忘れられない言葉、特別の連続な日常
ひりつくような暑さもなく、かと言って粘りつくような湿気も感じない。そんな秋の日だった。
ベンチに深く腰を下ろした銀次は、肘をついた状態で清かな水音を辺りに響かせて流れ続ける噴水を見つめる。思い出にでも浸っているかのように目を細めるその表情は、柔らかと表現するよりも甘やかと言ったほうがよりしっくりと馴染んだ。
濡れたままの金の髪は陽光に照らされて尚も輝きを増す。キラキラと反射する水滴が頬を伝うと犬のように頭を振る姿に、周囲で遊びまわっていた子供達が可笑しそうに含み笑いを漏らした。
それに気付き、はにかんだ笑顔で手を振る。無邪気に振り返してくる幼さにふにゃりと頬が緩むと、背後から垂直の拳が落ちた。
「ったぁああああ!!」
「ガキに笑われてんのにヘラヘラしてっからだ、このボケ! 髪くらいちゃんと乾かせ。風邪ひくだろうが」
乱暴な言葉とともに頭上に落とされたタオルに、琥珀色の目がぱちぱちと瞬く。見上げれば不機嫌そうに顔をそらした蛮が、濡れたままの自分のことなど気に留めた風もなくベンチの背凭れに腰を預けていた。
柔らかなタオル地はいつも水浴び後に蛮が使うはずの物で、にも拘らず僅かな水濡れもなく乾いている。恐らくは濡れ髪のまま風に吹かれている自分を気遣ってそのまま持って来てくれたのだろうと察し、銀次は嬉しそうに口元を緩めた。
「蛮ちゃんのほうが俺よりずーっとずぶ濡れのままだよ」
「俺様はいいんだよ。風邪ひくほどヤワじゃねーからな」
「いつもは俺に、お前は馬鹿だから風邪ひかないとか言うくせに」
肩を弾ませて笑えば、うるせぇと苦々しい罵倒が返る。それをまた楽しげに受け止め、銀次は立ち上がって蛮にタオルを押しつけた。
「俺のはスバルにあるから大丈夫! 先に戻ってるからさ、蛮ちゃんはちゃんと乾かしてからおいでよ」
ひらりと手の平を翻し、路上に停めてあるスバルへ駆ける。ちゃんと前を見て走れと茶化し言葉を投げてくる蛮に片手を上げて応え、また懐かしいものでも見るかのように表情を和らげた。
助手席に身を預け、両側のドアを開けたまま中に溜まっていた熱気を逃がす。フロントガラスの向こう側に見える秋晴れの空を見上げた銀次は、ほうと小さく息を吐き出した。
「去年のこんな日だったよねぇ、確か」
呟き、運転席を見る。未だ噴水近くで体を拭っているはずの蛮の姿はそこになくとも、車内に香る煙草の残り香がその存在を感じさせた。
目を閉じ、頬を寄せてシートに鼻を埋める。
「いつからだっけなぁ。俺が蛮ちゃんに突っかからなくなったの」
ぼんやりとした言葉を落とせば、くしゃりと大きな手が頭を撫でる。長い指が髪に絡む感覚に目を開ければ、呆れ顔の蛮が上半身だけを車内に潜り込ませていた。
「銀次お前、髪乾かしとくっつって戻ったんだろうが。なんでそのまま寝ようとしてんだ」
唇を尖らせた一言に、はたと気付いてばつが悪そうに頭を掻く。
「へ? あ、そっか。忘れてた」
「っとにボケだな。人の場所を水浸しにしてんじゃねぇよ」
撫でていたはずの手に力を込め、片手だけで頭を持ち上げようとする蛮の乱暴さに悲鳴を漏らす。するとからかい目的だったのか手を放した悪戯な蒼紫の瞳がふわりと緩み、銀次の体を肩で押して隣に滑り込んだ。
「……熱気、そろそろ全部逃げただろ。エアコン入れっからそっちも閉めろ」
「うん、そうだね」
大きな音を立て、車内が本来の密室状態に戻る。エンジンをかけると同時に入れられたカーエアコンの音で外からの音は遮られ、運転席側の窓が僅かに開けられているだけの状況では内部の音が外に漏れている心配はなかった。
ジッポの摩擦音が響き、紫煙が視界を漂う。
「で? さっきからナニ考えてんだ?」
「はぇ?」
「とぼけてんじゃねぇよ、間抜け面さらしやがって。見てりゃ分かるっての」
小突き、サングラス越しに睨み付ける。その蛇に似た眼力に気圧されたように怯むと、銀次は困った風に頬を掻いた。
「あー、別に悩んでるとかそういうんじゃないんだけど……。蛮ちゃん、これ言ったら絶対俺のこと殴りそうだしなぁ……」
「あぁ? また面倒なことでも抱え込んでんのか」
「だから悩み事じゃないんだってば」
寄せられた眉間に苦笑を返し、言い澱んで目を泳がせる。しかしその程度のことで追及の手が緩むはずもなく、むしろ隠し立てされていることが気に食わないとばかりにより一層不機嫌さが増した。
先程離されたはずの手が、またしても銀次の頭を掴んで力を入れる。
「俺様に隠し事たぁいい度胸じゃねぇか、銀次ィ? あれか、ちょっと遊んでほしいのか? あぁ?」
「痛い、痛い痛い痛い! ゴメン蛮ちゃんごめんなさい! 言う! 言います言うから離してぇええ!!」
ぎりぎりと締め上げられる頭蓋骨の痛みに悲鳴を上げ、バタバタとその場で藻掻き苦しむ。謝罪と自白を約束する言葉にようやく離されはしたものの、じわじわと残る余韻に銀次は涙目で頭を抱えた。
「あのさぁ蛮ちゃん、もうちょっと平和的に生きようよ」
「うるせぇぞ銀次。だいたいお前が隠し事なんてすんのが悪いんだろーが。おら、約束だ。さっさと吐け」
「あーもー、蛮ちゃんの乱暴者ー」
ぶつぶつと文句を呟き、やがて大きく息を吐いて唾液を呑みこむ。まるで覚悟のいる一言を準備をしているようなその仕草に、蛮が怪訝そうに眉間を寄せた。
その目を、ゆっくりと照れた琥珀色が見返す。
「ちょうどこの時期だったよね。俺が蛮ちゃんに告白したの」
はにかむ笑みに、時間が止まる。
エアコンの音と公園から聞こえる子供のはしゃぎまわる声だけが二人の間を行き来し、じりと燃え進む煙草の灰が今にも折れ落ちそうに揺らいだ。
そして、ようやく言葉が脳に到達したかと思うほどの時間が流れ。
「……ッ、お前、ンなこと考えて……!!」
燃えるように蛮の頬が朱に染まる。
「忘れろ! 今すぐだ!! 今更そんなこと覚えてたって腹の足しにもなんねぇだろ!!」
「なにその理屈!? ってか忘れないよ! だってあの時、蛮ちゃんが俺に……!」
「だからっ、言うな! つかそこの部分を主に忘れろって言ってんだよこのボケ!!」
「やだよそんなの! いいじゃん覚えてるくらい!」
「テメーの場合はそれを俺にも言ってくるだろうが!」
狭い車内で取っ組み合い、車体があわや反転するのではと思うほど揺らぐ。あまりに不審なその光景に周囲からは好奇と驚愕の目で見られるも、当人達はそんなことなど気にも留めず、互いの主張を押し通そうと殴り合いを続けていた。
しかしそれも、肘の当たったクラクションの音でぴたりと止まる。
既に互いの髪は乱れ、頬や額に小さな内出血が見られる。それぞれに相手の頑固さは承知の上なのかもはや文句を言う様子もなかったが、それでも不満は隠せないのか僅かに頬を膨らませ、拗ねたような表情で別方向を向いていた。
「突っかからなくなってなんかなかった。って言うか今も絶好調に喧嘩してた」
「あ!?」
「なんでもない! 蛮ちゃんの分からず屋!」
先刻の自分の呟きを反故にし、膨れ面で声を荒げる。銀次のそのあまりに子供じみた反応になにか思うところでもあったのか、蛮が仕方なさそうに溜息を吐いた。
「……あのなぁ銀次」
「聞きたくない。今だけ蛮ちゃん嫌い」
「嘘つけ、お前が俺を嫌いになったことなんてあったかよ。いいからこっち向け」
ぐずるように身を捩る銀次を押さえつけ、半ば無理矢理に向き直らせる。それでも微かな抵抗のつもりなのか目線は決して蛮を見ようともせずに伏せられていた。
目尻が赤らみ、うっすらと水の膜が張られた琥珀色が滲むように揺らいでいるのが妙な痛々しさを感じさせる。
まさに年端もいかぬ子供を泣かせたときに感じるような罪悪感に、蛮があぁと苦悩の声を漏らした。
「分かってんだろ。苦手なんだよこういうの」
「知ってるけどさ……。蛮ちゃん、俺が大事にしたい言葉まで忘れろとか言うんだもん」
「それだってお前が……あぁもういい、分かった! 好きなだけ思い出にでもなんでも浸ってろ!!」
また水掛け論が始まるすんでのところで、蛮が両手を上げて降参の意を示す。彼方を向いてしまった気配にちらりと仰ぎ見れば、朱色に染まった首筋の上で、憤慨した唇が突き出されているのが見えた。
自分に負けず劣らず子供じみた仕草に、思わず微笑が漏れる。
「なんだかんだ言っても、蛮ちゃんはやっぱり優しいよね」
「うるせぇ」
不貞腐れた表情で頬杖をつく蛮を目を細めて見遣り、くてりと肩に凭れかかる。シートの残り香よりもはっきりとした辛みのある香りに、安堵したようにゆっくりと息を吐き出した。
「去年のことだし、奪還屋結成してから一年ちょっと過ぎてたんだよね。蛮ちゃんが俺を名前で呼んでくれるようになって、ちゃんと仲間って認めてくれてから一年」
「……そうだったか?」
「またまたぁ、覚えてるくせにぃ。でさ、あの時あれだよね。仕事がなくてひもじくって、なんでもいいから食られる物を確保しようってんでデッカイお屋敷のゴミ置き場を漁っててさぁ。俺が運悪く見つかっちゃって、しかもお屋敷のご主人がヤクザ屋さんの偉い人で。もンの凄い怪しまれて、袋叩きにあった後!」
「…………少なくとも、そんな嬉しそうに話す内容じゃねぇな」
きゃらきゃらとはしゃいだ声の回想に、もう止めることを諦めたのか呆れた声で蛮が応じる。それでも話に付き合ってくれること自体が嬉しいのか、頬を上気させた銀次は気にも留めずに話の続きに唇を開いた。
「二人ともボロボロでさ、もう公園の水でもいいやって言ってここに戻った時だよね。見つかっちゃったのは俺だけだったんだし、蛮ちゃんは逃げちゃえば痛い思いしなくて済んだのにって俺が言ったの。でも蛮ちゃん、そのあと」
「銀次」
「うん?」
僅かに語調を強めた呼びかけも、銀次にその意図は伝わらない。心底嬉しそうな笑顔のまま小首を傾げられればやはり止めるのも憚られ、結局は蛮が大きく溜息を吐くに留まった。
「……いや、いい。話せ」
「うん!」
どうしても拭い切れない羞恥心など気付きもしないまま、銀次の手が蛮の指に触れる。
「その後、蛮ちゃん俺に言ってくれたんだよね。ボケたことぬかすな、俺達は二人で一組のゲットバッカーズだろうが。今はお前が俺の仲間で、ダチで、そんでもってついでに家族みたいなもんなんだ。そんな奴を置いて一人で逃げるようなら、最初から相棒なんて持たねぇよ。って」
「普段はトリ頭のくせして、なんでこんな時だけガッツリ覚えてやがんだよ、お前は」
「だって、すっごく嬉しかったんだよ。認めてくれたことも、大事にしてくれてるって分かるのも、家族みたいって言ってくれたことも。だからね、テンション上がっちゃったんだろうね」
くしゃりとした照れ笑いを浮かべ、触れた手に力を込める。その指先が常よりも熱を持っていることに気付き、今度は蛮の唇が笑みの形に吊り上がった。
「ついでに俺、蛮ちゃんの一番になりたい。……だったか?」
「わ! なんだよ、やっぱり覚えてるんじゃん! でもホントだ。相手に言われちゃうとコレ、びっくりするほど恥ずかしいね」
「お前の顔はそう見えねぇよ。……まぁあの一言にはたまげたからな。忘れたくても忘れらんねぇわ」
窓の隙間から流れ出る紫煙を目で追い、照れ隠しに小さく咳き込む。その心情を知ってか知らずかさらに体を寄せてはしゃぐ銀次の肩に腕を回し、子供をあやすように数度叩いて見せた。
その優しい手つきに、またしても頬が緩む。
「へへへ。あの時の蛮ちゃんの顔ったらなかったもんね。ものすごーく胡散臭そうに、はぁ? って」
「当たり前だろ。つーかお前の場合、一番って認識が俺と違う可能性があったからな」
「ホント蛮ちゃん、俺のこと子ども扱いって言うか、世間知らず扱いって言うか……。でも、うん。俺ね、その後のことだって嬉しかったよ?」
きらきらと輝いたまま三日月を描いた琥珀に見つめられ、蛮が僅かにたじろぐ。笑顔の脅迫とでも表現すべきその顔に言葉を失った蒼紫はガシガシと髪を掻き、あぁと不機嫌な声を落とした。
「…………もういいだろ。これ以上はさすがに殴るぞ」
「えー。蛮ちゃん、照れ隠しが乱暴すぎるよ」
「うるせぇ、そろそろ黙れ。甘ったるい話ばっかしやがるから、波児のコーヒーで口直しに行きたくなったじゃねぇか」
険しく寄せられた眉間の下にある目尻は華やがない程度に赤く、不愉快そうに突き出された唇はへの字を象って歪む。その全てがやはり照れからくるものであることを察して、銀次はそれ以降口を閉ざし、ただただ嬉しそうにその横顔を眺めた。
とっさに口をついた告白の言葉。果たしてその時のそれが本当に恋愛感情だったかはもう定かではない。けれど胡散臭そうに振り返った蛮がその後、しばらく物思いに耽ってから顔を上げて自分を射抜いた、その時の瞳の色が今もまだ忘れられない。
まるで凍った炎のような目が、銀次を見据えて静かに口を開いた。
俺の一番、って言ったか。
抑揚のない声色に思わず震えたことを覚えている。じりと詰め寄られ、後ずさることも出来ずに立ち尽くしていた自分は、今になって思えば相当間抜けに映ったに違いなかった。
それでもその時は精一杯だったのだと、片隅で自己弁護の声が響く。
眼前に迫った冷たい目。ロウアータウンで初めて会った時、血と雨に濡れていたあの時と酷似した瞳が正しく目と鼻の先で自分を見つめていた。
そしてそのまま唇に柔らかなものが触れて、世界の音が止んだ気さえした。
お前の言ってる一番ってのは、こういう意味か?
まだ唇の触れ合う位置で、小さな問いかけが聞こえた。その時には既に緊張と衝撃と、なにより混乱で普段よりもうまく頭が回ってはくれなかったが、紅潮していく頬と不快感どころか高揚感で満たされる心情に、言葉に出来ないまま何度も頷いた。
その動作に満足そうに蒼紫は緩んで体を離し、唄う様に紡ぐ。
だったらもう手遅れだ。今更言ってんじゃねぇよ。
楽しそうに嬉しそうに、秘密基地を見つけた子供のような表情でそう告げた蛮の言葉を最初は理解できなかったが、それから何度も接吻けを交わすようになって、今やこれが当然のようになっている。思えばあれが蛮なりの返答と告白だったのだろうと懐かしさに小さく笑い、もう一度、不機嫌な顔でハンドルを操る今の蛮を眺めた。
水浴びしたばかりの髪は逆立てられることもなく出会った頃のようにさらりと下りて、窓から吹き込む風に微かに靡く。変わらない赤信号に苛立って顰められた目元はこの一年でまた一段と鋭くなりはしたものの、その奥にある柔らかなものは一切変わってはいなかった。
ふふと含み笑いを漏らした銀次を、なんだよと拗ねた瞳が一瞥する。
「おい銀次、気色悪い笑い方してんじゃねぇぞ」
「ごめん、つい嬉しくって」
「……言ってろバーカ」
赤みの治まっていた頬にまた朱が差し、誤魔化すように蛮の顔がそらされる。それをやはり嬉しげに眺め、銀次はゆっくりと背もたれに体重をかけた。
「ねぇ蛮ちゃん。俺さ、これからも毎日蛮ちゃんと一緒にいてさ、毎日違う蛮ちゃんを覚えておきたいな。そしたら俺の頭ン中が蛮ちゃんでいっぱいになって、もしまた離れなきゃいけなくなっても……」
「もうねぇよ」
鋭い声が言葉を遮る。烈しさを感じるその声音に大きく目を瞬けば、もう吸殻になってしまった煙草を灰皿に押し付け、蛮がちらりと銀次を見た。
「もう離れねぇよ。離れたところにいるお前を心配するのなんざ、サル回しの一件だけで充分だ」
それ以降押し黙り、スバルは裏新宿を進む。蛮は照れ臭さから、銀次は二度目の告白めいた言葉に緊張しながら、妙な緊迫感に包まれた車内で互いに指も触れることが出来ずに肩を強張らせていた。
やがて見えてくる見慣れた看板。その文字にようやく息を吐いた二人は、先程の緊張感など忘れ去ったように互いに顔を見合わせた。
「ひっでぇツラ」
「そっちこそ」
未だ引かない頬の赤みを笑い合い、ホンキートンクのドアを開ける。入店早々にブルマンとダッチを注文しながら、カウンターの下でこっそりと蛮の小指を握った。
振り解かれることもなく繋がったままの場所から感じる体温に頬を緩め、逆の腕で頬杖をつく。上機嫌で顔を左右に揺らす仕草を呆れ顔で見遣る目を気にも留めず、銀次はにっこりと蛮を見返した。
「蛮ちゃん、これからもずーっとよろしくね」
「……お前はほんっとにハズカシイ奴だよな」
ため息交じりに漏らされた言葉とは裏腹に、やはり小指を握った手は振り払われることもない。その行動こそが自分の言葉への返答なのだと受け止め、小さく鼻歌を口ずさんだ。
先刻、必要ないとばかりに遮られた言葉。しかしそれでもこうして日毎に違う特別さを感じられるのなら、やはりすべて覚えておきたいのだと笑みを漏らし、銀次は小指を握る手に力を込めた。
−−−了.