序 章
学園の昼休みもそろそろと終わりに近付く頃、四年の教室が並ぶ廊下には騒々しい声が漏れ聞こえていた。もちろんその時間ともなれば校舎外に出ていた生徒達が戻り始め、自然、その騒々しさは各自の教室へと集積される。だがきり丸はその漏れ聞こえる声に眉間を寄せ、理解しがたい様子で首を捻った。
声は自学級から響き、しかもなかなかに荒々しい様相を感じさせる。その上その声を聞く限り思い浮かぶ二人の人物は、普段あまりお互いを相手に声を荒げるような関係ではなかったはずだと思考を巡らせた。
教室の目の前に来れば、それはいっそうに耳に入り込む騒音と化す。どちらにしろあまり無意味な巻き込まれ方はしたくないと溜息を吐き、きり丸はわざと後ろ側の木戸を開いた。
一歩踏み入れればまず視界に黒板と、その前で言い争う喜三太と三治郎が見える。その黒板にはあまり馴染みのない文字のようなものが所狭しと殴り書きされ、時折黒板を叩く様子を見るに、どうやらそれが諍いの原因らしいと判別できた。
教室の中には乱太郎としんべヱ、それに二人の同室者である兵太夫と金吾しかおらず、常であれば仲裁役を買って出る四人の姿が見受けられない。白熱する一方の喧嘩はそのせいかと納得し、きり丸は自分に宛がわれた席へと足を向けた。
廊下側の壁に沿い、自席で既に着席している親友二人に声を掛ける。
「ただいま」
「あ、お帰りきり丸」
「おばちゃんのマッサージのバイト、お疲れ様ぁー」
腰を下ろせば、いつもと変わらない様子の笑顔が迎える。それに幸福を隠さず笑って返すものの、やはり耳に飛び込んでくる騒がしい声にがくりと肩を落とした。
「……で、あいつらはなにやってんだ?」
ちらりと流し見、親指で指し示す。その質問に乱太郎としんべヱは困り顔で見合わせ、誤魔化すような引き攣った笑みを見せた。
「んー、いやぁそれがねぇ?」
「ちょーっと私達が口を挟めない、忍術以外の専門分野の話で揉めちゃってるみたいでねぇ。なにやってるかと言われても、私達も回答に困ってしまうと言うかなんと言うか……」
「はぁ?」
煮え切らない二人の回答に片眉を上げ、仕方なく黒板側へと目を向ける。きり丸が入ってきたことに気付いてすらいないのか、それとも今はそんな些事を気にしている場合ではないと判断したのか。どちらにしろ入室前とまったく変わりのない様子で言い争いを続ける二人を、肘をついて暫く静観することに決め込んだ。
目と意識を向けることで、今まで雑音でしかなかった声に意味が宿る。
「だからぁ、書き順が違うって言ってんの! この字はこう書くんだってば! なんで違う書き方しかしないわけ!?」
普段笑顔を絶やさない三治郎が苛立った様子でチョークを握り、黒板へ叩きつけるような乱暴さで文字らしきものを書き殴る。それはきり丸にとっては寺でよく見るものに似ているという認識だけで、字という言葉を聞いても、果たして本当に文字なのか疑わしい類のものだった。
ふにゃりと曲がった線になにやら点のようなものが書かれていても、自分の知る文字とは到底認識出来ずに首を傾ぐ。
その三治郎に、今度は喜三太が噛み付かんばかりに食って掛かった。
「僕はこっちの書き方のほうが綺麗に書けるんだって言ってるじゃないか! 大体こんな字、少しくらい書き方が違っても誰も気付かないでしょ!? そんな細かいことまで気にしなくたっていいじゃないか!」
「そういう問題じゃない! 梵字にはそれぞれ大事な意味があるんだから間違うなんて絶対ダメ! 山伏見習いとして許せない!」
喜三太が書いた文字に、三治郎が大きく上からバツを書き込む。それに大きな声を上げ、ますます苛立ちを募らせた二人が距離を詰めた。
「三治郎は忍たまでしょ!? 符なんて幻術を相手に思い込ませる切っ掛けのためだけにしか使わないんだから、これでも通じるの! だから僕の書き方でもいいの!!」
「忍たまで山伏見習いだって知ってるくせに! そんな気持ちじゃ幻術なんて上達するわけないよ! 風魔の幻術を勉強してるのにちゃんと書こうとしない喜三太がおかしいの!」
「おかしくないよ!」
「おかしいよ!!」
ちりと肌を焼くほど殺気を漲らせて言い合う二人の会話から、ようやく事態の全貌を理解したきり丸が溜息を吐く。山伏の術と風魔幻術の双方で用いる梵字の書き方。ただの忍たまであれば特筆して学ぶことのないそれに関する喧嘩なら、止め方が分からず静観するのも無理はないかと眉間を寄せた。
「なるほど、こりゃ確かにあいつらの専門分野だ」
呆れた様子で頬を掻いた姿に、二人が苦笑で同意する。
「でしょー」
「どう仲裁したらいいもんか分からないから、見てるしか出来ないんだよねぇ」
眉間を寄せながらも目尻を垂れて困り顔を見せる乱太郎達に、ふむと呟き鼻を擦る。背後を見ればやはり兵太夫と金吾も同じように困惑した表情を浮かべ、かといって手や口を出そうとする様子は見受けられなかった。
それにガシガシと頭を掻き、仕方ないかと呟いて立ち上がる。
「え、ちょっと、きり丸?」
「平気平気。すぐ終わるってこんなもん」
動揺した乱太郎の声にひらりと手を翻し、机を迂回して未だ言い合いを続ける二人の背後に近付く。黒板は既に書き殴りの梵字で埋め尽くされ、もうすぐ始まる午後の授業に使用するには一度綺麗に消してしまう他はない。二人が納得するにしろしないにしろ、早めに仲裁するに越したことはないだろうと結論付け、きり丸は二人に手を伸ばした。
襟首を掴み、猫の子を持つようにして引き離す。
「わっ!?」
「はにゃっ!?」
突然後ろに引かれ、動転した二人が声を上げる。いったい何事かと首を捻る形で振り返った顔に真ん中からじろりと睨みを効かせ、きり丸はわざとらしく重々しい溜息を吐いて見せた。
「あのなぁお前ら。喧嘩すんのは構わねぇけど、そのテの分野のことなら場所移してやってもらえねぇか? 第一よく見ろこの黒板。今から慌てて消しても真っ白になっちまうぞ。土井先生がまた苦ーい顔で笑うんだろうなー。あと後ろ見てみろ、後ろ。金吾も兵太夫も困った顔して引き攣ってっから」
手を離さないまま、顎で背後を指し示す。命令するようなその仕草に二人は納得がいかない様子で唇を尖らせ、振り返るのも癪だと言外に示すように視線を泳がせた。
掴んだ襟首を軽く引き、半ば強制する。
すると首が締まる感覚に観念したのか、不本意そうではあるものの三治郎が渋々と視線を背後へと向けた。
途端、うわぁと苦い声音が漏れ落ちる。
「ホントだ、兵ちゃんなんて顔してんのさ。金吾まで本気の困り顔だし」
「え、そんなに?」
つられ、喜三太が見返る。するとやはり苦い声を漏らし、二人はくてりと首を傾いだ。
脱力した様子を見、もう喧嘩を続ける気力も殺がれただろうときり丸が手を離す。その判断の通り二人はもはや互いに食って掛かることもなく、むしろほかの面々と同じような困り顔を浮かべてそれぞれの同室者を見た。
「兵ちゃん、そんなに仕方なさそうな顔するくらいなら止めてよー」
「金吾もだよ。僕達ムキになっちゃってたから、みんなが困ってるの気付かなかったじゃないか」
拗ねたような表情を見せる二人に、今度は軽く頭をはたく。あまり痛みはないとはいえど衝撃を伴うその攻撃に、二人は叩かれた場所を抑えてきり丸を見た。
「それはお前らの責任転嫁。昼休みが終わるのが近いの分かってんだから、そんくらい自分達で自制しろっての。それと、そこの! こいつらの保護者二人!! 止めろよマジで! 庄左ヱ門達もいないんだし、結局迷惑すんのは俺達三人なんだからさぁ!」
怒りの矛先が飛び火したことに、今度は兵太夫と金吾の唇が僅かに尖る。どうやらこちらもこの叱責に不服があるらしいと見て取り、きり丸は目線だけで返答を促した。
それに乗じ、兵太夫が口を開く。
「そうは言うけど、聞いてたろ? 今の話。僕らは確かに同室者だし、それぞれの一番の理解者も自負してるし、保護者と言われれば返事をするくらい仲がいいけどさ。自分が理解出来ない話の腰の折り場所が判断できる? やってのけちゃったきり丸に言っても分かんないかもしれないけど、それって普通は結構戸惑うもんだよ」
不遜な態度で言い放ったカラクリ技師の言葉に、金吾も隣の机で頷く。
「僕も同じ意見だ。さっきの話が山伏の術と幻術に深く関わってるものだということは分かるけど、僕にはその内容がよく分からないし、二人が争ってた文字も読めない。それに、その。議論することだって勉強の一つとして受け止めるなら、僕らはこの類の話に口を挟まないほうがいいような気がする」
些か目を泳がせつつ、それでもきり丸に反抗する意見を述べた金吾に今度は兵太夫が力強く頷きを返す。まるで互いを応援しているかのようにも見えるそのやり取りに呆れ果てたかのように頭を振り、きり丸はまた重い溜息を吐いた。
「お前らな、ちょっと甘やかしすぎ」
言って、大人しく両脇でやり取りを眺めていた三治郎と喜三太に向き直る。
「あいつらも言ったように、俺にも幻術やら山伏の術のことは分かんねぇけどさ。喜三太。字の書き順はちゃんと改めねぇと、そのうち団蔵の字みたいにもうグッチャグチャになっちまって、それこそ誰にも読めないくらいになるかもしんねぇぞ? そしたらいくら字の意味が分かんなくっても、こいつの幻術はヘボそうだとか思われちまってよ、誰にも通用しなくなるかも知れねぇだろ? そんなんで胸張って風魔の幻術って言えるか?」
難しい顔をして見下ろすきり丸に、喜三太の目がしょぼくれた様子で目尻を下げる。その下の唇が小さく、そんなのは嫌だと呟いたのを耳聡く聞き取り、だよなと頭を撫でた。
続き、三治郎を見下ろして頭を掻く。
「で、三治郎は言い方がちょっとキツすぎ。お前は普段ニコニコしてる分、怒ると歯止めが利きづらくなってんじゃねぇか? なんか傍から聞いてると了見が狭く聞こえるっつーか、必要以上に言ってるようにしか聞こえなくなってるんだよな。特に喜三太はカッとなったら激昂するタイプなんだから、それじゃいくら話したって平行線だぞ」
責めるではなく諭すような言葉が自覚していた部分を突いたのか、三治郎も大人しく目線を下げる。拗ねるような雰囲気は見当たらず、それぞれ伺うように互いへ視線を送る仕草に、きり丸は一歩後ろに退いた。
一歩分開けた視界の中で互いの目が合ったのか、ゆっくりと二人が向き合う。
「……言い過ぎちゃってごめんね、喜三太」
「ううん、僕も。……もうちょっと頑張って勉強するから、また教えてくれる?」
「うん」
最終的に俯き気味だった顔を上げ、互いに笑って黒板消しに手を伸ばす。荒々しい所作で書き殴っていたためか折れてしまった数々のチョークを備え付けのチョークケースへと戻し、二人は自主的に黒板の文字を消し始めた。
その姿を尻目に、きり丸が肩を回しながら席へと戻る。
「お見事」
「へっへー、まぁな」
「きり丸、纏めるの上手になったねぇ」
「上手くなったわけじゃねぇよ。父ちゃんも母ちゃんもいないし、あいつらの兄ちゃん役も不在だしな。保護者が役に立たないとくりゃ、そりゃ俺が一肌脱ぐしかねぇだろ」
しんべヱからの賞賛に腕をまくって力瘤を見せ、ちらりと嫌味な視線を背後の二人に送る。その視線の意味に気付いたのか、明らかなわざとらしさで目を逸らした兵太夫と金吾に三人は揃って笑い声を上げた。
最中、教室前方の木戸が開き、教科担当教諭と不在だった四人が姿を見せる。
「よーっし、午後の授業を始めるぞー。って、どうした三人とも、やけに楽しそうだな。喜三太と三治郎は珍しく黒板の掃除をしてるし……なにかあったのか?」
珍しい事態に目を瞬く土井に、きり丸達三人と黒板前の二人がそれぞれ顔を見合わせる。けれど説明する必要はあまりないと感じたのか、嬉しそうに顔を綻ばせ、なんでもありませんと声を揃えた。
大雑把ではあるものの黒板の掃除を終え、はしゃいだ様子で喜三太と三治郎が席へと戻る。それを微笑ましげに見つめ、土井は普段よりやや白い黒板の前に立った。
後から入った面々が慌てて席へと急ぐ中、庄左ヱ門だけが膝を屈め、こそりと乱太郎に耳打ちする。
「なにがあったか、後で教えて」
「うん、了解」
快諾した乱太郎に満足げに手を振り、庄左ヱ門も通路を挟んだ席へと腰を下ろす。それがまた武勇伝よろしく話されるだろうことを予見し、きり丸は気恥ずかしそうにひらりと手を翻した。
午後の授業は眠気とともに静かに過ぎいく。
終業後の掃除も終わった校舎は昼間とは打って変わって静まり返り、普段見られる騒がしさを感じさせることもなくひっそりとした空気をその身の内に満たしていた。
忍術学園は寮生活を基本としているため、自由に互いの長屋を行き来出来るという気安さもあるのか終業後に教室に残るものはほぼ皆無と言っても差し支えない。無論この四年は組も本来であればその例に漏れることはまずないが、この日は珍しく全員が教室内に残っていた。
真相を言ってしまえば、掃除時間中に伊助が長屋の各部屋にホウ酸を撒いたため、暫くは長屋に戻ることが出来ないというのが現実だった。
その静かな校舎の中、身振り手振りを交えながら先刻の流れを語る乱太郎、しんべヱの話に、庄左ヱ門は数度頷きながら目を細める。
「へぇ、僕らがいない間にそんなことがねぇ」
決して揶揄するつもりでなく、むしろ喜ばしい報せを受けたときのような微笑がきり丸へと向けられる。しかしその当人はといえば頬杖を突いたまま壁を眺めており、その表情は伺えない。しかし別段不愉快にしているわけではなく、ただ照れ臭さから自分達へ顔が向けられないだけだとその場にいる全員が言葉なく理解し、それを受け入れていた。
それでもあまりに視線が刺さるのか、耐え切れなくなったきり丸が紅潮した頬で声を荒げる。
「ってか、なんで全員揃ってんだよ! さっきの話するだけだったらその場にいた奴は別にいなくったっていいだろ!? だいたい、長屋に帰れないにしても委員会があるだろうがよ、委員会が! 行かなくていいのか!?」
これも照れ隠しの大声だと分かりきっているため、誰ももはや慄く様子もない。けれど委員会という言葉にそれぞれが互いに顔を見合わせ、はてと首を傾いだ。
誰も慌てて席を立つようなこともなく、一瞬の沈黙が落ちる。
それをくるりと見渡し、庄左ヱ門が手元のメモ帳を取り出した。
「……まぁ、たまには全委員会が休みの日もあるってことだよ。図書と保健は交代制だし、用具にだって早々欠損用具が持ち込まれるわけじゃない。火薬在庫のチェックは一日一回、作法だって勉強する作法の選出が必要だろうし、会計は予算会議も終わったばかりで小休止だろ? 生物に関しては毎日世話をしてやらなきゃいけないだろうけど、委員長の伊賀崎先輩が実習中でほとんど連れて行ったと聞いてる。体育も今日は次屋委員長が不在だっけ? 僕らのところは、まぁ行ったとしても勉強するかお菓子を食べるかだしね。一人欠けたところで別に問題はないって言うか」
さらさらと読み上げられる各委員会の現状に、周囲が苦笑を漏らす。なぜそれぞれの状況を把握しているのかということよりも、苦し紛れに挙げられただけの委員会の話題に対し即座に返答する冷静さが、室内をなんとも言えない空気で包み込んだ。
「庄ちゃんってば」
「相変わらず冷静ね……」
苦笑のまま伊助と兵太夫がお決まりの言葉を呟けば、理解していない様子で瞬きが返る。それすらもう既に一連の流れと片付けて、きり丸は額を押さえ、乱太郎としんべヱは会話の転換を図るべく手をぱたぱたと動かした。
「でもさ、ほら! さっきのきり丸はホントにカッコ良かったよねぇ! 私なんて感心しちゃって!! だよねしんべヱ!」
「うんうん、ホントだよねぇ! なんだか二人のお兄ちゃんみたいに見えた!」
「……三治郎と喜三太の兄ちゃん役は、虎若と団蔵だろぉ?」
必死に空気を戻そうとする二人の様子に、額を抑えていたきり丸が半ば呆れたような表情でちらりと目を覗かせる。けれどその言葉に新たに名前を上げられた二人は首を傾ぎ、考え込むように視線を宙に泳がせた。
「とは言っても、別にこれって決まった配役なわけじゃないしなぁ。第一今日はその場に居合わせなかったんだし、そこで名前出されてもピンとこないよ」
「だよな。たまたま俺達二人がそういう役回りになることが多いってだけで、誰が兄ちゃん役になってもいいわけだしさ。いいんじゃないか? きり丸も新たに兄ちゃん役に名乗りを上げたってことで」
適当なことを言う虎若にきり丸はがくりと肩を落とし、周りに至ってはそれはいいと囃し立てる。その雰囲気がまた自分を中心に広がっていきそうな予感に、再度沸き上がってくる気恥ずかしさを頬を擦って隠した。
その中で、伊助がくるりと後ろを振り返り、兵太夫と金吾を見据える。
視線に小言の気配を察した二人が、僅かに身を震わせた。
「……なに、ママン」
「ママンって言うな、せめて母ちゃんって言え」
「小言の気配がします、母上」
「母上もやめて金吾。さすがになんか恥ずかしい」
各自に的確な突っ込みを返し、はぁと重苦しい息を吐く。その吐息にますます嫌な予感を煽られ、二人は静かに居住まいを正した。
その仕草に、伊助はそれこそ悪戯を仕出かした子供を前にした母親の表情で頬を掻く。
「あのね、今まで大人しく話を聞いてたわけなんだけどさ。やっぱり兵太夫と金吾は二人に甘すぎないかな? 別に同室者なんだから責任を持てと言うつもりはないけど、もうちょっと積極的に仲裁に入る余地はあったと思うんだよね。喜三太と三治郎だって言って分からない子じゃないんだし、話が分からなくても少し気持ちを落ち着けさせるとかさ。特に二人は同室者ってだけでなく、それぞれの一番って仲でしょ? 普段からそれを嬉しく思っている節も見られるし、他人が成り代われないその立ち位置に優越感すら感じてるようにも見えるよ。なのに二人それぞれの自己主張に関しては好きなようにさせるってのは、ねぇ。放任主義と罵られても無理からぬとは思わない?」
叱責するではなく訥々と諭すように言葉を紡ぐ伊助に、二人は居た堪れない様子で肩身を狭める。その頭がどんどん角度を下げていき、次第、卓上に手をつく形で土下座にも似た姿に落ち着いた。
「ごめんなさいでした」
「申し訳ございませんでした」
「うん。次から止める努力してくれたら、もう私から言うことはなにもないからね」
にこやかにそう諭した伊助の言葉に、しんべヱが感心したようにぱちぱちと手を打ち鳴らす。
「すごいねぇ。誰が誰のお兄ちゃんでも、やっぱり伊助はみんなのママだよねぇ」
心底楽しそうにそう言ってのけるしんべヱに、苦い顔をした伊助が眉間を寄せた。
「……あのね、しんべヱ。それ全然褒めてないし、私としてはまったく嬉しくないんだよ」
「そうなの? ピッタリなのにもったいないよー」
なにをもってして勿体無いと言っているのかを推し量れず、この場は曖昧に笑って受け流す。そこから、誰に対しては誰のほうが年上のようだなどといった類の話が花を咲かせ、きり丸はようやく自分を主体にした話題が終わりを告げたことに小さく安堵の息を吐いた。
そのきり丸に、乱太郎が机に身を乗り出すような形で声を掛ける。
「ねぇ、きり丸」
「んー?」
「しんべヱは私達二人の弟位置だとしてさ。きり丸は私の弟とお兄ちゃん、どっちなんだろうね」
含み笑いを漏らす至極楽しげな声にぱちりと一度瞬く。二人に挟まれているために否応なく会話を耳にしたしんべヱも、自分が弟位置という前提を含めて異論はないのか、興味深そうにきり丸へと視線を移した。
二対のきらきらと輝く目に、居心地悪く顎を掻く。
「……そりゃあ、あれだろ。お前が弟じゃねぇの? 順調に保健委員会委員長への階段を登っていってるような不運の持ち主で危なっかしいし、目ぇ放すとすぐ面倒に巻き込まれてるし。俺が世話焼いてやんなきゃ、お前もしんべヱも物凄いことになってんじゃねぇの?」
どこか素っ気無い言葉に、二人して笑う。
「やっぱりそうだよね。そうだと思ったんだけどさ」
きゃらきゃらと楽しげな笑い声に、きり丸の表情がようやくになって和らぐ。しかしその笑いを止めて、乱太郎は睨むような目で頬杖をついた。
「でも危なっかしいのはきり丸だって一緒だよ。最近、戦場でバイトしてるでしょ。しかも前みたいに弁当売りや露天を出すんじゃなくて、傭兵のほうで。この前しんべヱが、きり丸から火薬と土埃の臭いがするって言ってたんだから」
じっとりと見据えてくる目に、思いがけないところを突かれて目を逸らす。なんのことやらと誤魔化そうとしたものの、発覚元がしんべヱの鼻となればそれも無駄かと開き直った。
仕方なくすまんと呟いて手を合わせれば、呆れたような溜息が落ちる。
「言ったって聞いてくれないんだから。きり丸のバイトに生活と学園の授業料がかかってるのは知ってるけどさ。……心配してるんだよ、こっちは」
「だから悪かったって。来学期、ちょっと授業料がぎりぎり払えるかわかんねぇ状態でよ、焦ってんだ。もうちょっとだけでいいから、大目に見てくれよ」
懇願するようではなく、ただ押し通す口調に乱太郎の唇が真一文字に引き締まる。けれど先刻自ら口にしたように、言ったところで効果がないと知ってかなにも言わずに肩を落とした。
もう一度きり丸から謝罪の言葉が漏れても、今度ははいはいとぞんざいな返答しか戻らない。
「きりちゃんのバイト癖はもう知り尽くしてるからね。もうなんにも言わないよ。勝手に心配だけさせてもらいます」
拗ねたような口調に、きり丸も肩を竦める。僅かに険悪な雰囲気に陥った二人を狼狽した様子で見比べるしんべヱに、ちらりと二人の視線が流れた。
やれやれと溜息を吐き、二人同時に口を開く。
「ホンット無茶ばっかりするお兄ちゃんだよねぇ、しんべヱ」
「俺のもう一人の弟は心配性すぎるのが玉に瑕だよなぁ、しんべヱ」
揃った声音に、しんべヱがきょとりと首を傾ぎ。
次の瞬間、噴き出すように笑った三人が腹を抱えてその場に転がった。
「ちょっと、今のタイミングは反則だよー! 二人とも狙い澄ましたみたいに声揃えてくるとか!」
「違っ、偶然だって! 私もビックリしちゃった!」
「なんで同じタイミングで弟呼びと兄ちゃん呼びなんだよ! ちょっと苛々してしてたのがどっか行っちまったじゃねぇか!」
くだらない一致に笑い転げ、息苦しげに荒い呼吸を繰り返す。次第それが落ち着く頃、未だ緩む口元を一度噛んだきり丸は腕で目元を覆った。
部屋の中にはまだ談笑が溢れているものの、視界を限定することで隔離された気分になる。その陰になった部分で静かに目を閉じ、笑いが静まった後の脱力感にも似た重さに細く息を吐いた。
心臓の奥にある底知れない場所が、なぜか懐かしい感覚に襲われたことにこくりと息を呑む。
「……そうだよなぁ。同い年で父ちゃんだの母ちゃんだの言ってんだし。クラスみんなを兄弟で例えるのだって可笑しなことじゃあねぇんだよなぁ……。……そうだよ、なぁ」
ポツリと呟く声を聞き咎め、違和感を感じた乱太郎としんべヱが身を起こす。視界を完全に閉ざしているためかそれにすら反応を返さないきり丸に、二人は困惑した表情で顔を見合わせた。
「きり丸?」
小さく声を掛けても、身じろぎもしない。それにますますもって不安を煽られ、二人は肩を揺らそうと手を伸ばした。
恐る恐る伸ばされたその二つの手が、あと少しで肩に触れるときだった。
「あーっ!! 忘れてた!!」
大きな声が室内を揺らす。その声に水を打ったように会話が止まり、物思いに耽っていたはずのきり丸さえも飛び上がってその声の主を注視した。
視線の中心で、顔色を青く変えた庄左ヱ門が頭を抱える。
「ど、どうしたの? 庄ちゃん」
どうやら会話途中で大声を出したらしい庄左ヱ門に、戸惑い気味に伊助が声を掛ける。それに級長は返答することも出来ず、どこか縋るような目で団蔵へと視線を投げた。
その目に、団蔵までもがさっと青褪める。
「……ホントだ、忘れてた。兵太夫と乱太郎が学園長に怒られる」
「はぁ!?」
震えた声音で紡がれた声に、今度は名を挙げられた二人が声を荒げる。
「おいちょっと待てよ馬鹿旦那。庄左ヱ門とお前が忘れてたことで、なんで僕と乱太郎が怒られなきゃいけないわけ? しかもなに? 学園長?」
「え、なに? 私達なんかした? 元々がお説教の呼び出しとかじゃないよね?」
笑顔で苛立った気配を醸し出す兵太夫と、心当たりでもあるのか挙動不審に陥る乱太郎の耳に咳払いが届く。それに向き直れば級長が申し訳なさそうに頭を掻き、実はと口を開いた。
「僕達は少し遅れて昼食を摂ったんだけど、そのとき学園長先生がいらっしゃって。ちょっとしたお使いを頼みたいから授業が終わったら、乱太郎と兵太夫を庵に呼んでおいてくれと頼まれてたんだよ。……なんだけど、その後に来た彦四郎と戦術話で盛り上がっちゃって、すっかり忘れてたんだ。ごめん。学園長先生には僕が伝え忘れてたせいだって言ってくれ」
申し訳ないと頭を下げた庄左ヱ門に、そういう頭を使う理由があったならと二人は困り顔ながらも納得を見せる。しかしその後ろで居心地悪そうに目を泳がせ続けている団蔵には、兵太夫はにこりと笑んでから凄みのある睨みを利かせた。
「で? 一緒に話を聞いてたお前は、なーんで忘れちゃってたわけかなぁ? うん?」
異様な迫力のあるその視線に、団蔵の額に冷や汗が滲む。忙しなく動き回り一向に定まらない目線の下で、微か震えた唇が開かれた。
「……いや、その。…………飯食った後、馬小屋の様子見に行ってて、その」
「馬の世話すんのが楽しくなって、忘れていたと」
しどろもどろに話された言い訳に、睨みは消え、いっそ朗らかな笑顔が返る。むろんそれが納得した結果の笑顔でないことを理解済みの団蔵は、より戦慄した表情で沈黙した。
それを肯定と受け取り、兵太夫の表情がさらに華やぐ。
「そっかそっか、じゃあ仕方ないよな。……次の休みの日、地下のカラクリ大迷宮にご案内してやるから覚悟してろ」
「い、嫌ぁああああ!!」
「知らん。乱太郎、とりあえず聞いたからには早めに行っちゃおう。まぁこんだけ遅刻すりゃ、なんかほかの言い訳をしても諦めてくれるような気もするし」
団蔵の叫びを無視し、机に手を突いて立ち上がる。そのまま脇目も振らずに教室を出る兵太夫を、乱太郎は慌てて追いかけた。
待ってと呼んだ声を最後に、二人の姿が教室から消える。それを見送り、庄左ヱ門はまた気まずそうに頭を掻いた。
「ごめん、話に水差しちゃったね」
心底申し訳なさそうな声音に、誰も非難することなくただ笑う。和やかな雰囲気の中、きり丸が両手を上げて背筋を伸ばした。
「それはもういいからさ、そろそろ長屋に帰らねぇ? 湧いてた虫もそろそろホウ酸食って死んでる頃だろうし、掃除もしなきゃなんねぇんだしさ。特に厳重に撒いたって言ってた団蔵と虎若の部屋なんて、ネズミも飼ってそうだしなー」
茶化すような言葉にほとんどの面々が笑い、当の団蔵と虎若が引き攣った表情を見せる。それをわざと気付かない振りをし、誰ともなく立ち上がり、ぞろぞろと教室を出た。
もう随分と暗い廊下。そこを行く見慣れた八つの背中を一番後ろから眺め、きり丸は先程感じた言いようのない懐かしさに目元を和らげた。
「しんべヱと喜三太と三治郎はやっぱ弟って感じだし、金吾や兵太夫は場合によって代わるけど、虎若はなんか最近になって兄ちゃんって感じになったよな。庄左ヱ門と伊助はもう変更きかねぇくらい父ちゃんと母ちゃんだと思ってるし。……だよなぁ。毎日同じ場所で寝て、飯食って、そんで顔合わせてんだよな。……家族みたいなもんだって思っても、別にいいよなぁ」
口に出し、思わず照れてくしゃりと笑う。気恥ずかしさからなのかそれとも言葉に出来ない幸福感なのか、ともかく体の内側から湧き上がるむずむずとした感覚に数度足踏みし、きり丸は勢い任せに駆けてしんべヱの背中に飛びついた。
突然の衝撃に面食らった様子で、丸い目が振り返る。
「わっ、どうしたのきり丸」
言葉では驚きながらも、飛びつかれた程度ではびくともしない。その安定感にきり丸は顔を隠した状態ではあるもののことさら嬉しそうに笑い、自分より背の低い親友の背中から降りようとはしなかった。
その気配にどうやら甘えたいらしいと察したしんべヱが、歩きながら大袈裟に左右へ体を揺らす。その動作に負ぶわれたまま子供のように笑った。
しんべヱは弟だと位置を決めたわりに、これでは自分のほうが弟のようだと可笑しな矛盾がまた楽しかった。
長屋へ戻り、撒き散らされたホウ酸とその上で死んでいた虫達を掃除し終わる頃にはすっかり陽が暮れていた。茜だった空は藤紫を通り越し、青鈍の闇に落ちている。
乱太郎が戻ったのは夕食後暫くしてからで、部屋へ戻る前に食堂へ寄ったらしく空腹感はない様子だった。
息つく暇もなく武器の準備を始めた乱太郎から簡略化された話を聞き、きり丸が不平な声を上げる。
「威力調査ぁ?」
「うん、私と兵ちゃんの二人でって」
頓狂な声に楽しげに笑いながら、乱太郎は準備の手を休めない。手裏剣を一枚一枚、それぞれに錆がないかを確認しながら皮袋に収める姿に、しんべヱが不安そうに眉間を寄せた。
「二人だけでなんて、危なくない?」
「ちゃんと充分注意して行くから大丈夫。なんかね、頑なに他城との接触を絶ってる城があるらしくて、不気味だから調査して欲しいって依頼が入ったんだって。まぁどんな城か分からないってのは怖いし、そういうのが一つあると一帯の城全部が緊張するからね。もし悪いことを企んでる城だったら学園も警戒するに越したことはないし、それならってことで引き受けたらしいよ。で、唯一分かってるその城の特徴がカラクリが得意ってことらしいから、仕掛けが解除できる兵太夫と、足が速くて絵が上手い私にって。はい、準備完了ー」
満足げな笑みを見せ、纏めた荷物をぽんと叩く。その説明を受けてもなお納得がいかない様子のきり丸に、乱太郎は意地悪そうににんまりと笑んだ。
「なぁに、きりちゃん。友達が危ないことしに行くのは心配してくれるの?」
「……そりゃまぁ、ちょっとはな」
口元をへの字に曲げて不貞腐れた顔を見せるきり丸に、乱太郎の肩が揺れる。
「きりちゃんが危ないバイトをしに行ってるって分かったとき、私としんべヱはいつもそんな気持ちだよ。分かったら少しでいいから自重してよね。はい、じゃあこれ!」
言葉とほぼ同時に放り投げられたものが、蝋の明かりできらりと光る。その輝きに自分が最も執着するものを見、きり丸は倒れ込むようにそれを掴んだ。
手の平を見れば、一文銭に包帯の端切れが括りつけられたものが納まっていた。
「二人が心配してくれるから、約束。明日の朝には帰ってるしさ、授業が終わったら三人でお団子食べに行こうよ。その時にそれ使うつもりだから預かってて」
覆面を巻き付け、目元しか見えない表情で柔和に笑う。そのまま立ち上がり、部屋の木戸を開けた乱太郎が右側へ手を振った。
兵太夫も準備を終えて表にいるらしいことを悟り、見送りのために木戸に立つ。
「じゃ、行ってくるね」
「おう」
「気をつけてねー!」
振り返りながら手を振り、学園の正門へと向かう背中をじっと見送る。どこか楽しげに話しながら珍しい組み合わせにはしゃぐその背が闇に溶け見えなくなると、突然きり丸は目の前の世界がぐるりと回転するのを感じた。
揺れる視界にバランスを崩し、思わず膝をついて木戸で体を支える。
「ちょ、きり丸大丈夫!?」
突然崩れ落ちたきり丸に、慌てた様子でしんべヱが顔を覗き込む。その顔が驚愕の色を浮かべていることに見栄ばかりの笑みを見せ、きり丸は揺れる体をなんとか立ち上がらせた。
支えるしんべヱに、小さく感謝の言葉を漏らす。
「悪い、ちょっとした立ち眩みってやつだ。心配いらねぇよ」
「……本当? 医務室に行かなくて大丈夫?」
「ヘーキヘーキ。もうちょいすりゃあ風呂だし、一晩寝りゃあすぐ治る。それより図書室から借りた本、読み掛けなんだよなー。早く返さねぇと、また怪士丸に怒られちまう」
不安げな声にわざと飄々とした口調で話題を逸らし、開けたままだった木戸を後ろ手に閉める。それが閉まりきる直前、不意に振り向いたきり丸はぞくりと背筋の凍る思いをすることになった。
山向こうへ沈みかけている巨大な細い月が、血の色をして覗いていた。
総毛立つ感覚に、今度は支えも利かずに崩れ落ちる。
「きり丸!」
しんべヱの声に返答も出来ず、身を襲う不吉な予感に身を震わせる。玉のような汗が額に浮き上がり、それが重力に従って床に丸い染みを作り出した。
がちがちと震える歯が、不快な音を奏でる。
「きり丸、顔色が真っ青だよ。やっぱり医務室に」
掛けられた言葉と肩に添えるように置かれた手の平に、血が逆流するような錯覚に襲われた。
「っ、だからいいって!!」
声を荒げ、音を立てて手を弾く。ぱしんと乾いた音が壁に反響して響き、きり丸は自分の仕出かした行為に、先程の震えとは別の意味で青褪めた。
心配してくれた友人に言い訳のしようもないことをした後悔で、指先が震える。
しかし謝ろうと顔を上げた先には、いつものように困ったような笑顔が見下ろしていた。
「ごめんね、おせっかいで。体がしんどい時に、横からゴチャゴチャ言われちゃうと鬱陶しいよねぇ」
まるで自分が悪かったように反省の態度を見せたしんべヱに、きり丸の目が呆然と見開く。震えは止まり、冷や汗も流れはしても新たに浮かんではいなかった。
それを笑って見下ろし、しんべヱが押入れの戸を開ける。
「でもやっぱり心配だから、今日は早めに寝よう。あとで桶に水張って持ってくるからさ、手拭浸して、それで汗を流したらいいよ。それとそうだ、伏木蔵に頼んで医務室の薬茶を少しだけもらってくるね。夜中に起きて喉が渇いてたら、それもしんどいもんねぇ」
静かな所作で布団を敷いていく姿に、きり丸の視界が軽く潤む。全体的に自分が悪いことなど理解している分、こうして甘やかされていることに目頭が熱くなった。
ごめんと小さく呟けば、いいよと返る。
「はい、敷き終わり! きり丸は着替えて横になってて。僕は伏木蔵のところに行ってくるね」
体重の関係で決して軽くは見えない足取りではあるものの、布団の隙間を擦り抜けるようにしんべヱが退室する。それをぐずついた鼻を鳴らして見送り、きり丸はのそのそと用意された夜着に手を掛けた。
するりと着物を脱ぐ間も、先程の反省は消えない。けれどそれ以上に、一人になった途端に量を増して押し寄せたどうしようもない不吉な予感に顔を顰めた。
■ □ ■
時と場所は移り、そこは乱太郎と兵太夫が学園長から指示を受けた城の二の丸だった。
外堀には内部へ渡るための橋が三本架かり、渡った先にある三つの門全てに二人の門番がつく。二の丸はそれを越えた先にあり、内堀に至るまでの守りを固める配置になっていた。
その地下にある武器格納庫に潜り込み、二人はどこか拍子抜けしたような息を吐く。
「……ちょっと簡単すぎじゃない?」
「奇遇だね。僕も今同じことを考えてたよ」
思わず漏れ落ちた乱太郎の言葉に肩を竦め、兵太夫が眉間を寄せる。懐に忍ばせた打竹の火で辺りを見回し、異常がないことを確認した。
入り口は自分達の入ってきた一つしかなく、地下であるために窓もない。天井側に小さな空気穴がいくつか開いているだけで、とてもではないが人が忍べそうな隙間は見当たらなかった。
見えるのは眠りについた武器ばかりで、生き物の気配がないことに肩を落とす。
「手早く終わらせちゃうよ。見たところ特殊な装備や珍しい武器はないみたいだけど、なんだか早く帰りたい気分だね」
「だね、同感。ここにあるのも石火矢、槍、弓、それに多少の種子島と……まぁ火薬の保有量が少し多いくらいな感じかな。それにしたって他の城と比べれば可愛いもんだよ。脅威らしい脅威なんてここを見る限りじゃ見当たらないね」
兵太夫の言葉に頷きつつ、乱太郎は各武器の個数と簡単な絵を書き取っていく。さらさらと筆を滑らせるその姿を尻目に、兵太夫は懐に忍ばせた城の見取り図を取り出した。
外堀から繋がる橋の位置や二の丸、本丸などの主要な建物の位置に加え、小さなバツ印が目を引くそれに、難しい表情で長く息を吐く。
それは学園長が依頼人に渡され、結果、兵太夫達へと渡されたものだった。
「……確かにカラクリはたくさん仕掛けてある。でもやっぱりこれ、どうみてもおかしなところにばかり仕掛けてあるんだよな。こんなところに仕掛けたって、曲者は絶対に引っ掛かんないっていうか……うん。やっぱり変だ。あー乱ちゃん、そこ踏んじゃ駄目ー」
「へ? おぉー、危ない! ありがと兵ちゃん」
「どういたしまして」
不自然な盛り上がりを見せる床板を指差した兵太夫に、危うく足を踏み出しかけていた乱太郎がぴたりと静止する。ふらりと片足でバランスをとりながら感謝を告げる言葉に、嬉しそうに笑みを見せた。
しかしそれも長くは続かず、また見取り図を睨んで小さく唸り声を上げる。
「……ねぇ乱太郎。妙な話だと思わない?」
「うん? なにが?」
「依頼人だよ。なんで学園に頼む必要があったのかな」
神妙な声を落とす兵太夫に、帳面に筆を走らせていた乱太郎の手が止まる。顔を上げたまま首を傾いで考え込んだ姿に、カラクリ技師はじれったそうにその場で軽く足踏みした。
「だーかーらーさぁー! その依頼人、この城の得体が知れないからって学園に依頼してきたでしょ? なのにこの見取り図を見ると、内堀までにあるカラクリや罠は詳細に書き込んでくれてるんだよ。普通そこまで出来るなら、自分達でここまで入り込めると思うんだよな。乱太郎だっておかしいと思ったろ? この城、衛兵の数がやたら少ないんだ。いくらカラクリがたくさん仕掛けてあるって言っても、正直これじゃあどうぞ攻めてくださいって言ってるようなもんじゃない? 忍び込むのだって自分達でなんとでもなりそうなもんだよ」
「……確かに」
力説した兵太夫の言葉に頷き、パタリと帳簿を閉じる。文字を書きかけていた筆もしまい込み、二人は出入り口のほうを見遣った。
「でもそれ、ここに来るまでに気付きたかったかな」
「違和感は感じてたんだけどさ。ごめん」
「許すよ。今更言っても仕方ないもの」
諦めたように笑う声を遮るように、唯一の出入り口が開かれる。そこには槍を持った衛兵が並び、矛先を向けて二人へと距離を詰めてきた。その人数は狭い格納庫を一杯にするほどではあるもののやはり数としては随分と少なく、乱太郎と兵太夫は違和感に目を見交わした。
ただし逃げられるほどの隙間もなく、大人しく両手を挙げる。
「なんかありそうだね、兵ちゃん」
「だね。胡散臭さが五割増」
「そりゃ豪気だ」
茶化し言葉を呟く二人に衛兵が縄を掛ける。それを一人、具足もつけずに烏帽子を被った男が格納庫の入り口からにやついた目で眺めていた。
主犯格はこいつだと直感で悟りつつ、後ろから小突かれるままにのろのろと足を運ぶ。これから牢へ連行されなにがしかの尋問を受けることを当たり前に受け入れながら、乱太郎は口の中で小さく、出立前にした約束を反故にすることを親友達に謝罪した。
(以上、序文全文)
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