ。
「あの時、僕がすぐ振り向いてたら。ちょっとでも早く立ち止まって、金吾が巻き込まれたりしてないか見ていたら。もしも僕が、あの時すぐに戻れていたら。金吾は攫われたりしなくても良かったのに」
零れ続ける後悔は、時を戻せない以上役に立つことはない。しかしそれを承知の上でぐずぐずと鼻を鳴らし、喜三太は流れた涙をそのままに眉間を寄せた。
冷えた体で眠れば、熱が奪われそのまま目覚めないかもしれない。それを理解しているからこそ必死で瞬くも、疲れきった喜三太の体は睡眠を強要する。
目蓋が落ちている長さと、目を開いている長さが徐々に逆転していく。抗うように手の甲に爪を立て、唇を噛み、手を動かしてみるもすぐにその効果は薄れていった。
単調な雨の音が鼓膜を揺らす子守唄になる。ただでさえ暗い堂内、まるでやけに広い棺桶の中のようだと嘯き、ついに喜三太は睡魔の前に陥落し、静かな寝息を立てた。
■ □ ■
声が聞こえたのも、きっと夢の中の出来事なのだろうと考えていた。
喜三太と自分の名を呼ぶ声は幾重にも重なり、次第に大きくなって体を揺らす。優しげでもありやけに刺々しくもあり、それでいて困ったような響きのその声はまるで畿内のクラスメイト達のようだと可笑しげに笑い、喜三太は子供がぐずるのと同じ仕草で身を縮めた。
遠くで、虎若という名前が聞こえる。
その声に、あぁやはりみんなの声なのかとぼんやりと理解し、体が浮き上がる感覚にも構わず眠りを貪る。やけに暖かくなった体が心地良く、抱き込まれているような温もりにふにゃりと笑むと、やがて頬を叩かれた。
不快感に眉間を寄せ、顔を隠すように頬に触れる温もりに埋める。俺はお母さんじゃねぇぞと笑った声がやけに近く、そこに至ってようやく喜三太は薄く目を開いた。
暗かったはずの堂内には明かりが灯り、梁や土壁がはっきりと見える。それどころか自分は子供のように誰かの胡坐の上で横抱きに抱かれ、いつの間に着せられたのか暖かな掻巻に包まれていた。
理解出来ないまま辺りをくるりと見回すと、見慣れた顔が笑って自分を覗き込む。
「喜三太、おはよ。私達がいるの分かる? 夢の中じゃないよ」
「まぁまだ夜明け前だけどな。死ぬかもしれない状態で、幸せそうに寝てんなよなぁお前」
「仕方ないよ。きっと疲れたんだよねぇ、喜三太」
赤毛に眼鏡、覗く犬歯、柔らかくふくよかな頬。見慣れた三人の姿に乱太郎、きり丸、しんべヱと名を呼べば、満足げに笑って頷きが返った。
「絶対防寒もろくにしないで寝てるだろうと思ってたら案の定だもんな。後で乱太郎の苦いお薬飲まなきゃ駄目だよ」
「伊助の荷物、やけにデカいと思ってたら掻巻と布団なんだもんなー。ただでさえ人を二人乗せて走るから馬が疲れるのに、どうすんだと思って焦ったっつーの」
「まぁまぁ。加藤村の馬の馬力を信じてのことだろ。実際ここまでなんの苦もなく走って来たんだから、たいしたもんだって馬を誇っていいんだぞ」
少しばかり困った顔を見せる気遣い顔、馬を案じる言葉、それと自分を抱き込んでいる大きな体。まだ思考にかかった靄が晴れずぼんやりと見上げれば、三人からは苦笑のまま頭を撫でられた。
「ていうか、喜三太まだ寝てない? 軽い目覚ましカラクリでも仕掛けようか?」
「団蔵と虎若の部屋に仕掛けようと思ってたアレの軽量版? あー、アレならちょっとは目が醒めるかなぁ」
きゃらきゃらと楽しげにカラクリを語る二人に、理解出来ないまでもふるふると首を振る。その仕草に残念と舌を出した二人を横目に、最後の一人が顔を覗き込んだ。
「見ての通り、手紙に呼ばれてみんなを連れてきたよ。だからそろそろ起きようか。金吾を取り返す算段を練らなきゃ始まらない」
言葉に、今までの眠気が嘘のように消え失せる。
「っ、金吾!!」
虎若の膝の上で飛び起きた体と叫んだ声音に、一瞬堂内が沈黙する。声を上げたはいいものの落ちた沈黙に何事かと周りを見回せば、途端に爆笑が辻堂を揺るがした。
「お前なぁ! そんなに簡単に起きるんなら、これからずっとそうやって起こすぞ!」
「ホント、分かりやすくていいよねぇ喜三太って」
ケラケラと笑い続ける級友達に、寝起きの混乱で何度も首を捻る。まだ現状を把握しきれていない喜三太を見遣り、庄左ヱ門が改めて顔を覗いて静かな口調で口を開いた。
「朝方に手紙を受け取ってね、慌ててみんなを拾いながらここに来たんだ。喜三太が手紙を頼んだ馬借さんから経由を受けたのが加藤村で、団蔵が馬を五頭も連れて手紙を持って来てね。最初はなにごとかと思ったけど、うちのサブリーダーの勘も侮れないよ」
茶化すように呆れるように、しかし信頼しきった様子で肩を竦めた庄左ヱ門に、団蔵が自慢げに歯を見せて笑う。
「必死の顔で早馬を頼まれたから、出来るだけ急いでやってくれって言われてさ。宛名を見たら庄左ヱ門だろ? しかも差出人は喜三太だ。差出地は尾張だし、こりゃなんかあったなと思ってさ。まぁ手紙を一緒に読んでみて、咄嗟の判断で遠乗り用の馬を連れてきた聡明さに自分で惚れたね! 慌ててみんなの家を回って、最後に虎若を拾って東海道を走ったんだ。でも夜通しでも一日かかっちまった。遅くなってごめんな」
誇らしげに胸を張って話す中で、最後の部分だけ申し訳ない様子で頭を掻いた顔にふにゃりと笑う。団蔵のせいじゃないでしょと責めるつもりもなく許せば、団蔵は照れたように表情を緩めた。
それをにこにこと受け流し、はたと自分の状況を思い返して首を傾ぐ。
「あー、えっと。ところでなんで僕、虎若に抱っこされてるのかな」
暖かく居心地がいいことは否定しないものの、純粋な疑問に眉間を寄せる。おやなにかご不満ですかと頭の上から降った声に不満ではないけれどと口篭ると、乱太郎が頭を撫でた。
「喜三太には自覚がないだろうけど、体の熱がほとんど奪われて物凄く冷たくなってたんだよ。伊助の持ってきてくれた布団は雨で濡れちゃったし、掻巻はなんとか無事だったけどすぐには効果が得られないからね。ちょっと悩んだんだけど、筋肉は温かいって話は有名だから、虎若に布団代わりをしてもらってるんだ。ちなみに最初、しんべヱを喜三太の膝上に座らせたら完璧じゃないかって話も出たんだけどさ」
「やめてよ、そしたら凍死しなくても圧死しちゃうよ」
「だと思ってね、やめたんだよー」
茶化すような乱太郎の言葉に喜三太が唇を尖らせると、楽しげに笑ったしんべヱが手を翻らせる。自分の重みをについてはもう充分承知しているのか、多少の言い様には気を悪くする様子もないおおらかな笑顔に思わず苦笑した。
その中で、談笑の雰囲気の続く級友達のほかにもう一つ気配があることに気付き、喜三太が視線を尖らせる。
「どうした喜三太。……って、あぁそうか。言ってなけりゃ警戒するよな」
喜三太の気配の変化にいち早く気付いたきり丸が大きく瞬く。しかしその原因もすぐに悟ると、全員が喜三太から見えるようにと自然に道を開いた。
座していた姿に、驚きで声も出ない。
「佐武村の近くを歩いてらっしゃるのを見つけたんだ。なんせ今回のことは金吾が絡んでるだろ? 絶対関係あるだろうと思って同行をお願いしたんだよ」
誇らしげに胸を張った団蔵の視線の先には、刀を抱いたまま壁に寄りかかって座る剣術指南役の姿。まさに金吾がこの地で待ち合わせていたというその臨時教諭の存在に唖然とし、喜三太はただただ口を開けた。
「戸部先生」
呼べば、薄く笑った目が喜三太へと向けられる。友人達で話している中に水を挿して悪いなと笑った低い声に、いえいえいえと慌てて首を振った。
そのため目が回り、笑った虎若に改めて抱き直される。
それにまた笑いが湧き上がる中、庄左ヱ門が手に触れるのを感じた。
「さて、じゃあ喜三太。眩暈が収まったらでいいから、詳しい話を聞かせてくれるかな。そしたらそのあと戸部先生からお話を伺って、金吾を攫ったどっかの馬鹿を探しに行かないと」
静かに笑んだ庄左ヱ門の声音に底知れないものを感じ、黙って頷く。は組の仲間に危害が及ぶことをなにより嫌う級長が静かに苛立っているのを察するも、今回ばかりは自分のほうが怒っているのだと暗に伝え、触れられた手を強く握った。
知ってるよと返った小さな言葉に、おかしな独占欲を満たされ満足げに笑う。どうやら膝上から放してくれるつもりはないらしい虎若のことはもう大きな椅子だと思い込み、喜三太は背中に当たる暖かさに身を任せ、では現在までの詳細をと畏まって口を開いた。
喜三太が現在までの経緯を話し始めると、場を同じくする級友達はいつものごとく口を噤んで内容に聞き入った。
時折唸るような声を漏らす団蔵や、話しやすいようにと相槌を打つ伊助、もしくは静かに頷きを返す庄左ヱ門以外は誰も彼も微動だにもせず、ただ目を閉じて耳をそばだてる。
これもこの五年間で起こしてきた数多ある騒動の結果であり、その対処も慣れたものだと内心頼もしく感じる。しかしその中にあって自分が得た今回の成果を思い、喜三太は情けなさに唇を噛んだ。
結局のところなにも手掛かりを掴めてはいないのだと吐き出すと、噛み締めた場所が細かに戦慄く。
「ごめんね。僕がその時すぐに戻ってたら、金吾が連れて行かれることもなかったのに。せめてそいつのこと取り押さえるくらいは出来たのに。ごめんね」
震えた声で呟けば、堪らず視界が揺れる。溜まりに溜まった涙が瞬きと共に大粒で流れ落ちると、乱太郎が傍寄って手を握り、背後の虎若が頭を抱いた。
ふえと情けなく漏れ落ちた声に、周囲も苦笑と共に慰めの声を掛ける。そこまで気負うことはないんだよと笑って掛けられる言葉の群れに、喜三太はぐずと鼻を鳴らして小さく頷いた。
それをやはり困ったような笑みで眺め、庄左ヱ門は静かに息を吐く。
「戸部先生。相手は最初から金吾を連れ去るつもりで、決行の数日前からずっと様子を窺っていたと見てもよろしいですか」
決して大きくはない声に周囲の慰めはぴたりと止まり、喜三太もまた息を殺して意識を向ける。庄左ヱ門の目は相変わらずの力強さで今は戸部を射抜き、胡坐の上に拳を置いた姿勢で向き直っていた。
対し、戸部は難しい表情で眉間を寄せ、重々しく目蓋を開く。
「恐らくな。今お前の考えているのとまったく同じことが、私の頭にも浮かんでいる。……金吾を攫ったのは、この果たし状を寄越した差出人を置いて他にあるまい」
悩ましげに息を吐き、懐の中から一通の文を取り出す。その表書きには確かに殴り書き同然に果たし状と書き付けられており、喜三太は僅かに身を乗り出し、胡散臭げに片眉を上げた。
「果たし状って? 戸部先生に?」
事態を飲み込め切れていない疑問に、庄左ヱ門が戸部に代わって微かに笑み、頷く。
「そう、金吾と戸部先生が待ち合わせていた理由だよ。馬での移動最中にお聞きしたんだ。終業式の三日程前、学園に戸部先生宛の果たし状が届いたらしくてね。金吾にはその立会人を頼んでらしたんだ。でも学園長先生からの仕事が終わらず、先生ご自身は二日遅れで出発なさってたんだ。本来なら明日……いや、もう今日だね。今日の朝、ここから程近い旅籠で落ち合う予定だったそうだよ」
庄左ヱ門の簡潔な説明に、戸部が後を引き継ぐ。
「名も知らぬ男だったので少しばかり用心しなければと思っていたのだが、その矢先にこんなことになってしまってな。なにせ私が忍術学園の剣術指南役をしていることは、気心の知れた剣豪仲間でしか知らぬはず。かと言って、彼らがそのようなことを軽々しく口外するとも思えん。だが現に果たし状は忍術学園に届き、私の手元へと至った。となればよほど人脈の広い者か、あるいは忍の心得のある者か……。しかしそのどちらにしろ、果し合いの場所として指定されたこの尾張で、しかも私と縁の浅からぬ金吾が連れ去られたとなれば……犯人はこの手紙の差出人に相違なかろう。偶然と見るには、些か符号が合いすぎる」
不快そうに裏書を眺める戸部に、は組の面々がじりじりと距離を詰めていく。同じくそこを覗き込もうと首を伸ばす生徒達に、質問があるなら口で言いなさいと剣豪が苦笑した。
それもそうだと笑い、喜三太と虎若を除いた全員が大人しく授業のように座を正す。
その中でも、いち早くきり丸が手を挙げた。
「はいっ!」
「なんだ、きり丸」
「そいつの名前は分かってるんですか?」
まずは持っている情報を整理することが戦略構築の第一歩だと目を輝かせ、興味深げに前のめりになっている姿にまた戸部が苦笑を漏らす。無論だと表書きを書面から外して差し出せば、全員が段を組むようにそれを覗き込んだ。
「名は小掛尾。小掛尾歳左ヱ門という男だ。書面によればどうもこの付近に住んでいることは間違いなさそうなのだが、残念ながら詳細な居住地は書かれておらんな」
眉間を寄せる戸部を尻目に、名を聞いた途端、数人が諦めたように肩を落とす。その仕草にしんべヱと喜三太は不思議そうに周りを見回し、なになにと首を傾いで見せた。
それすら気付かない様子で、虎若が力なく笑う。
「そりゃまぁ、そいつの仕業だろうなぁ。先生、決まりですよ。絶対そいつです」
「えー? なんでなんで? なにか分かった?」
どこか遠い目をして笑う虎若に、膝上の喜三太が体を揺する。しかしもう呆れ返った様子で苦笑しか浮かばないらしい狙撃の達人を見て取ると、近くに座っていた兵太夫が笑って顔を覗かせた。
「喜三太ぁ、こけおとしざえもんって何回も言ってごらん。そのうち舌が回らなくなって、こけおどしだもんになるから」
「っあー! そっかぁ!」
ようやく得心した声と、同じくその説明で理解したらしいしんべヱの声が重なる。相変わらず国語が苦手な二人の反応に堂内が笑いに包まれると、伊助が改めて手を挙げた。
「はい! もう一つ質問がありますっ!」
「いいだろう」
伊助の質問の声と共に、また水を打ったように静まり返る。全員が同じ質問に耳を傾けるのはいい姿勢だと笑った戸部が頷くと、は組の母親役は意気揚々と膝を進めた。
「果し合いの日時と場所を教えて頂けますか? 少なくともその時までに金吾を助けてやらないと、もしかしたら戸部先生にもご迷惑がかかるかもしれません」
まっすぐに見返す目が年を追うごとに同室者に似ていく伊助に、戸部が思わず微笑ましげに目を細める。それを不思議に思って首を傾いだ姿になんでもないと咳払い、剣術指南役は改めて果たし状の書面を見返した。
「日時は本日の夕刻、場所はここからそう離れていないな。およそ隣の町との境にある山中、その竹林の開けた場所でとのことだ。呆れるほどに曖昧模糊とした指定だが、まぁ決闘にそれほど広い場所は必要もない。仮になんらかの罠だったとしても、さしたる問題にはならんだろう。それと、迷惑云々という話は考えなくてもよい。なにせ金吾を巻き込み、さらには喜三太やお前達をも巻き込んだのは他ならぬこの私だ。気遣われることはなにもない」
相変わらずの良い子達だと笑えば、全員が照れた様子で顔を見合わせる。その後仕切り直しとばかりに大きく息を吸った庄左ヱ門が全員を見回すと、また次第に静けさを取り戻した。
「戸部先生のご推察の通り、恐らく犯人はこの近くに住んでいるに違いない。名前も判明しているし、所在を突き止めるのもそう難しいことじゃないだろう。ただし、相手がなんの目的を持って金吾を攫ったのか、正しいところがまだ分からない。だからまずは軽く、そいつの人となりを調べよう。……もう夜も明けてきた」
静かに嵌め込み窓を見上げる目線に、釣られて皆の目が外へと向かう。話し込む内にいつの間に止んでいたのかあれほど激しく屋根を叩いていた雨も今は気配もなく、代わり、鮮やかな黎明の光が微かな隙間から漏れ入っていた。
体の冷えは少しはマシになっただろうかと、乱太郎の手が喜三太の額に添えられる。それにくすぐったげな声を漏らして身を捩った姿に、庄左ヱ門は僅かに安堵した様子で肩を落とした。
「ここの仏様には申し訳ないけど、今日はここを本陣として間借りさせて頂こう。生臭物を食べるかもしれないからその時には先に謝罪申し上げて、食事の前にはみんなで手を合わせようね。乱太郎、きり丸、しんべヱ。三人は町へ行って、この男の性格や評判を聞き出してきて。伊助と僕はここを綺麗に掃除しておくから、虎若と団蔵は蔵廻りの人を探して火鉢かなにか仕入れてきてくれるかな。今晩をここで過ごすかは分からないけど、今の喜三太は少しでも体を温めたほうがいい。それと兵太夫と三治郎は喜三太をつれて、まずは湯屋へ行って。学園のような湯船に浸かれるわけじゃないけど、体を温めるのに風呂は有効だ。なんせ大きな町だから、探す間もなく見つかるはずだよ。戸部先生は、申し訳ないですがこの近くで多少のお手伝いをお願いします。もし相手に見つかって、あちらに先回りで動かれたら打つ手も難しくなりますので」
てきぱきと指示を下す庄左ヱ門の言葉に、それぞれが異議もなく頷く。それは戸部も同じ様子で快諾したが、ただ一人喜三太だけは不満を訴え、虎若の膝上で藻掻くように暴れて見せた。
「ヤダよそんなの! 庄左ヱ門、僕も乱太郎達と聞き込みに行く! のん気にお風呂なんて行ってる場合じゃないだろ!?」
わがままな叫びに虎若が困った様子で取り押さえ、大人しくしてろと押さえ込む。しかしそれすら意に介さず暴れ続ける喜三太に、仕方なさげに傍近く膝で進んできた団蔵が、ぴたりと額に指を当てた。
思わずその一点を見つめ、動きを止めたのを見計らって指で弾く。
「はにゃっ!!」
ばちんという、およそ指で額を弾いた音とは思えない痛々しい音に喜三太が声を上げる。ようやく多少熱を取り戻した体はがんがんと頭痛を訴え、その中でも今弾かれた箇所が熱を持って痛みを伝えた。
恨めしげに涙目で睨みつけると、団蔵は飄々とした様子で受け流す。
「わがまま抜かす奴はちょっと叱ってやんないとな。……なぁ喜三太、今日のところは大人しく言うこと聞いとけ? 別に俺達はお前が憎くて情報収集役をさせないんじゃなくて、心配してるから早く体を治してやりたいだけなんだよ。お前、自分じゃ興奮しすぎて今の状態よく分かってないだろ? 鼻の頭なんか真っ赤で、見るからに風邪っぴきだぞ。金吾を迎えに行くとき、その顔じゃちょっとカッコつかないだろ? だからまずは体暖めて、鼻水引っ込めてこいよ。お前がいないときに抜け駆けして金吾を助けに行ったりはしないからさ」
軽快に笑い、団蔵の手がくしゃりと頭を撫でる。その手の感触に思わず目を瞑ると、今度は両脇から二つの気配が近付いた。
「それともなーにー? 喜三太は僕らと一緒にお風呂に行くの嫌? さすがに風邪ひいてる友達に変なカラクリ渡したりしないよー?」
右からは、からかうような笑顔の三治郎が首を傾ぎ。
「うっわ、しかも髪の毛なんて埃まみれだよこいつ。疲れてここに倒れ込んで寝てたから仕方ないかー。でもせめて身なりくらいは綺麗にしとかないと、帰ってきた金吾が慌てて世話焼き始めちゃうよ? あいつだって絶対気疲れしてるだろうし、そんな状態の金吾に気を遣わせるのは喜三太も嫌だろ?」
左からは髪の毛を指で摘んで苦い顔をし、次第にやはりからかうように唇を吊り上げた兵太夫が顔を覗かせる。
左右からにこにこと面白がっているような笑顔に挟まれて首を傾ぐものの、その内に慌てて世話を焼く金吾の姿が頭に浮かび、喜三太は楽しげに笑った。
「ホントだ、そうだねぇ」
「でっしょー」
にぃと笑った二人が額をぐりぐりと押し付ける。柔らかな前髪の感触とそのくすぐったさにはしゃいだ声を上げるも、自分の背中に当たる暖かな胸から押し込められたような呻き声が響き、喜三太は咄嗟に背筋を伸ばした。
振り返れば、引き攣った笑顔の虎若が見下ろす。
「あのさ、笹山くんに夢前くん。俺、今は喜三太の椅子兼布団なのね。んで、お前らが手ぇ置いて体重かけてんのは俺の膝なわけですよ。お分かりですかねカラクリコンビ。ぶっちゃけ喜三太で定員オーバーなんで、体重かけんのやめない? さすがに俺、同い年を三人も支えられるほど筋肉ないのよ」
膝にかけられる重みに悲鳴を上げているのか、虎若の足が僅かに震えているのが分かる。それに気付いた喜三太が思わず立ち上がろうとすると、両隣の二人から無理矢理にその場に押さえつけられた。
あれと首を傾いで二人を見れば、意地の悪い笑みが虎若を見る。
「あっれー? 虎ちゃん、僕ら二人が乗った程度でギブアップー?」
「珍しく弱音なんて吐くから、喜三太が気ぃ遣って立ち上がろうとしただろー? 水臭いこと言うなよ若太夫。ほら、こうなったら一人も二人も三人も一緒だって。……よっしゃ三ちゃん今だ、膝の上に座っちゃえ!」
「ラジャ!」
兵太夫の掛け声と共に、二人が一斉に虎若の膝に腰を下ろす。中央に喜三太、その左右に兵太夫と三治郎を乗せた状態で、さすがの筋肉自慢が悲鳴を上げた。
「ちょっ、無理ムリむり! 勘弁してよマジでマジで! 実は足が半端なく痺れてて……!!」
「ほほぅいいこと聞いちゃった! そいつはこっちか!」
「それともこっちか!?」
「やーめーてー!!」
痺れと聞いた途端に足を突き始めた二人の行為に、虎若が身動きの取れない状態でありながらも身悶え始める。最早これは一種の苛めと考えていいのではないだろうかと周囲が苦笑する中、じゃれあうような笑い声と悲鳴は上げられ続けた。
それを華麗に無視し、庄左ヱ門がにっこりと他の面々を見回す。
「まぁとりあえず朝に行う各自の分担も決まったことだし、まずは簡単な朝食でも摂ってから始めようか。干し飯と味噌水で作る雑炊しか作れないけど、みんな異論はないよね?」
「異論ないです」
「庄ちゃんってば今日も元気に」
「冷静ね」
「つか時々庄左ヱ門の冷静さが物凄く残酷に見える」
「いつものことだって」
「お前ら無視してないで助けろよぉおおお!!」
普段の掛け合いを受け流し、虎若がまた悲鳴を上げる。それを楽しむ二人の間で喜三太は膝から立ち上がることも出来ず、ごめんねぇとその気のない謝罪を口にして楽しげに笑った。
(以上、序文全文)
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