頭上に鐘は鳴らねども!

 梅雨もそろそろ明けようかという、カラリと晴れた朝だった。
 この日は珍しく公園の噴水ではなく、早朝開店の銭湯で身支度を整えたらしい二人からは、ほんのりと安物のボディーソープの香りが漂っていた。
 モーニングタイムのホンキートンク。
 手軽な値段設定のおかげかちらほらと常連客が席を賑わす中、どこかそわそわとした様子でドアを気にしている蛮と銀次の姿に、サンドウィッチの準備を進めていたレナが不思議そうに首を傾いだ。
「どうしたんですか二人とも、今日はずいぶんキレイなんですねぇ」
「え、そぉー?」
 にへりとだらしなく緩んだ銀次の返答に、また反対側に首を傾ぐ。
 それを半ば呆れながら見遣り、コーヒーを注いでいた波児が小さな溜め息を吐いた。
「どうせ昨日連絡のあった、声からして綺麗な女の依頼人さんを待ってんだろ? 単純ったらねぇなぁ」
「あぁ、そういえばありましたねぇ。閉店直前に、確かお二人の携帯が珍しく鳴って……」
 唇に人差し指を宛(あて)がい回想に耽(ふけ)った夏実の言葉に、気分を害した様子で蛮が目を尖らせる。
「おいコラ夏実、珍しくってこたぁねぇだろうが」
「まぁまぁ蛮ちゃん、そう怒らないでよ。確かにヘヴンさんの持ってきてくれるお仕事以外じゃ、なかなかこの携帯鳴らないもんねー。こうやってちゃんと依頼が来ると、ビラ配ってた甲斐があったーって感じー」
 うへへと至極幸せそうに表情筋を緩めたままの銀次を見遣り、蛮はこっそりと肩を竦める。
 蛮がこの依頼を心待ちにしているのは財布の中身が既に千円を切っているからという切実な理由があったためだが、銀次の場合それに付加して、依頼人が女性ということも大いに関係しているようだった。
 携帯から漏れ聞こえる声が綺麗だとはしゃいだ様子で目を輝かせていた昨夜の姿からも、それは概(おおむ)ね間違いはない。
 自分とは度合いや種類が違うまでも、充分女性に弱い相棒の姿に少々頭の痛む思いがする。
「あのな銀次、こりゃあくまで仕事だからな? 昨日の電話の様子じゃ、相手はよっぽど切羽詰まってる。しかも正式な依頼説明は朝イチでと申し出てきてるからにゃあ、奪還料を多少吹っかけてもノッてくる案件だ。仏心なんか出してマケるんじゃねぇぞ!?」
「えー……。でも女の人が困ってるんなら、少しくらい……」
「マケた分で俺達が餓死しちゃ意味がねぇんだよ!!」
 すでに食い違いつつある見解を怒りの形相で押し通し、銀次が折れるのを見届けて鼻息荒く座り直す。
 相変わらずの守銭奴ぶりを苦笑いで眺める店員三人の視線を無視しようと、蛮が手持ち無沙汰にメニュー表へと手を伸ばしかけた時だった。
 本来軽やかな音を立てるはずのドアチャイムを騒がしく鳴らし立て、髪をふり乱した女性がホンキートンク店内へと走り込んできた。
「― っ、あのっ、すみませ……! だっか、ん、屋さんは……ッ!!」
 呼吸も荒く、汗を流しながら話すその女性に、店内は気圧された様子で思わず静まり返る。
 しかしはっきりと奪還屋と口にした彼女の言葉に、蛮に言い負かされてヘコみ気味だった銀次が恐る恐ると声を掛けた。
「えっとあの……もしかして、昨日依頼の電話をしてきたのって……君?」
 言葉に、女性は勢いよく顔を上げる。
「指輪! あのっ、指輪をっ、取り返してほしいんです! 婚約指輪なんです……っ!!」
 瞳を潤ませながらそれだけ言い切り、堰を切ったように泣き出してしまった彼女にますます店内は困惑の色を濃くする。
 なんにせよ清々しいモーニングタイムの喫茶店内とは思えない空気に常連客達はなんとなく察した顔で店を後にし、食後にコーヒーをもう一杯という追加注文の機会を逃した波児は、やはり仕方なさそうに肩を落とした。


   ■  □  ■


 辺りは一面、モフモフとした毛に覆われていた。
「……暑い……」
「あーつーいー……。……蛮ちゃん、そっち見つかったァ?」
「ねぇよそんなもん……。つか、湧いて出てきすぎだろこの猫ども……」
 毛とは、野良猫達の柔らかな体毛だった。
 前述したように、この日はカラリと晴れた素晴らしい天気である。
 梅雨明け間近のその気候と言えば、もはや炎天下に近い。むしろほかにどのように表現するのだろうなどと現実逃避をしながらも、蛮と銀次の二人は都内某所の公園、僅かに日陰を作っているその芝生の中で、半ば放心状態になりつつも仕事をこなしていた。
 依頼の仔細はこうだ。
 先日、彼女は付き合って二年になる恋人から婚約指輪と共にプロポーズを受けたらしい。
 それを友人達に話したところ、お祝いを兼ねた下世話トーク満載の女子会が開催されることになったそうだ。
 その女子会というのが、昨日のこと。
 いい具合に女子同士の気兼ねない下世話トークとアルコールに酔った彼女は、千鳥足でこの公園に差し掛かったらしい。
 上機嫌で歩いていた彼女だったが、さすがに飲み過ぎていたのかここで一度気分が悪くなり、ベンチで休憩を取ったという。
 すると、野良猫が人懐こく足に擦り寄ってきたらしい。
 よほどの動物嫌いでない限り、甘えてくる柔らかな生き物という物は可愛いものだ。彼女も無論そういう類の人間だった。
 ただ撫でて愛でるだけならなんの問題もなかったのだろうが、残念ながら彼女はひどく酔って、婚約の幸福感もあってかテンションが跳ね上がっていた。
 よりによって、婚約指輪をチェーンネックレスに掛け、猫達に見せびらかしながらじゃらしたのだと言う。
 ― あとは想像通り。
 つまり彼女はじゃらしていた婚約指輪を、遊び道具として猫達に取られたというわけだ。
 さすがにこの話には、夏実、そしてレナも何とも言えない残念な顔をして依頼人を見つめる他なかった。
 とはいえ蛮と銀次には依頼を断る理由はない。なにしろ婚約指輪のおよそ半額を奪還料として支払うという話を切り出された。
 持参されたジュエリーケースには有名宝石店の名前が入り、宝石鑑定書に書かれていたダイヤのカラット数もそれなりのものだ。しかもリングデザインを聞いて夏実とレナが調べたところ、金額にして三十万程度のものだろうという結論になった。
 となれば、十五万程度の収入にはなる。
 所持金千円未満の現状を考えれば、決断しないわけがなかった。
「だーっ、それにしても暑い! アホか!! 死にくされ太陽!!」
 しかし金が手に入るからと言って、突き刺さる陽光が翳(かげ)るはずもなく。
 麦わら帽子をかぶった蛮は、苛立ちも最高潮に達した様子で空へ罵倒を投げつけた。
「怒っちゃダメだってば蛮ちゃん、余計暑くなっちゃうよー……。ほら、蛮ちゃんが大声出すから猫が逃げちゃうじゃん。おいでおいでー、怖くないよ、かつお節あげるよー? おいしいよー?」
「なけなしの金でどうにか買ってやったんだ。食って機嫌良くなったらとっととお宝持ってきやがれってんだ。……ったく、いっそこいつら全員に邪眼使ってやろうか……」
 掌の上に盛られたかつお節に嬉しそうに群がる猫達を見て、なお蛮は恨めし気に言葉を零す。それを苦笑で受け流し、銀次は手の甲で汗を拭った。
「遊び道具だと思って持って行っちゃっただけなんだし、そこまでしなくても……って、あ! 遊んでやれば持ってきてくれないかな!」
 妙案とばかりに手を打ち、ハンカチを細く結んで簡易猫じゃらしを誂(あつら)える。それを見るや否や瞳を輝かせた猫達だったが、銀次が小手先で軽く左右に振るだけではじゃれついてはくれなかった。
「ほらほらどうだ、動いてるよ、猫じゃらしだよ―! ……んー、ダメかなぁ。遊びたい気分じゃないのかも」
 どうにか気を引こうと一心不乱に猫じゃらしを動かしてみるも、やはり猫達は見ているばかりで動こうとはしない。
 興味はあるのだろうが遊びに興じるにはどこか物足りなさそうな様子の尾の動きに、蛮がやれやれと溜め息を吐いた。
「それじゃやり方がなってねぇンだよ、銀次。ちょっと貸してみろ」
 言って、銀次の手の中からハンカチを掠め取る。
 麦わら帽を脱いで膝に乗せ、その下からハンカチの端をちらちらと見せては隠す。まるでネズミか小鳥が巣穴から覗いているようなその動きに、猫達は今度こそはしゃいだ様子で我先にとじゃれつき始めた。
「とっとっと……! テメェらもうちょっと譲り合いの精神ってモンをだな……! ってオイこら、興奮しすぎだ! 俺様の腕を噛むな!!」
 ギャアギャアと喚きながらも先程よりずっと楽しげに猫と戯れる蛮に、銀次の目がキラキラと輝く。
「スッゲー蛮ちゃん! 上手!」
「そりゃあまぁお前、魔女ってのは猫とは切っても切れねぇ関係に……って、のんきに眺めてねぇでお前も手伝え銀次! 俺だけが猫の毛まみれになるなんざゴメンだぞ!?」
 自慢げに唇を吊り上げていた蛮だったが、猫達のあまりのヒートアップぶりに余裕をなくしつつあるのか銀次へも参戦を要求する。
 確かに蛮へ群がる猫の数を見れば傍観している場合ではないと思い直し、なにか他に遊び道具になりそうなものをとポケットを漁った。
 そこに、にゃあと可愛らしい声が鼓膜を震わせる。
 蛮へ群がりながらの興奮しきった鳴き声でなく、次の遊びをねだるような甘えた鳴き声だった。
 顔を上げると、茶トラ柄の可愛らしい、見るからにメスだろう仔猫がちょこんと座りこんでいる。大人猫達の遊びに圧倒されて近付けないのか、周囲には同様に小柄な猫達が銀次に期待の視線を寄せていた。
 野良猫とは言えど、ドスの利いた貫禄ある猫達とはまた違う姿に思わず感嘆の声を漏らす。
「うわぁ……! 蛮ちゃん蛮ちゃん、見て見て、こいつら可愛いよ!」
「分かったから早くお前も……! お?」
 可愛さに魅了されて興奮する銀次に、蛮が声を荒げかけた時だった。
 銀次と猫達の間に、陽光に反射して輝くものを見止めて思わず背を逸らして覗き込む。
 くしゃりとその場にわだかまって落とされてはいるものの、中央にある一際輝くそれを確認し、蛮は一瞬息を飲んだ。
「っ、銀次! それだ!! 早く取れ!!」
「はへ? んあ……あぁ!? あったぁー!!」
 慌てふためきながら顎で指示を出してくる蛮の視線を追い、銀次もまた歓声を上げる。
 遊び道具として猫が持ってきたのだろうそれは、明らかに奪還を依頼された婚約指輪だった。
 猫達を驚かせないようにゆっくりと手に取り、小さな頭をくしゃくしゃと撫でる。
「持ってきてくれたんだ、えらいなお前ー! 女の子だよな? だからキラキラしたものが好きなのかなー」
 へへへと笑いながら撫でると、早く遊べとばかりに他の猫達がチェーンネックレスに前足を伸ばしてくる。それを慌てて制し、しばらく悩んだ末に銀次は蛮を見返った。
「ねぇ蛮ちゃん。今回の依頼さぁ、指輪の奪還だけだよね? ネックレスのチェーンは言われてないもんね?」
「あ? ……あぁ、まぁそうだな。指輪さえキープできてりゃ問題ねぇだろ。チェーンくらいそいつらにくれてやれ」
「うん!」
 銀次の心情を察したらしい蛮が目を細めると、銀次は嬉しそうに声を上げて指輪を外す。そして依頼の品を大事そうにベストの胸ポケットへと納めると、チラチラと光るチェーンを猫達の頭上にぶら下げた。
 ただそれだけで、猫達はキャッキャと腕を伸ばす。
「そのままチェーンを跳ねさせてやりゃ、あとはチビどもが勝手に遊んでくれるだろ。奪還は成功したしクソ暑いのも変わらねぇが、日射病にならねぇ程度に遊んでいくか?」
「うん! そうする!」
 もはや猫達と戯れることに集中しているのか、返事すらおざなりな銀次に苦笑する。
 しかしただかつお節をやっていた時とは違って、今は暑ささえも夏の風物詩の一つと割り切って感じられた。
「遊びってのは偉大ってこったな。……イッテェ! こんにゃろドラ猫、こっち来い! 腹撫でまわしてやる!!」
 とめどなく汗を流しながら、蛮もまた楽しげに猫達との遊びに興じる。
 時刻はそろそろ正午へと近付き、太陽は南中へと差し掛かる。汗と猫にまみれた戯れは、二人が熱中症で倒れ込むまで続けられた。


   ■  □  ■


「ブルジョワ気取りかあの女ぁああああああ!!」
 夕刻、裏新宿には蛮の怒りの咆哮が響いていた。
「落ち着いて蛮ちゃん!! 仕方ないじゃん、って言うか、俺達だって今回はそんなに苦労してないし散々遊んだし! あの二人がそれでいいならいいんだよ! あれが俺達が見つけた最後のピースなんだから!!」
「甘ェこと言ってんじゃねぇぞ銀次! 確かに猫相手にさんざっぱら遊んじゃいたが、あぁなるのが分かってたら熱中症になってまで急いで取り返しに行かなくても良かったんだよ!」
 怒り心頭の様子で、必死に宥めようとする相棒にさえも声を荒げる。その理由を銀次も痛いほど理解はしていたが、それでも街中で大声を出すことに寛容になれるほど同調してもいなかった。
「蛮ちゃん、なんだかんだ言って仕事には真面目だからなぁ……」
 ぼそりと呟いた銀次は、胸ポケットの中に納まった指輪を軽く弄り、どうしたものかと溜め息を吐く。
 二人が彼女に奪還完了の連絡をしたのは、ようやく陽の傾いた夕方のことだった。
 熱中症で倒れていた二人は、公園の清掃員に発見されて事なきを得ていた。
 物騒な土地柄、倒れている人間を見たら死体と思えが通説になっているのか、呼ばれたのは救急車でなく警察だったが、それすらも懐の寂しい二人にとっては渡りに船だったとも言える。
 死体ではなく熱中症患者と知った巡査官が救急車を呼ぼうとするのを所持金のなさを理由に説得し、症状が軽くなるまで派出所の奥で休ませてもらっていたのだった。
 冷たい茶と冷やしたタオル、塩飴を提供してくれた巡査官には卑屈なまでに平伏し、憐れみと苦笑いを受けたことも記憶に新しい。
 しかしそんなことは、その後に起こった衝撃的な出来事に比べればなんということもなかった。
 無事の奪還連絡を受けた彼女は朝の様子とは打って変わり、感涙する様子も、そして興奮する様子も見られなかった。
 無論それは電話口ということもあり、また、冷静になる時間もあったことから別段気にするほどのことでもなかったのだが、その直後の言葉に蛮は凍りついた。
― あのぉ、私ぃ、やっぱり彼に黙ってるの辛かったから、ネコちゃんに盗られちゃったってコトを話したんですぅ。そしたら彼ってば超優しくってぇ、心配しなくってももう一つ買ってあげるよって言ってくれてぇー。で、ついさっきぃ、新しいの買ってきたんですよぉー。なんか話してたらぁ、あれはプロポーズ用に買っただけでぇ、ホントの婚約指輪は私が気に入るやつを別に買ってくれるつもりだったみたいでぇー。お騒がせしちゃって申し訳ないんですけどー、そういうことなんでソレもういらないんでぇ―。奪還料、それでいいですかぁー?
 朝の切羽詰まった様子からは想像もつかないほど鬱陶しい話し方だった。
 いや、それも確かに癪(しゃく)には触ったが、だらだらと話された内容に連絡役だった蛮は言葉をなくしてしばし身を固めたままだった。
 無論その時点では、銀次に話の仔細は通じていない。
 突然顔を引き攣らせて凍りついた蛮を不思議そうに、且つ不安げに眺めながら、ただ電話が終わるのを待っていただけだった。
 最終的に、携帯を握り潰そうとした蛮を止めた直後に詳しい話を聞き、現在へと至る。
「でも彼氏さん、よっぽどお金持ちなんだねー。だってこれ、三十万円くらいするんでしょ? それがプロポーズのためだけに用意した仮の指輪だなんて、リッチな話だよねー」
 もはやただただ感心することしか出来ず、胸に納まる指輪をグリグリと玩ぶ。
 そんな銀次の姿にどうにか頭が冷えたのか、蛮は未だ苛立たしさの孕んだ重い息を吐いた。
「なーにがリッチだ。ホントの金持ちは、そうホイホイと無駄金を使ったりはしねぇんだよ。そんなのはせいぜい宝くじでも当たって調子づいてる成金野郎のすることだ。誠実さのカケラもねぇや」
「蛮ちゃんってば厳しーい」
 ふんと鼻息も荒く吐き捨てた姿に、金の髪が楽しげにふわふわと揺れる。
 胸ポケットの中のものがよほど違和感なのか、気が付くと指輪を触っている銀次を蒼紫の瞳がちらりと流し見た。
「……気になンのか、それ」
「へ?」
 低い問い掛けに、キョトンと首が傾ぐ。
 しかし言葉なく顎で示された場所に指輪のことと理解し、銀次はあぁと照れ臭そうに笑って見せた。
「まぁ、普段ここにはなんにも入れてないからねー。プラチナとダイヤだっけ? これ、結構重いんだよ。それに婚約指輪なんてあんまり触る機会もないし、なんか気になっちゃってねー」
 にこにこと笑って見せるその表情に、蛮は心なしか浮足立った様子で目を泳がせる。その仕草をまた反対側へ首を傾がせて見守る銀次にさらに居心地の悪さを感じたのか、武骨な手はガリガリと頭を掻いた。
「あー……まぁいいや。とりあえずスバルに戻るぞ」
「うん? うん、そうだね?」
 歯切れの悪さに違和感を覚えながらも、スバルの駐車場所へと足を向ける。
 途中、自動販売機で青が主体の栄養ドリンクを購入し、通りすがりの公園では咲いたばかりの花を銀次の両手いっぱいに摘んで持ち帰らせるという謎の行動もあったが、言外に質問を拒む蛮の雰囲気に、銀次はなにも聞けぬままだった。
 幸いにも今回はレッカー移動されていることもなく、無事に車内へと戻る。
「ねぇ蛮ちゃん、この花どうするの?」
 意を決し、疑問を切り出す。
 すると蛮はやはり居心地悪げな表情を浮かべたまま、普段着ているシャツのボタンを外しはじめた。
「蛮ちゃん?」
「ちょっとした遊びだから、ちっと黙ってろ」
 ぴしゃりと撥ね付け、沈黙を強いる。
 やはり意味の分からないまま状況を受け入れるしかなくなった銀次は困惑に眉間を寄せたが、タンクトップ姿になった蛮がシャツを自分へ羽織らせてきたことに目を瞬(まばた)いた。
「へ? なになになに? 俺、今寒くないよ?」
「いーから」
 こうまで黙秘を貫かれると、なおのこと真相が気になるのは人の常。
 しかしそれでも好奇心を跳ねのける蛮の雰囲気には押し勝てず、銀次は怪訝な思いですべての動作を見届けていた。
 シャツの次は使い古しのタオルを頭に被せてそのままでいろと命じ、その後は銀次に持たせたままだった花を器用に編んで冠にしていく。
 やがてそれをもタオルの上に乗せるようにして被せると、次は買ってきた栄養ドリンクを持たせた。
「うっし、こんなもんだろ」
 銀次にとってはよく分からない格好をさせられただけだが、蛮は至極満足そうに唇を吊り上げる。
「ねぇ、これなに蛮ちゃん」
「うっせぇな、あと一個大事なのがあンだよ。ほら、その胸ポケットの中のやつを貸してみろ」
「胸ポケットって……これ?」
 取り出したのは、無論奪還してきた婚約指輪だった。
「どうすんのこれ」
「こうすんの。六月も今夜限りだしな。やるとすりゃ今日しかねぇだろ」
 ニヤニヤと笑い、銀次の左手薬指にはめて見せる。
 当たり前のことだが、女性用に誂(あつら)えられた指輪が銀次の無骨な指に入るわけがない。案の定第一関節を過ぎた辺りでピタリと止まってしまったが、ようやく事の片鱗を見出(みいだ)し、銀次は噴き出すように笑った。
「ははっ。……ねぇ、これってもしかしてさぁ」
「古いタオルに、新しい花で編んだ冠。俺様が貸してやった白シャツに、青い缶の栄養ドリンク。ちょっとだせぇが、サムシングフォーは満たしてんだろ」
 自慢げに、そして嬉しそうに目を細める。
「ジューンブライドの結婚式ごっこってやつだ。なかなか面白いだろ?」
「花嫁さんには見えないカッコだけどねー」
 ケラケラと笑い、軽く唇を触れ合わせるだけの接吻けを交わす。ごっこ遊びとは言えども指輪が本物という状況が、ほんの少し幸福感を増幅させていた。
 教会でなくとも、花は香らずとも、ごっこ遊びの結婚式ならこれで充分だった。
 子供のママゴトのようなくすぐったい感覚に額を合わせ、互いにくすくすと笑う。ひとしきりその甘やかな空気を楽しんだ後、蛮は元気に声を張り上げた。
「さーって、遊びも済んだしそいつを売っ払いに行くぞ銀次! なんせ三十万のシロモンだ、買い取り金額二十万程度にゃなるぞー!」
「うん! そのお金で今日はお寿司だね、蛮ちゃん!」
「おうよ! 焼肉の食い放題でもいいぞー!」
 ぶほほほほと品のない笑い声を残し、スバルはその場を後にする。
 やがて窓から投げ捨てられた栄養ドリンクの空き缶が跳ねる音は、ともすればハネムーンへ向かうブライダルカーのそれにも似ていた。


−−− 了.