序 章
外から聞こえる蛙の鳴き声に耳を澄ませ、金吾は刀の手入れに意識を集中していた。
既に夜は更け、当日分の委員会や鍛錬も終えた涼やかな室内。そろそろ秋口に近付いてきたのか先日までの蒸すような暑さはすっかりなりを潜め、むしろ過ごしやすい気候と吹き込む風がその心地良い冷たさで疲れた体を癒やした。
そういえばと風呂上がりの熱さもさほど気にならなくなってきたことに気付き、ますます秋の気配を感じて格子窓越しの満月を見上げる。
月はゆっくりと中天への道を辿り、あと半刻もあれば昇りきる頃合いに見える。雲一つない空とその明るさに目を細め、この日の深夜は蝋燭の灯りがなくても充分周りが見えそうだと薄く笑んだ。
隣にいる喜三太は、それまで散歩と称して室内に放していたナメクジ達に丁寧に声を掛けてやりながら壷へと戻す作業をたった今終えて、最後にお休みと囁いてからその蓋を閉める。充分以上に愛情を孕んだそれをいつものこととして柔らかな視線で見遣り、金吾は最後の目釘を打ってゆっくりと息を吐いた。
「ナメさん達に、挨拶終わった?」
「うん。みんな今日は疲れたから、もう眠いんだって」
「そっか」
相変わらずナメクジ達と本当に会話でもしているかのような温かな声音に目を伏せ、手入れに使っていた打粉や油を片付ける。既に敷かれている布団を踏みつけながらそれらを戸棚の引き出しへとしまい込むと、行儀が悪いよと膨れたような声が鼓膜を揺らした。
それに意外そうに目を見張り、首を傾ぐ。
「喜三太が行儀について口を出すなんて珍しいな。どうした?」
「ちょっと、それ結構失礼な発言だよ」
「ごめん」
素直に謝罪する金吾に仕方なさげに眉間を寄せ、やはりまだ不機嫌が治らない様子で溜息を吐く。その音にちらりと目を泳がせ、困り果てて頭を掻いた。
「ホントに意外だったんだ。悪かったよ」
心底気まずげに肩身を狭める金吾へちらりと視線を寄越し、少し逡巡する様子を見せて頬を掻く。それにすらまたどうしたものかと慌てた内心が透けて見える様子に、喜三太は可笑しげに噴き出した。
小さく漏れ落ちた笑い声に、からかわれたと知った金吾の顔が瞬時に赤く染まる。
「っ、喜三太!」
「ごめん、だってあんまり真面目に謝るもんだから」
謝罪の言葉を紡ぎつつも未だ楽しげに肩を揺らす仕草に、今度は金吾が拗ねたように唇を尖らせて視線を逸らす。それに慌てたように正面から抱きつくと、喜三太は柔らかな頬を擦り寄せた。
「ごめん、拗ねないで金吾」
「……悪かったと思ってるか?」
「思ってるよ。ごめんなさい」
眉尻を下げてしがみつく同室者に溜息を吐き、分かったと呟いて背を撫でる。その布越しの感触に嬉しげに笑み、さらに力を込めて抱きつき直した喜三太に金吾は困ったような笑みを浮かべた。
まるで犬か猫だと呟けば、にあーと鳴き真似が返る。それに笑い、じゃれるように喉を擦ってやればゴロゴロと鳴きながら嬉しそうに頬を寄せた。
不意に、ネコになりきっていたはずの喜三太が顔を上げる。
「そういえば金吾、この前の話聞いた?」
「この前の話?」
「うん、二年生の話。この前の休みの日に大変だったんだって」
くすくすと喉を揺らす喜三太に対し首を傾ぐ金吾の様子に、まだ聞いてないんだねと頬を撫でる。その手の好きなようにさせてやりつつ、まだ年若い剣士はその話題に興味を惹かれて目を細めた。
「大変ってどんな風に?」
「聞きたい?」
「聞きたい」
甘やかな声音で応えれば、柔らかな髪がまた笑みに揺れる。それが腕の中から逃れないようにと胡坐の上に抱き込んで、金吾は静かにその笑みが止むのを待った。
やがて愉快そうに細まった瞳が、いっそ得意げに唇を開く。
「あのねぇ、その子達は三人で休みの日だしって裏山にハイキングに行ってたんだって。まぁそれはすっごく楽しかったらしいんだけど、その後が大変でねぇ。帰り際、言い出しっぺの子にとっての好きな子と親友が、同時に崖から落ちそうになっちゃったんだ」
「えっ! それって本当に大変じゃないか!! 大丈夫だったのか?」
「大丈夫じゃなかったら、こんな噂程度で済んでるわけないよ」
「あ……そっか、そうだよな」
早合点に頭を掻くと、腕の中でまた緩やかに髪が揺れる。相変わらずの笑い癖だと額を合わせれば、金吾にも移るでしょうとまた楽しげに言葉が漏れた。
「運が良くって、三人ともちゃんと無事に帰ってきたんだけどね。でもまるでお話の中の出来事みたいだよねぇ。例え話で面白おかしく話すことはあっても、実際にそんな現場に行き当たることなんてないもんだしさ」
「まぁ、そりゃそうだよな。そうそうあって欲しくもない話だし」
肩口に頬を寄せられる温かさに背を撫でつつも、苦笑するように眉間を寄せる。その後まるで話は終わってしまったかのように心地よさげに甘える喜三太に、区切りの悪さを感じて僅かに身じろいだ。
その金吾を不思議そうに見上げ首を傾ぐ瞳に、当然の興味を口にする。
「それで?」
「うん?」
「その子、どっちを助けたんだ?」
好奇心を隠さず問い掛けられた言葉に喜三太はぱちりと瞬き、意外そうに唇を尖らせる。その反応になんだよと気まずげに目を泳がせ、金吾は俗な興味を持った自分を恥じたように僅かに言葉を濁した。
「……だって、そりゃ気になるじゃないか。例え話をする時だって、選択を迫る時に使うのが通例みたいなもんだし」
その返答にまた数度瞬き、それもそうだねと肩が揺れる。その笑みがまたある種の羞恥心を煽り、金吾は照れ隠しに腕の中の体をくすぐりにかかった。
突然の攻撃に成す術もなくはしゃいだ声を上げる喜三太を、そのまま布団へと組み敷いては脇腹を擦るように弄り続ける。
「待っ、待って待って、アッハハハハ!! ダメだって、これ、じゃ、話、話せないってばぁ!!」
文字通り笑いながら転げ回る姿に満足げに目を細め、手を休めて息を整える様を観察する。その視線に何度目かの深呼吸の後に気付き、喜三太は嬉しそうに笑みを見せて見上げた先にあるその頬に手を伸ばした。
撫でる手をまた好きにさせ、金吾も警戒心なく瞳を閉じる。
「ねぇ、金吾。金吾だったら僕といぶ鬼が落ちそうになってるとき、どっちを先に助ける?」
囁くような声音に、思わず目を開いて怪訝に眉間を寄せる。
「喜三太。今は僕の話じゃなくて」
「金吾が応えてくれたら教えてあげる。でも、適当な返事はダメだよ?」
「えー……」
些か理不尽さを感じずにはいられない要求に、眉間を寄せながらも真剣に想像力を働かせる。
想像の中での崖は、辺りを闇に詰まれた岩場のような場所だった。覗き込もうとしたところで、その先に川はおろか木々さえ見えるはずもない。
そんな場所で、敵味方の間柄を超えて親友の縁を結んだいぶ鬼と、この六年間寝食を共にしそれなりに想いを交し合ってきたと自負する喜三太が生命の危機に瀕しているなどと。
金吾にとっては、想像するだけでも身震いを起こしそうな状況だった。
「……答えなきゃダメか?」
「ダメだよ。泣きそうな顔して困ってもダーメ。時間はかかってもいいから、ちゃんと答えを教えて」
困り果てた様子で寄せられた眉間を指先でなぞる喜三太に、諦めたような溜息を吐いて額を寄せる。その重みに笑った声が、不意打ちのあくびに歪んだ。
ふわふわと開かれてはむずがるように閉じられるその口に、もう寝ようかと小さく笑う。
「明日一日頑張って考えて、それから答えるよ。だからもうお休み喜三太」
「ん。お休みぃ金吾」
しぱしぱと眠たげに瞬いた喜三太が、遠慮もない様子でそのまま目を閉じる。そこで冷静に考えてみれば、今その身を押し倒していたのは自分の布団ではなかったかと気付いた。
既に閉じた目は開く様子も震える様子もなく、穏やかな寝息が薄い胸を上下させる。その寝顔に仕方ないとばかり唇を苦笑に歪め、蝋燭の火を消してから抱きかかえるように一つの布団に治まった。
布団を被っただけで、じんわりと身に染みる体温に目を細める。
「お前はホントに、いつまで経っても子供みたいだな」
柔らかな髪を撫で、月明かりに照らされる頬をなぞる。どうやら随分と眠気が襲っていたのか、その程度では起きる気配もない姿に喉を揺らした。
心を許しきった寝顔を眺めながら、改めて先程の問いについて思考を廻らせる。
崖の上には自分と、そして喜三太といぶ鬼。ただし自分以外の二人は今にも転落しそうに岩場にしがみついている状態。辺りには民家もなく、助けを呼ぶことも出来ない。そして二人ともが、言葉もなく自分を見つめているような、そんな。
やはり、思考は中断されて困惑のままに溜息が口をつく。
「……ダメだ、状況を想像するだけでいっぱいいっぱいになる……」
自分の危機対処能力のなさに絶望し、結論の出ない考えに頭を掻く。そのためかどうかは知らないが、睡魔が訪れる気配も一向になく、自問自答を繰り返すばかりの現状を悲観して枕に顔を埋めた。
腕の中で安らかに眠る顔に、恨めしげに小さく愚痴を零す。
「やっぱりこういう質問は意地が悪いよな。考えるだけで心臓に悪い」
熱の篭った掌に触れ、軽い八つ当たりで親指の柔らかな肉をつついてみる。それにひくつくように動いた指に、忍び笑いを漏らした。
「まぁそれでもやっぱりちゃんと答えてやりたいし、また頼りがいのありすぎる級友達のご助力を請うしかないか」
微かに気の進まない様子を見せ、どうせまたからかわれるんだろうけどと苦笑する。差し込む月明かりで額に影を落とす髪をそろりと除いてやり、そこに静かに接吻けた。
「お休み喜三太。出来れば明日、僕があいつらに弄られないことを夢で予見しててくれ」
無理だと分かりきっている願いを口にして、自身もゆっくりと瞼を下ろす。思考は未だぐるぐると詮ないことが廻り続けているものの、あえてそれに無理を決め込み唇を軽く噛み締めた。
翌日は普段よりも早く終業の鐘が鳴る。それを考え、まずは外出者が出る前に話を聞かなければと霞む意識の中で小さく呟いた。
(以上、序文全文)
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