序 章


 山には、子供の泣き声が響いていた。
 服は泥に汚れ、背負っていたのだろう風呂敷包みも見る影はない。地面に放り出されたそれは皺の隙間に砂利を屯させ、一層に哀れを誘う。泣きじゃくる子供は縋るように同窓らしいもう一人にしがみつき、かと言ってそちらはと言えば恐怖のあまりか血の失せたままガチガチと歯を鳴らして、一声も発することも出来ずその場に蹲っていた。
 足元には無数の足跡が砂利を踏み荒らし、それに取り囲まれるように身を縮めた二人の子供はただ泣くこと、そして震えることしか術を知らないようだった。
 陽は既に、見る間に山向こうへとその身を沈めていく。空の色は朱を通り越して闇の浸食を随分と許し、風すらも冷たさを連れてくる逢魔が刻。それでも二人は動くことすらままならない。
 忍術学園の休日、その日没。
 町へ買い物に行くと事務員に言い残したまま帰らない最少学年の二人を案じた教師が迎えに現れるまで、二人の子供はその場で震え続け、泣き続けていた。
 その事件から、話はおよそ七日後へと移る。
 授業を終えた後すぐに学園長の庵へと呼ばれた庄左ヱ門は、夏の近付く時節にあって涼しさを感じさせる鹿威しの音に耳を澄ませながら静かに茶を点てていた。元より茶を嗜むことを趣味とすることから、例え呼ばれて即座に茶の催促を受けたところで別段驚きもしない。むしろこの老傑に関して言うのならば、それ以上の無理難題でなかったことこそ幸運と思うべきだと、所属する委員会の活動からも心得ている様子だった。
 茶筅を置き、手前へと差し出せば嬉しそうにしわがれた笑みが零れる。それにゆっくりと差し向かい座を正せば、老人は茶碗へと手を伸ばしながら口を開いた。
 ちらりと窺うように開いた目が、物言わず見つめてくる双眸に細く歪む。
「用向きの仔細を急かすような目じゃな」
「いいえ、急かすつもりなど一切。ですが茶を点てるためだけに呼ばれたのではと、戦々恐々とはしています」
「馬鹿なことを。いかに儂でも、それほどの我儘を言うようなボケじじいではないわ」
 おどけるような言葉に愉快そうに笑い、茶を一口啜ってから碗を下ろす。その手が静かな動作で膝上に置かれるのを見届け、庄左ヱ門はゆっくりと顎を引いた。
 鹿威しの音が、また一つ庵に響く。
「お主を呼んだのは他でもない。六年は組に山賊退治を命じるためじゃ」
 山賊という言葉に、大きな瞳が伏せられ思考を巡る。七日前に学園の下級生二人が山賊に襲われ、教師に伴われて戻ってきたのは記憶に新しい。しかもそれが保健委員会、体育委員会所属の後輩だったこともあり、その夜から翌日にかけ、乱太郎と金吾が被害者二人の精神的な介抱のために走り回っていたことも思い出される。
 そこまでを思考に上らせ、庄左ヱ門の目が再び学園長を見た。
 予備知識は既に準備を終えたと言わんばかりのその視線を受け、皺だらけの顔は薄く笑みを浮かべる。
「お前も知っていようが、七日前の事件を皮切りに裏々々山では次々に物盗りが起きておる。最初の三日は被害も少なかったので食うに困った流れ者の仕業かと思い放っておいたんじゃが、どうもこの四、五日で山賊として居ついてしまったようでの。町人や下級生などは、五人ほどで組まねば獲物と見做すらしいことも分かっておる。……しかも山のあちこちで出ておることから、相手はなかなかの人数であることが予想される。とんだ馬鹿どもよ」
 叱責するような口調で吐き捨てられた言葉に、庄左ヱ門から思わず苦笑が漏れる。それに気付き恥じらうように咳を払うと、学園長は改めて柔らかな表情を作り、向き合った。
「とまぁ、そんなわけでの。無論このままでは学園生徒の安全も確保できねば、町民にとっても不便でならん。そこでお前達に山賊退治を依頼しようと思ったわけじゃ」
 再度茶を啜る学園長の言葉に動じず、むしろ無感動と言った様相で瞬きを繰り返す。その反応になにか質問でもあるのかと問えば、はいと無遠慮な言葉が返った。
「い組が現在別忍務に従事していること、また、ろ組が忍者食の勉強のために黒古毛先生の所に行っているのでこのお話が僕達に回ってくるのは理解出来ます。それに勿論こうして学園長先生から直接仕事をお受けするのはやぶさかでないのですが。僕に話して頂く前に、山田先生と土井先生に了解をとって頂くのが筋ではないでしょうか」
「つれない言い方をするのう。心配なぞせずとも、二人には話しておる。その折に庄左ヱ門が承知するのならばと言われたために、お主に直接問うたまでじゃ」
「なるほど、納得しました。これはとんだ失礼をば」
 芝居がかった口調で笑みを見せる庄左ヱ門に、数代前の在校生に似てしまいおってと悪態が漏れる。けれど言われ慣れてしまったそれはむしろ自身への最高の称賛とばかりににこやかな笑みを浮かべ続ける表情に、老人は諦めたように息を吐いた。
「さて、ではどうかの庄左ヱ門。色好い返事はもらえるものか」
 その言葉に庄左ヱ門は目元を改め、流れるような動作で頭を下げる。
「返答をと請われれば先程と同じ。勿論謹んでお受け致します。今回の件がどこかの城絡みで、結果によっては学園を取り巻く環境を左右するようなものではなく、ただの山賊退治ということであればうちのクラスの連中も喜ぶでしょう。なにより町の人達と後輩達が困っているのを見ているだけというのは忍びないと、まさに昨夜話し合っていたんです。あと数刻お言葉が遅ければ、また自分達で事を起こすところでした」
「またか! お主らのそれは、いつまで経っても治らん癖のようなものじゃな」
 呆れるような言葉とは裏腹に、その声は楽しげに弾む。
「では六年は組の独断でなく学園長命令ということを知らしめるためにも、今回の騒動を見事治めた暁には褒美をやらねばならんな。事を急く必要はないが、迅速に全て治まるのであればそれに越したことはない」
「はい」
 全て心得たとばかり目を伏せ、茶を啜る学園長に一礼して立ち上がる。そのまま退室していく背中に、老人は今一度声をかけた。
「庄左ヱ門。くれぐれも敵を侮ってはいかんぞ」
 厳しく言い含めるような口調に立ち止まり、一瞬考え込むように目を泳がせたかと思えば次の瞬間には噴き出すように笑う。その庄左ヱ門になにがおかしいと憤慨して見せれば、顔を覗かせた表情は泣き笑いを浮かべていた。
「三禁を犯す僕達が三病まで患ってしまったら、もう完全に忍者失格じゃないですか。いくら長年アホのは組と呼ばれ続けているとはいえ、それは勘弁してください」
 喉を揺らしながらのその言葉に一瞬呆気にとられたように口を開け、発言した当人である学園長も思わず声を上げて笑う。確かに酷い物言いじゃったかもしれんと豪快に笑うその姿に困ったように肩を竦め、庄左ヱ門は笑い声を背にして音もなくその場を後にした。


  ■   □   ■


 忍務の依頼が来たからには全員を招集しなければと、思索しつつ六年は組の忍たま長屋へと差し掛かる。まずは部屋の近い金吾と喜三太からかと角を曲がれば、視界に飛び込んできた光景に庄左ヱ門は苦笑を漏らし、順番など初めから意味はなかったのだと頭を掻いた。
 鋭い金属音と、乾いた音。それが幾度も畳みかけるように耳に届き、まるで出来の悪い打楽器のように鼓膜を揺らす。鉄双節坤を振るう団蔵と真剣を抜刀した金吾、そして素手の虎若が遠慮の欠片も見せず組み合い汗を流しつつ楽しげに笑っている姿に、呆れたように唇を開く。
「三人とも、相変わらず精が出るね」
「ッ、庄左ヱ門」
 声に気付き、金吾の肩に坤を叩きこもうとしていた団蔵の動きが止まる。それを合図にしたようにぴたりと静止した三人は、それぞれに相手に怪我を負わせる直前の状態で振り向いた。
 頭から水でも被ったかのように汗を流す三人が、息も乱さず歩み寄る。その持久力と体力に素直に感心しながらも、先程までの危うさすら感じる場面に眉間を寄せた。
「どうでもいいけど、実際の得物で組み手をするのはどうかと思うな。そのうち怪我するよ」
「大丈夫だって。むしろこっちの方が緊張感持てて、感覚が研ぎ澄まされるっつーか」
「それならいいけど」
 楽観的に笑って見せる団蔵に肩を竦め、しかも概ねその意見に同意しているらしい金吾と虎若にも苦笑を漏らす。しかし聞きたいのはそんな話ではないのだと言いたげに庄左ヱ門の様子に焦れた団蔵が、軽くその場で飛び跳ねた。
「んなことより、学園長に呼び出されてたろ? なんだった?」
 問い掛けながらも、その内容を予測しているのか目が輝く。期待に満ち満ちたその表情は団蔵だけでなく残る二人にも共通しており、やはりこの三人は他より血の気が多いようだと呟いて庄左ヱ門はやれやれと頬を掻いた。
「それについて詳細を話すから、井戸で汗を流したら僕の部屋に来てくれるかな。そのままだと伊助にも、乱太郎にだって叱られるよ」
「忍務!?」
「うん、忍務。だから寄り道するなよ」
「いよっしゃー!」
 忍務と聞くや否や、先を争うように井戸へ駆け出す。三年になった頃から何かにつけて競い合いじゃれる三人の後ろ姿を見送り、庄左ヱ門は満足げに笑みを浮かべた。
 そこから数歩進み、山村、皆本の表札の掛けられた部屋の木戸を叩く。
「喜三太、今いい?」
「いーよー」
 のんびりとした返答に、遠慮なく扉を開く。開かれた部屋の中央で背を向けたままキノコを選別しているらしい喜三太に、庄左ヱ門は返答を予想しながらも声をかけた。
「さっき外でしてた話、聞いてた?」
「はにゃ? なにか言ってたっけ?」
 ようやくになり、首を傾いで振り返る。その返答に予想通り過ぎると苦笑を漏らして肩を落とし、改めて満面で笑んで見せた。
「面白いこと始めるから、それを片付けたら部屋においで。今からみんなも呼ぶから」
「ホント!? 行く行く! わーい!」
 はしゃいだ声を上げてキノコを放り投げる喜三太に、粉末でなかったことを心から幸運に思う。同じ薬物系を主とした戦術使いでありながら、乱太郎と喜三太は毒と薬の割合が真逆なだけに咄嗟の対応に冷や汗が出た。
ともあれ伝えるべきことを伝えて扉を閉めると、そのまままた歩を進め、今度は笹山、夢前と表札のかかった木戸を叩く。
 中から微かに響いた、木片が落ちるような音に短く息を吐き、あえて扉を開かないまま声を掛けた。
「兵太夫、三治郎。忍務の話をしたいから、僕の部屋に来て」
 声に対し、不服を訴える言葉が返る。
「えー。うちの部屋に顔は覗かせてくんないの、庄左ヱ門」
「喜三太だけ贔屓ー。庄左ヱ門ってば、団蔵と伊助と乱太郎と喜三太には甘いんだぁー」
 兵太夫に続き、不貞腐れた言葉で便乗する三治郎の声に喉を揺らす。そんなつもりはないけれどと笑って木戸に手をかければ、やはり木片が落ちるような音が鼓膜を揺らした。
 その音に、ゆっくりと手を戻す。
「顔を覗かせた途端にカラクリにかけてやろうと、手薬煉を挽いて待ち構えてるところにわざわざ嵌っていく愚直さは持ち合わせてないよ。僕は臆病だからね」
 茶化すような言葉に、楽しげな笑い声が中から響く。どうやら返答はお気に召したらしいと唇を吊り上げると、するりと音がして中から兵太夫が顔を覗かせた。
 体と木戸、柱の僅かな隙間から覗き見える室内は、咄嗟に組まれたらしい糸仕掛けのカラクリでごった返していた。その中で、作動に至らなかったカラクリを回収している三治郎が目に入る。
 片付けを全て任せ、兵太夫がまだ可笑しげに笑った。
「庄左ヱ門の慎重さはいいね。気持ちいいよ」
「抜け目ないカラクリ技師殿にお褒めに預かるとは痛み入るよ。なんせこのクラスを纏めて六年だからね、慎重さを必要とするところには予め気を配っておかないと」
「新作の生首フィギュアのお披露目をしたかったのに、残念。で? 今回の忍務にカラクリは御入用かな?」
 にっこりと問う声音に、中の三治郎も関心は同じなのか瞳が輝く。相変わらずのカラクリ技師ぶりだと笑うと、それはもうと優美でありながらも強気な笑みが返った。
 その笑みに対し、少し困ったように視線をそらす。
「今のところ、カラクリの出番の有無を判断することは出来ないかな。でも、攻めるべき場所がはっきりと分かってそれが可能なら、必ずお願いするよ」
「んー、そっか。了解。部屋を片付けたら、そっちに行くよ」
「よろしく」
 ひらりと手を翻す兵太夫に笑って返し、自室を通り過ぎて最後の一室の前に立つ。今度は木戸を叩くことなく、邪魔するよと一言だけ断ると遠慮なく扉を開いた。
 くつろいだ様子で菓子を頬張っているしんべヱと絵巻物を楽しんでいたらしい乱太郎が、朗らかに応じる。
「あ、庄左ヱ門お帰りぃー。学園長のお話、なんだったの? また迷惑な思い付きー?」
「またみんなが疲れるような無理難題を吹っ掛けられたんなら、薬用意しとかなきゃいけないから先に言っといてね。モノによっては材料から調達しとかなきゃいけないから」
 にこやかな表情からは些か不釣合いな、もはや学園長に振り回されることに慣れ切ってしまったかのような達観した言葉に思わず苦笑する。ある意味一番頼もしいよと笑うと、そこで本来この場に同席しているはずの姿がないことに気付き、庄左ヱ門は数度瞬いて首を傾いだ。
「きり丸は?」
「バイトの洗濯物だよー」
「昨日町に出て、洗濯物のバイトを十三件分引き受けてきたんだって。今は井戸にいるよ」
「……さすがの山賊も、見るからに大量の洗濯物を背負って山を登るきり丸を襲う勇気はなかったんだろうなぁ……」
 頬を掻く庄左ヱ門の冷静さに二人も苦笑するも、山賊という物騒な言葉に用件を察したのかちらりと視線を交わす。それに気付いたのか、級長は元々の目的を思い出し表情を柔らかな物へと戻した。
「井戸にいるなら、きり丸には団蔵達が教えてくれるだろうからいいや。学園長からの話の件なんだけど、忍務の依頼でね。詳細や作戦について話し合いたいから、部屋に来てくれる?」
「さっき言ってた、山賊関連?」
「ご名答。先に行ってるから、しんべヱのお菓子を片付けてから来てくれ」
「はーい」
 声を揃えての快活な返事に笑みを残し、今度こそ自室へと足を踏み入れる。そこには既に声を掛けた面々ときり丸、そして自室のもう一人の主である伊助が心得たように車座に腰を下ろしているのを目に留め、驚いたように目を見開いた。
「みんな早かったね。伊助には今から話すところだったのに」
「お帰り庄ちゃん。私は外の声でなんとなく事情は察してたから、大丈夫だよ」
 にっこりと笑みを浮かべる伊助にただいまと笑い返し、隣に腰を下ろす。その途端待ちきれない様子で膝を進めてきたきり丸が、目を銭のように輝かせて詰め寄った。
「で! ご褒美は!! アリか、ナシか!! むしろアリか!!」
「きり丸、話を先取りしすぎだよ。まだ乱太郎としんべヱが来てないじゃないか。ちょっとは待とうよ」
 餌に飢えた犬のように息を弾ませるきり丸を手で制すと、隣室の木戸が閉まる音がする。どうやら噂をすればと言うやつだと頭の中で呟けば、間もなく音を立てて扉が開いた。
 既に全員が揃っているのを目にし、乱太郎達は慌てたように部屋に足を踏み入れる。
「ごめん、まさかもうみんな揃ってるとは思わなくって」
「知らないうちにお菓子が零れちゃってて、掃除してたんだよー」
 情けなく眉尻を垂れ、きり丸の両脇に開いた場所に腰を下ろすしんべヱの言葉に、むしろ伊助は勢い良く親指を立てる。
「いや、むしろしんべヱは良く頑張った! 掃除はいつやったっていいんだから! 褒めてあげる!!」
「わーい、伊助ちゃんに褒めてもらったー」
「よかったねぇしんべヱ」
 喜色に染まった声音で室内が騒がしさを増す中、庄左ヱ門は微笑を浮かべて改めて車座を見渡す。ずらりと並んだ十の顔。そのそれぞれが次第に口を噤んで静けさを取り戻すと、級長は期待に満ち満ちた視線を受けて口を開いた。
「先に、最も重要なことを話しておこう」
 静かな声に、場はさらに静まり返る。外で遊ぶスズメの小さな囀りさえも聞こえる静けさの中で、庄左ヱ門はちらりと視線を廻らせ、そして嬉しげに表情を緩めた。
「今回は、ご褒美が! あります!!」
「よっしゃああああ!!」
 褒美の一言に、静けさを打ち破って室内が沸き上がる。高騰しきった気分を隠しもせずに手を叩き合い、果ては握手まで交わす級友達を見守り、庄左ヱ門は頃合を見計らって大きく手を打ち鳴らした。
 水を打ったように静まった面々に、再び静かな声音が紡がれる。
「標的は近頃、裏々々山を騒がしている山賊だ。乱太郎と金吾は、後輩を襲われた恨みもあるね。だけどあくまで私情は挟まず、冷静に指示を実行して欲しい。忍務内容は山賊退治だが、無駄に痛めつける必要は微塵もない」
 その言葉に、乱太郎と金吾が静かに頷く。元より私情に走って策を台無しにする愚行を犯すつもりはないと言いたげな表情だったが、庄左ヱ門の言葉がそれを危惧してのものではなく、ただの注意事項だということもまた理解していた。
 その心情すらも汲み取り、策士は悪戯を企む子供のような笑みを見せる。
「僕らの信条は不殺の精神。……さて、では諸君。慌てず騒がず侮らず、全力を以って祭の準備を始めようか」
 ニィと吊り上がった唇と高らかな声に、全員が楽しげな笑みで応える。それに満足げに笑み、庄左ヱ門は作戦用の大きな紙を中央へと投げた。



(以上、序文全文)