――― 怪・御伽草子 壱の段
これだこれだと言ってきり丸が一冊の巻物を持ってきたのは、図書室に着いてからそう時間も経っていない頃だった。
大木の言った「しょうまきょう」がどういう文字を書くかすら分からないものの、とにかく妖怪の類の書籍を見ればなにかそれらしいものが分かるのではないかと言った庄左ヱ門の言葉。それに従って本棚を漁った結果呆気なく出てきた一つの絵巻物に、やはり級長の考えは的を射ていたのだと喝采が上がる。
しかしその騒がしさに図書委員経験者のきり丸と伊助が慌てて諌め、自分達以外利用者もまばらな室内を恐る恐ると見回す。その様子に、言われてみればここは私語厳禁なのだと思い返し、各自が気まずそうに肩身を狭めた。
すぐ近くの通路を通りがかった図書委員の後輩が、口元だけに笑みを貼り付けた器用な怒り顔で圧力をかけてきたことにきり丸は引き攣った表情で両手を合わせる。
「……とりあえず今からこれ、貸し出し手続きするからさ。詳しく読むのはここを出てからにしようぜ。今日の当番は二年なんだけど、ものすっげぇ真面目な奴だから」
ぼそぼそと遠慮げに言葉を紡ぎながらどこか心そぞろに辺りに視線を廻らせるきり丸の様子に、どうやらよほど頭が上がらないらしいと判断してそれを承諾する。元よりここで騒ぎながらの閲覧など到底無理だという結論は出ていたのか、誰一人長居する様子もなく手続きを待つ様子に、先刻の後輩は憮然とした様子で貸し出しカードを記入した。
図書室を出た途端に生き返ったかのようなため息を吐くきり丸に皆が笑い、談笑に興じたまま長屋へと移動する。無論のこと移動先は庄左ヱ門と伊助の使用する一室で、誰も確認し合うことなく、当たり前のように己の所定の位置へと腰を下ろし始めた。
その車座の中央に、代表として貸し出しを受けた庄左ヱ門が巻物を転がす。転がるにつれ姿を現すおどろおどろしい妖魅の絵に、一同は興味津々な様子で目を輝かせた。
「それで、件の【しょうまきょう】っていうのはどの妖魅?」
見知ったものもいれば初めて目にするものもあるその絵巻物の内容に、庄左ヱ門すらも些か興奮している様子で楽しげな表情を見せる。それを受けて少し待てと制したきり丸が次々に巻物を転がすと、やがてある一つの絵を中心に据え、文鎮を置いた。
そこに描かれた照魔鏡の文字と鏡の絵に、なるほど鏡かと手を打つ。
「さしずめ、人の心の底を照らし出す妖怪ってところかな」
「……庄ちゃん、相変わらず冷静ね。っとまぁお決まりのセリフは置いといてだな。特徴はここに書いてあるけど、概ねその予想通りってところだな。人の魔性や化物の正体を明かすってさ。で、大木先生が言ってた作るってのは……多分ここに書いてあることだ。八月の満月の日、月明かりの下で作られてから百年以上経った鏡に憑いてる付喪神を呼び出すんだと。ただし水晶の盆がいったりなんだりで、ちょっと面倒そうだけどな」
さらりと推察した庄左ヱ門の言葉に苦笑しつつ、きり丸が絵巻物の記述を単純化して読み上げる。その中に出てきた八月の満月という部分に、大多数が苦々しく眉間を寄せた。
「それ、もう過ぎてるよな」
団蔵の呟きに、一斉に頷きが返る。
「なーんだ、だったら今日調べたのは単なる骨折り損かぁ。妖魅を作るなんていうからかなり期待してたのに、ガッカリ」
不貞腐れた表情で後ろに倒れ込む兵太夫を笑って諌め、三治郎も同意を見せつつ慰める。やはり作るという言葉に並々ならぬ興味を惹かれていたらしい二人の様子に、両隣の伊助と虎若が苦笑して見せた。
それも仕方のないことと片付け、庄左ヱ門が軽く膝を打つ。
「まぁそれでも先生の仰っていたものは分かったし、恐らく来年も担うであろう役割への布石もついた。約一年の間それがないというのがどう転ぶかは分からないけど、とにかく全員でこのことに対する知識を深められたというのは悪いことではないんじゃないかな。……まぁガッカリしたことに否定はしないけど、なにごとも良いように受け取らないと。さて、これで当面の作業が終わったけど、後はどうする? まだ陽も高いし、みんな外出の用事やバイトの予定を詰めたいなら早めに外出届をもらいに行かないといけないよね。ちなみに僕は、このあと買い物に行きたいなと思ってるんだけど」
一緒に誰か行かないかと投げられた声に、勢いよく数人から手が挙がる。それを快く承諾した庄左ヱ門は、なにごとか考え込んでいる様子の団蔵と虎若を流し見た。
「二人は?」
問いに、低い唸り声を発しながら頭を捻っていた二人が大きく息を吐く。
「あー……ちょっと欲しいなーと思うもんもあるけど、今日のところはいいや。久し振りに二人で組み手の練習もしたいし、夏休みの間にお互いどんくらい力つけたのかちょっと競ってもおきたいしさ。俺達は良いからみんなで行ってこいよ。金吾はどうする?」
「僕か? 僕は……悪い。今日はちょっと行くところがあって」
言い澱み、誤魔化すように目を泳がせながら早々に立ち上がる様子に喜三太から小さな溜息が落ちる。こういった誤魔化し方をするときはいぶ鬼と会う時だと知ってもはや諦めたように見える喜三太を気遣い、団蔵が金吾を追うように立ち上がり、その額を軽く小突いて見せた。
「行くのは良いけど、あんまり喜三太を不安にさせるよ。あと、ヘマしてドクタケに捕まったりするのは勘弁な。いちいち助けに行くのも面倒だぞ」
「分かってるよ」
この手の苦言も聞き慣れてしまったのか苦笑一つで受け流す金吾の姿に、親友関係にあるものは仕方がないと肩を竦めて退室する背中を見送る。黙ったままそれから視線を逸らしていた喜三太に、やがて傍寄ったきり丸がその背を叩いた。
「ま、心配すんな。事がうまく運んでりゃ、この夏休みでいぶ鬼はしぶ鬼と結ばれてるはずなんだ。今回はあいつ、その惚気話を聞かされる羽目になるんじゃねぇかな」
可笑しげに喉を揺らした言葉に、驚いたように顔を上げた喜三太の他、その場の全員が声を上げて詰め寄る。思う以上の反応に驚いたのか思わず後方に引いたきり丸に、各自が輝く目でさらに距離を詰めた。
「なに、なに!? ついにあの二人も!? ってことはもしかして、置いてきぼりなのって僕達とふぶ鬼達だけ!?」
「金吾並みにいぶ鬼に対してはヘタれだったしぶ鬼が!? なんで!? どんな心境の変化!?」
「ってか、どっから仕入れたんだよそんな情報!」
「さてはきりちゃん、しぶ鬼から相談受けてたでしょ。でなきゃそんなこと知ってるわけないよね」
「そういう乱太郎は、現在進行形でふぶ鬼に相談受けてるんじゃなかったっけ?」
「しっかしそっかぁー、ついにあいつらもかー! そうなるとちょっとは安心できるな。なぁ喜三太!」
「とりあえず、どうしようか。赤飯でも炊いて二人に届けたほうが良いのかな」
「えー、それはどうかなぁ。恥ずかしさで死んじゃいかねないよあの二人。それに山ぶ鬼にまで知られる可能性があるし、ちょっと可哀想かもー」
「というか、ホント僕達ってドクタケと学園の関係を無視して交流しすぎだよね」
縋りつくような喜三太の声に始まり、兵太夫、団蔵、乱太郎、しんべヱ、虎若、伊助、三治郎と続き、庄左ヱ門で締めくくられた一連の会話にきり丸の目が忙しなく動き回り、あたかも白黒と点滅しているような色を見せる。それが完全に目を回す寸前で怒涛の流れが終わったことで、どうにか息をついたきり丸が力なく頬を緩めた。
疲れて落ちた肩が、その疲労ぶりを暗に伝える。
「あー……まぁ乱太郎の推察通り、俺はしぶ鬼から相談を受けてたんだけどよ。喜三太を元気付けようとしただけなのに、お前らまで食いついてくんなよなー。……でも、これでちょっとは金吾の浮気なんかを疑わなくて済むようになって楽じゃねぇか?」
苦笑とともに、きり丸の手が喜三太の髪をくしゃりと撫でる。まるで兄が弟にでもするようなその仕草に、緩やかな曲線を描く目がさらにそれを顕著にした。
顔が歪むとほぼ時を同じくし、喜三太が勢いよくきり丸へと飛びかかる。
「きり丸好きぃー!!」
「ハッハッハ愛い奴め! でも出来ればそれはやめてくれ喜三太! もし万一金吾なんかに聞かれてた日にゃ、俺は厠に行くのも命賭けなきゃならなくなるだろ!!」
「んー、でも喜三太ばっかり嫉妬するのは可哀想だし、たまには金吾にも身近なところに嫉妬してもらったほうがいいかもしれないよね。きり丸、ちょっと生贄になってみるのも良い案かもしれないよ」
「庄左ヱ門てめぇえええ!!」
茶化すでもなく、恐らく本気で呟かれただろう言葉にきり丸が怒りを込めて声を投げる。それを笑いながら見遣り、団蔵と虎若も部屋を出た。
どうせ自分達を除いた全員がこれから町へ行くという状況の中で、あまり長居するのも別離のタイミングを逃すだけだと呟いて背筋を伸ばす。
「ま、なんにしろ金吾は困ったもんだなー。あいつが喜三太を大事にしてるのは俺達はもうこの上なく知ってるけど、喜三太からすれば複雑だってのをいまいち分かってないのが痛いとこだ」
独り言のように呟く団蔵に同意を見せ、虎若も同じように溜息を吐く。しかも自分達のような確固とした繋がりがないのが余計に悪いと苦々しく眉間を寄せた。
「そりゃまぁ別に、体の繋がりだけが大事だとかは言わないし思わないけどな。でもそれがないことで喜三太が不安がってるのは事実だし、あればもうちょっと落ち着いていぶ鬼と金吾の関係を見てるだろうってのが明らかだから性質が悪い。でもあれか。喜三太が金吾に告白したのも、実は去年の話だもんなー。金吾が手を出せないのも多少は分かるけど」
どちらにしろ自覚が遅いことと奥手なことの結果がこれなのだと苦笑し、現在自分達に出来ることはなにもないと確認し合って部屋に戻る。
一年の時から伊助に何度怒られても直ることのない、ごみの山のような部屋が木戸の向こうに広がっていた。
しかし二人はこの状況こそが安心感を生むのか、なんの不自由も感じていない様子で保管してある自分達の得物を取り出す。勿論保管と言っても着古された衣服の上に乗せられているような始末なので、他人から見れば到底そんな言葉で表現していい状態ではない。けれど本人達にとっては自分達が場所を理解しているだけで充分という認識で、なんら恥ずかしげもなくその言葉を使用していた。
虎若は実家から持ってきた小具足の籠手を両腕につけ、団蔵は昨年から馬上槍の他に使い始めた鉄双節棍を手に持ち、にぃと笑みを見せる。その目が互いの準備の終了を見て取るや否や、二人は声を上げて外へと飛び出した。
縁側から飛んだ瞬間から、前触れなく組み手が開始される。籠手につけられた鋲が坤の表面を掠るような金属音が長屋に響き始めると、ようやくになり庄左ヱ門達の部屋から出てきた面々が、あぁ始まったのかとどこか困ったような顔で横目に見つつ出掛ける準備に取り掛かった。
組手が終わったのは、夕食を目前にして二人が入浴準備にかかる頃だった。
その頃には町へ出た面々も金吾も学園へ戻り、金吾に至っては娘を嫁に出した父親のような表情をしていたものの何事もなく喜三太との談笑に興じ、まさに平和そのものの様相を呈す。そんな二人の部屋の前を通り過ぎつつ暴れ疲れた顔で部屋に戻った団蔵と虎若は、木戸を開けるとそのままばったりと布団へ倒れこんだ。
大量の物が散乱する中で、よくも見事に布団へ倒れられるものだと感心出来るほどの正確さ。
それを本人達もどこか自嘲しつつ、母音に濁音をつけたような唸り声を漏らす。
「あぁあああ……つっかれたなぁ……」
「うん、マジ疲れた……。やっぱ久し振りに本気で組み手すると、気持ちいーけど疲れるなぁ……」
ぐったりと力の抜け切った体を横たえ、風呂に向かわなければいけないのを自覚しながらもそのまま指一本動かすことも出来ずに倒れ込んでいた。
やがて、視線を動かすことも面倒な虎若の耳に、がさがさとなにかを探す音が聞こえる。
「……団蔵、もう行くのー? もうちょっと休んでからにしない?」
「へ? 虎若だろー。やっぱ日々筋トレしてるだけあって、お前は元気……って、え?」
互いに声を投げたところで、はたと奇妙なことに気が付き、二人して身を起こす。その間にもがさがさというなにかを探しているような音は聞こえ続けていた。
勿論それだけであればまたネズミが無視が湧いてしまったかと笑い、また次の掃除の機会に怒鳴りつけられるだけだと受け流すことが出来る。
だが時折、そこに人の声のようなものが混じっていることに気が付いた。
ない、ないと言うばかりでなく、どうやら、いないと言っているらしい言葉に背筋に寒いものが走り抜ける。
やむことのない音に恐る恐る顔を見合わせ、二人はこくりと唾液を嚥下した。
「……せーので良いよな」
矢羽音を使うことも忘れ、それでもごく小さな声で団蔵が問いかける。その言葉に虎若は無言で何度も頷いて見せ、互いに唇を噛んで覚悟を決めた。
うるさいほどの心臓の音を押さえつけるように、右手で胸元を掴む。
「……せーのっ!!」
掛け声とともに、二人が同時に振り返る。
所狭しと物が積み上げられた室内。本来であればそこに見えるのはごみと衣類と土壁、そして押入れの木戸であるはずが、二人はすぐに異変に気付き、怪訝に眉間を寄せた。
ごみ山の上を、手の平ほどの大きさのものが登っている。それは酷いボロ布を身に纏っているものの手足は獣のような体毛が覆い、かと思えばざんばらな髪の頂上、つまり頭頂部にはなにやら枯葉で作られた冠めいたものを載せていた。
見える肌は人のそれとは比べ物にならないほどに赤い。なにを探しているのかきょろきょろとしきりに足元のごみ山を見回す頭から時折覗き見える顔は醜悪で、その耳もまた人とは違い、先が折れるほどに長く尖っていた。
それを視認し、二人は堪えきれずに叫び声を上げる。
「俺らの部屋になんかいるぅうううううう!!」
その声にようやくそれは振り返り、まさかという顔で二人を凝視する。そこから時を置かず、なにごとかと駆けつけた面々が部屋の木戸を開け放つ。その隙にそれは足元を擦り抜けて逃げ出そうとしたものの、その部屋の汚さに伊助が間髪入れず怒声を飛ばしたことで思わず身を竦めた。
怒声に少なからずショックを受けた二人とそれが、眉尻を下げたままほぼ同時に口を開く。
「こんなに居心地が良いのに……」
重なった声は三種。
それにいち早く気付いた乱太郎が床板の見えない足元を見、さらに声を上げたことでこの騒動は始まった。
−−−続.
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